虫の居所が悪いせい
「藤本さんの怒りっぽい性格ですが……虫の居所が悪いせいですね。先ほど撮影したレントゲン写真を見ながら、一緒に確認してみましょう」
医者の言葉と同時に、机の上に置かれたモニタにレントゲン写真が映し出される。左側は正常な人間、右側は藤本さんのレントゲン写真です。医者が身体の部位を指し示しながら、詳しく説明をしてくれる。
「正常な人であれば、頭、お腹、足に虫が住み着いているんですが、藤本さんは少し違ってます。右肩、胸、そして、くるぶしが虫の居所になってるんですが、これらは医学的にあまり好ましくない居所だと言われているんです。虫の居所が悪いと体内の気が乱れてしまい、些細なことで苛立ってしまうようになるんです。実際にほら、私の説明に対しても、先ほどからずっと貧乏ゆすりをしているじゃないですか?」
医者の指摘に対して、藤本真一が眉を顰め、貧乏ゆすりの速度を上げる。昔っから自分が怒りっぽい性格であることは理解していた。それによって不利益を被ってきたことも事実で、何とか自分を変えたいと思い、仕事帰りにこの病院にやってきた。それにもかかわらず、『虫の居所が悪いせい』という説明に対し、藤本はどうしても納得がいかなかった。
「で、一体どうやったらその虫の居所とやらは良くなるんですか? 虫さんたちに正しい場所に戻ってくださいとお願いでもするんですか?」
皮肉混じりに真一が医者に尋ねると、医者は「虫に人間の言うことなんてわかりませんよ」と受け流す。
「実は結構厄介でしてね……虫の居所を正しい場所に戻すのではなく、虫自体を体外に排出するしかないんです。幸いにも、この虫は別にいてもいなくても身体に影響がないことがわかってますので」
「排出? 手術で取り出すとかですか?」
「いえ、動き回るものを手術で摘出するのはとても難しいんです。なので、藤本さんにはこれから毎日、殺虫剤を飲んでいただきます」
殺虫剤。そんな物騒な単語に、真一は思わず声を荒げてしまう。
「殺虫剤を毎日飲む!? 私を殺すつもりですか!?」
「落ち着いてください。おっしゃる通り、危険な行為ではあるんですが、今の怒りっぽい性格を治すためにはこの虫をどうにかしないとダメなんです。きちんと身体に害がないよう、量や頻度については説明しますので、どうかお願いします」
その後も医者と真一は押し問答を行ったが、根気強い医者の説得で、真一は渋々殺虫剤を毎日服用することに同意した。真一は診察室を出て、薬局で薬を受け取ってから帰宅した。玄関の扉を勢いよく閉め、家の中にその音が響き渡る。真一の帰宅に、慌ててリビングから真一の妻である和美が駆け寄ってくる。
真一は和美に自分の荷物を押し付け、わざと足音を響かせながら着替えのために自室へ向かった。着替えを済ませてからリビングへ入り、食卓に座る。食卓にはまだ食事が用意されておらず、先ほどの医者の件と相まって真一は少しだけむっとしてしまう。そして、ようやく和美が運んできた料理に口に入れた瞬間、抑えこんでいた怒りの感情が爆発する。
「何度言ったらわかるんだ! こんなくそまずい食事、食ってられるか!!」
真一は和美を怒鳴りつけ、そのまま手に持っていた小皿を床へと叩きつけた。ガシャンと音を立て皿が割れ、和美がびくりと体を震わせながら、その場にうずくまる。
「ごめんなさい……!」
和美が怯えた声で謝罪の言葉を口にする。しかし、その和美を見た瞬間、真一は我に帰った。そして、慌てて和美に駆け寄り、すまないと謝った。自分がこの怒りっぽい性格を治したい理由。それはまさに、目の前で自分に怯えている妻のためでもあった。付き合う前は笑顔を絶やさない明るい性格だった和美は、怒りっぽい真一との生活のせいでどんどん疲弊していっていた。笑顔は消え、あれだけ得意だった料理の腕も落ちてしまった。そのことに真一は気がついていたし、それをどうにかしたいと考えていた。真一は和美の肩を抱き、彼女にささやく。
「もう少し……もう少しだけ待っていてくれ。俺がこんな性格なのは、全部虫の居所が悪いせいなんだ。お前のために、きっとなんとかしてみせるから!」
真一の言葉に、和美がゆっくりと頷く。健気で、虫も殺せないような和美のため、俺は変わらなければならない。真一は自分にそう言い聞かせると、急いで処方してもらった殺虫剤を取り出し、勢いよく飲み込むのだった。
*****
「うーん、おかしいですね。ちゃんと、毎日殺虫剤を飲んでますか?」
経過観察のために再び訪れた病院。医者はレントゲン写真と睨めっこしながら、真一に確認する。
「私を疑ってるんですか!? ちゃんと言いつけを守って、毎日殺虫剤を飲んでますよ! いいかげんにしてださい!」
「あ、いえ、疑ってるわけじゃないんです! ただ、あまりにも殺虫剤の効果がなくて、驚いていたんです。私自身、こんなに殺虫剤に対して耐性のある虫は初めてでして……」
医者が不思議そうに首を傾げる。殺虫剤の量が少なかったせいで変に耐性がついてしまったのかもしれない。体質的に殺虫剤の成分が効きづらい身体なのかもしれない。医者は沸切らない態度でブツブツと説明を続ける。しかし、その説明を聞きながら、真一は怒りが湧き上がってくるのがわかった。殺虫剤を飲むと言う行為は決して楽な行為ではなかった。もちろん決められた量と頻度で服用を行ってはいたが、それでも危険な行為であることは確かだ。
それでも自分の性格を治すため、そして愛する妻をこれ以上悲しませないため、そのためにリスクを承知で言いつけを守ってきた。それにもかかわらず、効果がないだって? 真一は思いっきり机を拳で叩きつけ、感情のままに叫んだ。
「もういい! このヤブ医者が!」
真一は医者に罵声を浴びせ、そのまま診察室を勢いよく飛び出して行った。帰宅中も、家に着いても、真一の怒りは決して収まらなかった。リビングへ向かうと、机をひっくり返し、壁を殴る。足元にあったゴミ箱を蹴飛ばして、自分の頭を掻きむしる。どれもこれも虫の居所が悪いせいだ。真一は抑えきれない自分の感情に振り回されながら、そう悪態をついた。
そして、リビングでひとしきり暴れきった後、真一は家の様子がいつもと違うことに気が付く。周りを見渡し、違和感の正体を探る。そして、家のもの、それも妻の私物がなくなってしまっていることに気がついたそのタイミングで、床に落ちていた一枚の書き置きに目が止まった。
『もう限界です。別れてください』
その瞬間。興奮で熱くなっていた真一の身体が一瞬で冷めていく。真一は震える手で紙を持ち、そのまま祈るような気持ちで妻の携帯に電話をかける。電話に出ないかもしれない。そんな考えが頭をよぎったが、数回のコールで和美が電話に出て、涙声でごめんなさいと電話越しにつぶやいた。
「別れるなんて言わないでくれ! ついこの前言ったじゃないか! 俺もこの性格を変えるために頑張ってるって!」
「ごめんなさい。あなたが頑張っているのはわかっているんだけど、もうこれ以上生活を続けるのは無理なの」
「どれもこれも全部、虫の居所が悪いせいなんだ。医者に言われた通り、虫を殺すために殺虫剤だって毎日飲んでるし……きっと、変われるはずだ! あのヤブ医者はあんまり効き目がないって言ってたが、もっとちゃんとした殺虫剤を使えばきっと!」
「そんなことしてもきっと何の意味もないわよ。だって、あなたは殺虫剤に耐性がある身体なんだもん」
どういうことだ? 言葉の意味がよくわからない真一が尋ねる。和美はさめざめと涙を流しながら、言葉を続けた。
「今までもずっと食事に殺虫剤を入れてたのに……全然死んでくれなかったじゃない!」