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05 はじめての笑顔

 


 家に到着してもアクセルはリュシーの手を離さず、そのまま椅子に座らせた。手が離したかと思うと、リュシーのガウンを脱がした。

 リュシーは少し驚くが、彼はその場に屈んでリュシーの腕を確認している。


「傷にはなっていない」


「……」


 そして腕から、顎に手のひらを移動させた。顎を撫でられるようでくすぐったい。


「他に触られたところは?」


「いえ、どこも……。あの、すみませんでした……」


「無事ならいい」


 傷の確認が済むとアクセルは立ち上がった。リュシーも慌てて立ち上がる。


「これからは気をつけます」


「うん……どうした?」


 荷物を持って移動しようとしたアクセルの隣にリュシーもピッタリと並んでいる。


「ごめんなさい、もう少し一緒にいてもいいですか?」


 アクセルに嫌がられるかもしれないと思うと不安になるが、それよりもまだ恐怖が身体に残っていて一人になるのは怖かった。

 アクセルは小さく震えるリュシーを見下ろした。


「わかった」


 そう言うとアクセルはもう一度リュシーの手を握って歩きだして、リビングを出る。


「どこへ?」


「荷物を置きにいきたい」


 そのまま階段を上がり、彼の部屋に到達した。先日は門前払いをくらった部屋に今日はいとも簡単に入れてしまった。

 必要なものだけのシンプルな部屋だが、壁にいくつか絵が飾ってあるのは意外だった。絵が好きなのだろうか。


 クローゼットの前に仕事の荷物を置くと、彼は手をつないだまま無言で何かを考えている。


「どうしましたか?」


「着替えてもいいか?」


「は、はい、ごめんなさい!」


 リュシーは慌てて手を離して、くるりとアクセルに背を向けた。両手で顔を覆い「どうぞ!」と声をかける。

 しかし数十秒もしないうちにまた手は繋ぎ直された。


「ジャケットを脱いだだけだ」


 そう言うアクセルの口元は少し微笑んでいる、ように見えた。



 ・・


 静かな夜が始まった。


 使用人が作ってくれていた夕食を食べる前に、アクセルはリュシーにホットミルクを作ってくれた。

 いつもはすぐに仕事だと自室に入ってしまうが、今夜はリビングで仕事を始めた。リュシーも小説を取り出して近くのソファで読んだ。


 アクセルがペンを走らせる音と、リュシーがページをめくる音だけが、静かな夜に溶けていった。


 同じ空間にいることを許されることが、こんなに心を穏やかにしてくれるなんて知らなかった。

 恋愛小説を読みながら、リュシーは時々アクセルの顔を盗み見た。


「リュシー」


 初めて名前を呼ばれて、リュシーの身体は震えた。


「まだ怖いか?」


 もう心は凪いでいて怖くなどなかった。でも、もう平気だと言ったら部屋に帰ってしまうだろうか。リュシーが思い悩んでいると


「風呂に入りたい」


「そ、そうですか。入ってきてください!」


 さすがに風呂までついていくわけにはいかない。リュシーはすぐに返事をした。


「すぐに戻ってくる」


 彼は振り返らずにバスルームに向かったが、リュシーは今度は不安な気持ちにはならなかった。


 そろそろ眠る時間が近づいてきたなとリュシーが小説を片付けようかと立ち上がると、アクセルが戻ってきた。


 相当急いでくれたのだろう、すぐに戻ってくるという言葉通り本当にすぐ戻ってきた。三分もなかったのではないだろうか。

 バスローブはめちゃくちゃな着方になっているし、髪の毛からしずくはボタボタと垂れていて、タオルで拭く暇もなかったようだ。



「……あはは、そこまで急いでくれたんですか?」


 目の前にいる十歳年上の彼が、今まで何を考えているかわからなくて冷たく怖く感じた彼が、こんな情けない恰好をさらけ出してくれているなんて。


「ありがとうございます」


 おかしい、嬉しい、愛しい。そんな感情が溢れて涙に変わった。――いや、涙ではなく紫の花びらだった。


「初めて笑った」


 アクセルは近づいてきて、リュシーの目の横に貼り付く花びらを取った。

 彼の言う通り、フローラだとわかってから初めて笑ったかもしれない。ずっと張り詰めていた気持ちがようやくほどけた気がする。



「びちょびちょですよ」


 アクセルが肩にかけているタオルを取ったリュシーは背伸びをして、しずくを拭き取った。まるで大型犬のようだ。リュシーにされるがまま身じろぎもせずジッと待っている。


「すまない」


「いいえ」


「そろそろ寝るか」


 また手を繋いでアクセルは二階に上がっていく。恋人というよりは、きっと子供のような扱いをされているのだと思う。

 リュシーはいちいちドキドキしているのに、アクセルの表情は変わらない。

 そしてアクセルは迷わず自分の部屋の扉を開いて、リュシーを導いた。


「心配しなくていい、何もしない」


 先日宣告されたことを念押しされ、リュシーは苦笑いになる。やはり子供だと思っているようだ。


「私は床で寝る」


「そ、そんな……」

 

「床で寝ることは慣れている」


 リュシーをベッドに寝かせた後、彼はきっぱりと言った。そしてベッドの横に座る。

 そういえばこの人は騎士だった、そういう環境で眠ることもあるだろう。


「電気を消してもいいか?」


「はい」


 部屋は小さなろうそくの灯りに変わった。部屋が暗くなるけれど不安は感じない。隣にアクセルがいる。



「迷惑をかけてすみません」


「いや大丈夫だ」


「怖かったですけど、その後はずっとアクセル様と過ごせて嬉しかったです」


 天井を見ながらであれば、素直な気持ちは吐露できる。


「嬉しい?」


「はい。こうしてお話したかったんだと思います」


「そうか、君はずっと嫌なのだと思っていた」


「実は最初は嫌でした。あなたのことを何も知らなかったので。今はアクセル様のこと、もう少し知りたいと思っています」


「わかった」


 彼がわかったと言うのならきっとこれからは共に過ごす時間も作ってくれるはずだ。


 リュシーは世間知らずの十八歳で、親や使用人にしてもらわないと何もできない、きっと彼はリュシーのことを子供だと思っていることだろう。


 それでも夫婦として時間を過ごしていけば、リュシーだって大人になる。


 夫婦が何なのか、幸せな夫婦がどういったものか、アクセルと愛しあう夫婦になれるのか、それはまだわからない。

 まずは少しずつ家族になってみよう。


 明日からの日々に少し期待を抱くと、今までの不安が少しずつ和らいで、その安堵からリュシーは眠りに入っていく。

 

 リュシーから寝息が聞こえてくる。ろうそくの光に淡く照らされたリュシーの寝顔はあどけない少女だ。


「まいったな」


 アクセルは呟いて、天井を見上げた。

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