もっともっと広い世界
この物語はフィクションである。
過去・現在・未来において実在する人物・団体・出来事その他に類似、或は上記を想起させる記述が本文中にあったとしても、それは単なる偶然に過ぎない。
一
七ヶ月前から、こうなることは予期していた。――
そうあることをむろん望んでもいたが、その一方で、やはり淋しい気持は抑えることができなかった。
彼女が夢を得るということは、即ち、別れを告げられるということであった。
これでいいんだ――。
竹下啓介は半ば諦めたように胸の中で呟き、肩を落とした。
彼女と親しくなったのは、一年と半年前のことだった。そして、この結果が予想できたのは七ヶ月前のことだった。何の不安もなく交際できたのは、一年にも満たない期間だったということになる。楽しく、倖せな日々だった。
外はまだ残暑がきつかった。秋の日差しにはほど遠い、二〇一六年九月下旬のことである。
啓介が彼女と出会ったのは、交際を始める更に一年半ほど前のこと、二〇一三年の秋、一四歳のときだった。出会ったというのは正確ではない。一方的に啓介が彼女に注目したのであった。一年半後に再び見かけるまで、記憶が薄まることはなかった。彼女はそれほど美しく、印象に残る少女だった。
それは或る舞台のオーディションだった。書類審査を経て集まった応募者は、審査員たちの面接を受け、課題を演じてみせることになった。
彼女は三番目に登場した。慣れていないのはすぐに分かったが、その巧拙を超えた異様な迫力は十二分に伝わった。声はやけくそのようによく通り、鬼気迫る表情を見せていた。細かい芝居はどう見ても作りすぎだが、目を離せない魅力があった。何よりも、その瞳が印象的だった。大きく見開かれた瞳は、横から見ると飛び出さんばかりで、くるくるとよく動き、文字通り相手を呑み込んでしまいそうな勢いを持っていた。何か、相手に魔法でもかけているかのようだった。
啓介はその演技と、それ以上に彼女本人に惹かれてしまっていた。この娘が合格するのは当然だと、業界歴六年になる経験から確信を持ち、どうしても彼女と同じ舞台に立ちたいと思って課題に臨んだ。
啓介の予想は的中し、彼女はオーディションに合格したが、啓介が共演することは叶わなかった。オーディションに落ちたことよりも、共演できないことの方が残念だった。
舞台のポスターが出来上がり、ネットにも上がった。顔写真と名前入りのポスターから、啓介は、彼女が高宮千生と言う名前であることを知った。ただ、千生の読み方が判らなかった。
チケットを買って劇場まで観に行った。小さい役ではあったが、印象に残る芝居で、今後も注目したいと思ったが、しかし、その後、名前を見ることはなかった。
啓介も、ほどなくして芸能界を引退した。
二
二〇一五年の四月、啓介は地元の都立高校に入学した。偏差値60の進学校で、部活動も活発な、比較的自由な校風の雰囲気のよい学校だったが、啓介は帰宅部になった。高校では、もう休みたかった。放課後は図書室の書庫で読みたい本を漁ったり、友人とショッピングモールで駄弁ったり、時には吉祥寺に出て映画館に行ったりした。下足箱のあたりで、千生を見かけたのは、そろそろ、そんな生活が定着してきた頃のことだった。
忘れようとしても、忘れられない顔だった。いや顔ではなく、その瞳が啓介の目を捉えた。およそ一年半ぶりだというのに、見間違うこともなかった。思わず声を喚げそうになったのを、啓介は今も覚えている。
校門とは別方向へ歩みを進める彼女を、啓介は追った。同じ学校にいれば、また機会はあるかもしれないが、待ってはいられなかった。紺のブレザーの制服を着た千生は、確かに、この学校の生徒なのだ。おそらく同じ一年生なのだろう。
「ね、中学の頃、芸能活動してたよね?」
前置きも何もなく、後ろからいきなり声をかけた。不審者そのものの所業に、千生は一瞬、身体をピクリとさせたが、そのまま何事もなかったように歩き始めた。
「オーディションで一緒だったけど、覚えてないかな?」啓介は、自分は決して不審者じゃないんだという思いを籠めて懸命に言葉を続けた。千生は歩みを止め、少しして振り返った。
「どのオーディション?」
一年半ぶりに正面から見た千生は、やはり美しかった。言葉を返してもらった嬉しさに、啓介はこの機会を逃すまいと必死だった。
「君が出演した舞台。僕は落ちちゃったんだ」
しかし、次の千生の言葉は意外だった。
「そう…。でも、私が合格したのはあれ一つだけなんだ。公演が終って間もなく、事務所から馘にされちゃった…」
あれほど才能に輝いていた彼女が事務所を馘になった? 一体どういうことなのか。それで、あの舞台の後、活動を見ることもなくなったのか…
「そうだったんだ。…僕もその頃、芸能界を諦めたよ」
「何年くらい芸能界にいたの?」
啓介は少し、自分の身の上話をした。児童劇団に入っていた話、ユニットでテレビドラマに出るようになり、何故か注目されて芸能事務所に引き抜かれた話、一時期は売れていたが、声変わりを切っ掛けに何もかもうまくいかなくなった話…
「…オーディションを受けては落選する毎日になってね。…希望者はたくさんいるし、代わりの人間には全然困らない。もう、ここに自分の居場所はないんだなって思った…」
「居場所…」千生は、この単語に強く反応したようだった。
「私には最初から芸能界に居場所はなかった気がする。呆れるくらい書類を送って、それでたまにオーディションに進んで、仕事は一度だった…。六年活躍できたって、凄いよ」
あの舞台は、彼女の唯一の仕事だったんだな…。啓介には、千生がそこまで、仕事を得るために苦労をしなければならない理由が分らなかった。何か自分には理解の出来ない力学が働いていたのだろうか。 一体何が問題とされてオーディションに落とされ続けたのか。…
それだけ苦労していた彼女には、自分のとるに足りないキャリアでも、大したもののように見えるのだろうか。
「ありがとう」
顔がほころび、言葉が自然に出ていた。自分のことが認められて嬉しかった。千生と、一瞬心が通じ合ったような気がしていた。しかし、楽しい時間はすぐに終ろうとしていた。
「ごめんなさい、私、これから部活なの」
千生がどこかに向っている途中なのだったことに啓介は気づいた。 気のせいか、その言葉には残念そうな響きがあった。啓介は嘗てないような切実な瞳を見せて千生に言った。
「また、話できるかな? 僕は四組の竹下啓介」
「いいよ。…私は高宮、高宮千生。二組よ」
「いつき」と言うのか、と啓介は初めて知った。
「いつき」、どんな意味だろう?
千生が去った後も、啓介は暫く名残惜しそうにその場に佇んだ。
啓介と違って、千生は中々に多忙な高校生活を送っていた。部活、アルバイト、学習塾…
二人が逢うのは、必然的に隙間時間を縫うことになったが、着実に距離を縮めていた。
都立の普通高校に、芸能活動の経験者がそんなにいる筈はない。キャリアに開きはあっても、啓介と千生は、同志のような感情が芽生えていた。
啓介は幼少期から目立つことが好きで、自己表現の場を求めて空回りすることが多かった。業を煮やした両親は、伝手を頼って子役劇団に入れることにした。劇団の水が啓介には合っていたようで、まさに水を得た魚のように活き活きと活躍した。劇団は主催者がテレビ局のプロデューサーと知り合いで、時々テレビドラマに劇団ぐるみでユニット出演していた。そこでも啓介は悪目立ちするくらいにやりたい放題だったが、そんな啓介を気に入ったディレクターがいたのだから、世の中、何が幸いするか分らないものである。もっと活躍できるようにしたいと、そのディレクターの伝手で芸能事務所に移籍することになったのが、二〇〇八年、啓介九歳の時の話である。
それからの数年間、啓介の活躍は目覚ましいものだった。向うところ敵なしの連戦連勝とはかくの如きものであったろう。テレビドラマ、映画、舞台、ミュージカル、本業以外のバラエティ番組、そしてCDデビュー…
陽気で体力にも恵まれていた啓介は、現場の人間にとっては、多少無理をさせても大丈夫なところがあり、非常に使い勝手がよかったのである。
そんな日々もやがては終る。
「子役は大成しない」という言葉があるが、過去にこの言葉が啓介ほど的中したこともなかったろう。啓介にも一人前に思春期が訪れ、自我が芽生えるようになると、仕事への支障となった。それまでは何も考えずに平気で出来たようなことができなくなった。考えるキャラは求められてはいなくて、キャラを変えようとしても受け入れられるまでには至らなかった。
それが実力不足だったというのはたやすいが、時流や運というものもある。本当に啓介ひとりの責任に帰していいものかは判らない。
「神童も二十歳過ぎればただの人」という言葉もあるが、啓介は二十歳を待たず、十三才の時にはただの人になりかけていた。
啓介はそれを、声変りが悪いのだと思うことにした。そうとでも思わなければ遣り切れなかった。「声変り」した後、オファーが次第に減り始めても、啓介は何とか持ち直そうと、自ら仕事を求めてオーディションを受け続けた。千生と同じ舞台の仕事を求めて共に受けたオーディションは、彼のキャリアの最終期であった。
舞台での千生の芝居を堪能した啓介は、実に気分が晴れ晴れとした。おそらく、自分はこのまま、己の意に反してフェードアウトしていくだろうと思った。それは止められないだろう。最後は自分で幕を引きたい。啓介は、六年に及んだ芸能活動からの卒業を決めた。
あれほど舞台で輝き、啓介が今後の活躍を期待した千生が、事務所を馘になったというのは非常な驚きだった。或は自分が観なかった日の公演で、何か酷いへたをうったのだろうか? その答えが啓介に分る筈もなかった。
三
二人の再会は暫く後の、珍しく部活が休みとなった金曜の放課後だった。
「アイドルになりたかったって言ったら、ちょっと引く?」
千生は啓介の眼を覗き込むように顔を僅かに近づけて言った。何故か、二度目にして早くも千生は啓介に対して既に立場が上のように接しているのだった。啓介には、他人に安心を与えるような気安さが漂っていた。
「どうして? ステキじゃない、アイドルなんて。いろいろなところで頑張ってる姿を観ると、もう勇気百倍って感じだよ」
千生の大きく美しい瞳に射すくめられて、啓介は些かドギマギしながら答えた。特に、その日の千生はポニーテールだった。
「私、アイドルになりたくて、とにかくなりたくて、もうオーディションをいっぱい受けたの。たった一つだけ、私を引き受けてくれた事務所があって、そこの養成所に通いながら、次は仕事を得るためのオーディションを受け続けたわ」
「うん」啓介は頷いて、次の言葉を待ったが、話題は意外な方向に移っていた。
「啓介は、芸能活動が原因で苛められたりしたことあった?」
啓介は少し考えてみなければならなかった。
「たぶん、あったんじゃないかな。…あったと思うよ。子供の頃なんか、妬みが酷かったから、苛めもあったかもしれない。でも仕事が楽しすぎて、気にしてる暇なんかなかった。ちょこちょこあったかもしれないけど、こいつら莫迦だなぁと思って遣り過してた」
「或る時ね、養成所の人から、来年の契約は更新しないと説明されて、書類を渡されたの。頭が真っ白になって、理由も訊かなかった。訊くことも忘れてた…そのあとはどうやって事務所を出て、家まで帰ったのかも覚えてない…」
両親も立ち会わせずに、中学生にそんなことをするのかと啓介は驚いた。
「でも、家に帰ったら少し落ち着いたの。事務所はあそこだけじゃない、また、挑戦すればいいって。更新なしの話はパパとママには、また明日にでもしようって」
そんな目に遭ってもまだ立ち上がろうとした千生を、啓介は素直に凄いと思った。
「次の日は、なんだかすっきりした気分で学校に行ったわ。凍えつくような日だった。地面には一面霜が降ってた。出来るだけ晴れやかな顔をして、教室に入って挨拶したの。『おはよう』って…」
啓介は興味深くその続きを待った。
「その時気づいたの。教室の雰囲気がヘンだって。すごく冷ややかで、なのに生暖かい感じもして、厭な感じだった。…理由はすぐに分ったわ。結露した窓ガラス全面に、私のヘタクソな似顔絵や悪口が指で描いてあったのよ」
啓介は思わず目を泳がせた。
「クリスマスのショウウィンドーみたいだと思ったわ。白く吹き付けたような、画や文字が、輝いてた。…」
その光景が、はっきりと目に見えるような気がした。
「心が折れちゃったの、あの時、完全に、ポッキリと…。昨日の今日だったもん。…人生最悪の日だった」
世の中にこれほど心を打ち砕くような二連発があるだろうかと、啓介は、事務所の人間と、そのクラスメートたちに怒りを覚えた。
「もう、芸能界なんて懲り懲りだと思った」
「つらかったね…。千生と同じ学校の同級生でいたかった。そんなことした奴らを叩きのめしてやりたかった」
啓介が経験したかもしれない苛めとはまるでレベルが違っていた。 一体どうして、芸能活動をしているというだけでそんなことができるのだろうか。
「なんてこと言うのよ、莫迦…」
千生は思わず涙ぐみ、すぐに打ち消すように笑い始めた。啓介はこの話題から離れようと、かねてからの疑問を訊ねた。
「ね、ずっと訊きたいことがあったんだ」
「何かしら?」
「『千生』って、どんな意味があるの?」
「面白い。そんなこと訊くのね。…欲張りな名前なのよ。たくさん栄えますように、豊かで実り多い人生を歩みますように、大きな愛ですべてを包み込む人になりますように。凄いでしょ。名前負けしちゃう」
「確かに欲張りだ」
啓介は微笑んだ。そして思った。
大丈夫だよ。千生は名前の通りだよ。
梅雨の合間の晴れ渡った日曜日、千生と啓介は、他の一組のカップルと合同でダブルデートすることになった。高校で初めての中間試験が終った打ち上げのようなもので、場所は西武園遊園地だった。
最寄りの小平駅に集合した四人は、西武多摩湖線に乗り、西武遊園地駅で降車した。夏を感じさせる久々の晴れ間に、人出は多かった。
もう一組の二人は、啓介の共通の友人で、別のクラスの同級生だった。三人は小学校時代からの幼馴染みだった。名前は千早三郎、名島順子と言った。三郎と順子は中学時代から交際を始めて、もう三年目になるのであった。
二組のカップルは入園すると、待ち合わせ場所と時間を決めてすぐに別行動をとった。
名物である大観覧車やメリーゴーランドに乗ると、もう昼食時間だった。千生は昨夜一生懸命に作った数人前のサンドイッチを啓介に振る舞った。
「小六の時、もう四年前ね、この先の西武ドームでコンサートを観たの」
昼食をとって人心地つくと、ふと、千生が遠くを見ながら言った。視線の先は、そこから見えない西武ドームのようだった。
「私の人生を変えた、…変えたかもしれない場所。そこでコンサートを観たの。興奮して、元気を貰って、どうしてアイドルってそんなことができるんだろうって不思議に思って、それでなりたいと思った」
アイドルになりたいという切っ掛けは、そういうことだったのかと啓介は何となく納得がいった。
「みんなとっても綺麗で、スポットライトを浴びてキラキラしてた。一挙手一投足に釘づけになって、三時間目を離せなかった。…私もあんなふうに、輝く場所を見つけたい。そして、その輝きで、自分がそうしてもらったように、みんなを倖せにしたい、元気にしたいって思った。自分もそんな存在になるんだって…」
相変わらず遠くを見ながら千生は話していた。自分はどうだったろうかと啓介は考えた。ただただ、仕事が楽しくて続けていた。誰かのためなどと考えたこともなかったなと、自嘲を覚えた。
「…事務所が決って、養成所に行くようになって、周りは凄い人たちばかりだった。意識も高いし、スキルもあるし。…この人たちに負けたくないって思った。自信なんてなかったけど、でも負けたくないって気持ちだけはあった。…負け続けたんだけど…」
――負け続けた。
自分も、自らオーディションに臨むようになってからはそうだったじゃないかと啓介は思った。確かに、負け続けだった。あれは何に負けていたのだろうか? 他人にだろうか? それとも、自分自身の何かにだろうか?
「そんな毎日の中で、いつの間にか、見てくれる人を倖せにするよりも、自分がステージで喝采を浴びることばかり考えるようになってオーディションを受けていたんだ…」
千生はそこで言葉を区切り、少し間があった。啓介は次を待った。 思い切ったような口調に啓介の耳には響いた。
「私の敗因はそこだったのかな…」
或はそうだったのかもしれないと、啓介は思った。自分が自分がという焦りが自然と態度に顕れて、審査員に不穏な気持を抱かせたということは、あり得る話だった。いや待て、それは千生ではなく、自分の話ではないのか――
「誰にも分らないよ。そんなことは…」
半ば自分を弁護するように、啓介は言った。
千生はそこでやっと啓介の方を見た。
「アイドルって、ファンに対して滅私奉公して、夢や愛を与える存在じゃないのかなって、最近思うようになったの。前は分ってなかったんだけど…」
後悔というよりも、大切なことを誤解したままオーディションに臨んでいた過去の自分に言い聞かせているように、啓介の耳には響いた。
「もう一度チャレンジしてみるの?」
啓介は思わず訊いていた。もしもそういう気が千生にあるのだったら、自分の持てるすべてを動員して協力したいと思った。しかし千生は首を振り、啓介の眼を見ながら言った。
「いい。今が楽しいもの」
その後しばらく、千生と啓介は園内を話しながら散策した。啓介は話術が巧みで、千生は聞いていて飽きることがなかった。やがて歩き疲れて茂みに腰を下ろすと、啓介の人差指の手の甲側第二関節の辺りに血が滲んでいるのを千生は見つけた。
「草か何かで切ったかな」
「ちょっと待って」
「あっ…」
千生が美しい形の爪を備えたその白く長い指を差し出して、自分の手を握るのを啓介は驚きと共に見つめた。千生は躊躇いもせずに、出血しているあたりを口にあてて血を拭った。一瞬の出来事だった。
それから、ポーチからバンドエイドを出して指に巻きつけてくれた。
丁度、腕を組んで歩いていた三郎と順子が、通りかかってその一部始終を見ていた。二人は邪魔をするような野暮天ではなかった。ただ、後で驚かせようと、順子はスマホで何枚かシャッターを切った。 自分のインスタグラムに、ほほえましい光景としてアップロードするつもりだった。
――インスタグラムにはその日のデート風景が数枚と、それとは別に啓介と千生の例の光景が、三枚掲載された。唇に指がふれている写真、千生がポーチに手を伸ばし、隣で啓介が放心している写真、千生が啓介の指にバンドエイドを巻いている写真。
かなり後で、一枚目の写真がトリミングされ、画像アップローダーで晒されることになった。
誰の仕業なのかは判らなかった。三郎がその軽率さを責め、順子が詫びようとしたときには、千生は転校した後だった。
四
千生の交友関係は大きく分けて三つあった。クラスメートの仲のいいグループ。かるた部の部員たち。そして、啓介とその友人たちである。
初夏から夏、秋から冬と、季節は巡り、千生はこの三つのグループを毎日目まぐるしく渡り歩いていた。
啓介と千生が過ごす時間は、割合としては最も少なかったが、濃密なものだった。三つの交友関係の中で、最も気がおけないのは啓介との仲だった。媚びる必要も、嫌われないように気を遣う必要も、気に入られようと努力する必要もなかった。自然体で接して、啓介はそのまま受け入れてくれた。営業トークも営業スマイルも必要なく、いつも千生は心から微笑んでいられた。
中高生の男女が交際するというのは、どういうことなのだろうか。単なる異性の、友達以上、恋人未満の関係なのだろうか。それとも、少し遠い将来まで見据えた交際なのだろうか。それは人によるとしか言えないだろう。
千生にとって、啓介の存在はやすらぎそのものだった。このまま一生でも共にいられるかと誰かに問われたら、出来ると言ったかもしれない。
ずっと一緒にいられるか? その問いの答えは、啓介も同様だった。千生の場合とは違って、やすらぎではなく、常に適度な刺激を与えてくれて、退屈することがないからだった。あのオーディションで感じた時の衝撃が、ずっとそのまま啓介の中には存在しているのだった。
共に言葉に出したことはなかったが、互いに、このままずっと二人で一緒にいたいと思っていた。
更に成長すれば、想いだけではどうにもならないことが分かる。気が変ってしまうということも十分あり得るし、生活や経済状態という現実的な問題も関わってくる。現在の二人の想いがずっと続くことは保証できない。
それでも、今の想いは真実なのであった。
二〇一六年の二月。
学年最後の定期考査の最終日に、啓介と千生は午後から半日過ごすことにした。二人は、千生が乳幼児の頃から姉と友に母親に連れて来られていたカラオケボックスに行った。
二人は暖房の効いた室内に入るとコートを脱ぎ、ハンガーにかけて腰を下ろした。
「テスト、どうだった?」
「訊かないで」軽い鼻息と共に笑いながら即答する千生を見て、啓介は察した。充実した楽園のような高校生活での、千生の唯一の泣き所が、成績だった。塾にも通い、宅習も欠かさないのに、中位から抜けることができないでいた。現在の成績のまま推移すれば、所謂「いい大学」への進学は困難だった。
「どうするか、いよいよ覚悟を決めないといけないみたい。このままの生活を続けるのか、受験勉強に絞るのか。それとも…」
「それとも?」
挨拶代りに無粋な話題を振ってしまったばかりに、いきなり深刻なムードになってしまったことを啓介は後悔した。それにしても、「このままの生活」という言い方は何であろうか…
「歌いましょう? せっかくカラオケに来たんだから」千生は陽気な声を出してリモコンを操作し、リクエストした。
「ママがよく歌ってたの。何度も何度も…。だから覚えちゃった」
出逢った頃は こんな日が
来るとは思わずにいた
Making good things better
いいえすんだこと 時を重ねただけ
疲れ果てたあなた 私の幻を愛したの
「センセ、いきなりそれ歌う?」啓介はすこし引き気味に声をかけた。確かに千生の歌唱は見事だったが、これはカラオケの〆の曲ではないのか…
「上手でしょ? 啓介も何か歌って」
千生は意に介さずに、リモコンを啓介の方に押しやった。いつものように、千生は啓介に何の遠慮もしていなかった。したいように振る舞っていた。それはいつも、啓介にとってこの上ない悦びだった。千生が自分に対してわがもの顔に振る舞う、そのことが嬉しかった。但し、今日のそれは些か無理があるように思った。
「参ったな…。ね、何を言いかけたの? あ、何か頼もうよ。喉乾いちゃった」
啓介は内線電話を手に取ってメニューを開いた。今日はどうも重い雰囲気が室内に漂っていた。こんなことは初めてだった。
「本当に志望校に入りたいなら、生活を改めるしかないと思うの。…もちろん、本当に入りたいと思ってる。…そのために、区切りを付けたいと思う」
「どんな区切り?」
「最後にもう一つだけ、オーディションを受ける――」
今日はそのことを打ち明けたかったのかと、啓介には千生の目的がやっと分った。
千生が嘗て西武ドームでコンサートを観て、アイドルを目指そうと思ったグループを仮想敵として結成されたアイドルグループが、三年ぶりのオーディションを開催すると発表して話題になっていた。今や、本家を凌がんばかりの勢いがあったそのグループへの応募者は、おそらく数万人に及ぶのではないかと予想されていた。採用が何人にせよ倍率が数千になることは確実だった。
「なんとなく、千生はこのまま終ってしまうような人じゃない気がしてた。やっぱり凄いよ、千生は」啓介は受話器を戻して千生に顔を向け言った。
「莫迦だと思ってるでしょ。まだ無理な夢にしがみついてるって」
「それはないよ。絶対に」
啓介は強く首を振った。
「恋愛禁止のところか…。オーディションに受かったら、俺のことは切らないとね。成功したいならそうすべきなんだ。そのときは喜んで、千生を見送るよ」
啓介は、何故か根拠もなく、今度の千生は合格しそうな気がしていた。
「そんな、先走らないで。合格はしたいけど、出来るなんてとても思ってない…。メロンソーダお願い」
千生は慌てて啓介の自信を打ち消そうとした。実際、合格した暁には彼氏とは別れなければならないのは事実だったが、いきなりその心配をするものだろうか…。
啓介は再び内線電話を取ると、メロンソーダとコーラを頼んだ。
「今の学校生活は、やっぱりつまらない?」
「そんなことない。とっても楽しいよ」
――でも、物足りないんだ。
だから受験一本に絞り切れずに、再び挑戦しようとしているんだね、と啓介は思った。
夕方まで、カラオケボックスに二人でいた。
春休みを経て、二人は二年生に進級した。
それからは数か月おき、定期的に、啓介は千生からオーディション合格の知らせを受けた。
オーディションを受ける心構えとして、千生は喝采を受けるという願望は出来るだけ抑え、他人にパワーを与えたいという気持を大切にしたいと思った。他人から受け取るだけでなく、何かを与える人になりたい、そう千生は願うようにして、オーディションに臨んだ。
セミナーを受講して、その回から数人選ばれる、一次書類審査を免除されるシード権を得た千生は、二次オーディション、三次オーディションと突破していった。最終審査である四次オーディションまで、約四千倍の倍率を突破して合格したのは、九月のことだった。
それまで、オーディションの前日は啓介が励まし、結果の報告を受け取ると、啓介は我がことのように、千生と共に喜んだ。
倍率がたとえどれほどであろうと、啓介は千生が合格することを信じていた。
「何も飾らなくていいよ。そのままで十分魅力的だから。普段の、ありのままの自分を、自信を持って出していけばいいよ」と、オーディション前日にはいつも同じことを言って励ました。
「入学した時とは全然違ってるよ。いろいろ経験して、ほんとに面白くなった」という啓介の言葉は本音だった。
千生は、部活、アルバイト、普段から目立たぬよう、嫌われぬようと慎重に心がけている交友関係などを通して、一回りも二回りも大きな人間になっていた。
ひたすら、アイドルへの道を目指していた中学時代は、それがために世間が狭くなり、人間の幅も狭めていたのかもしれない。高校に入ってその呪縛から一時解き放たれたことで、スポンジが水を吸収するように自然に様々なことが流れ込み、人間を豊かにしたのだろう。そうか、あの頃の、芸能活動一本だった自分も、同様に人間の幅が狭くて、オーディションの合格に繋がらなかったのかもしれないと啓介は思った。そんなことを気づかせてくれただけでも、千生と出逢ったことには重要な意味があった。
全てのオーディションを終えた労いと祝辞が終ると、二人にとって現実的な話が始まった。
「私、転校することになる」
学校傍の純喫茶店に行った二人は、奥まった席に座っていた。とても何かを食べながらという気分ではなく、共にブレンドコーヒーを頼んでいたが、手つかずのまま冷めかけていた。
「さすがに、ここで芸能活動は許してないよね。…仮に許可が出ても、両立は難しいしね。…」
「芸能界が、入ったら二度と戻って来られる場所じゃないのは分かってる。だから命懸けでやりたい。芸能コースのある高校に行って、心置きなく仕事する」
「一生懸命仕事したい気持は分ったけど、そこまで悲壮になることはないと思うなぁ…」
「そのくらいの覚悟でいたいの」
言い終ると、千生は目を伏せた。
千生にはもう一つ、言いたいことがあるのが、その後の妙な間で推測できた。とても言いづらいが、言わなければならないことがあって、言い出しかねているのが啓介には分った。
啓介は自分から切り出して、千生の負担を減じることにした。
「男は切っとかないといけないね。あと、SNSも全部消しておかないと。もう話はあった?」
「合格者発表の後、ひとりひとり呼ばれて説明があった。念書も取られたわ…」
「念書? 本当に?そこまでやるのか…」
「徹底してるよね。ビックリしちゃった」
千生は苦笑いしたが、やがて表情を改めた。
「啓介…。ごめん…」
「何も謝ることなんかないよ。言ったじゃない、入ったら二度と戻れない場所に行くんでしょ? 足を引っ張りかねないものは、何もかもキッパリと棄て去らないとダメだよ」
啓介も嘗ては芸能界にいたことがあるので、その世界の、傍から見れば異常な習慣にも麻痺しているところがあった。しかし、これが自分のような人間ではなく、芸能界と無縁な生活を送っている少年少女だったら、きっと耐えられなかったのではないかと思った。ある日、突然に芸能事務所が彼氏彼女を連れて行き、何の法的根拠もないのに、一切の交際を禁じてしまうのである。今どき、そんなことが許されるのだろうか。
その一方で、それでもやはり、不特定多数のファンを相手にするアイドルとは、そういうものかもしれないとも思う。明石家さんまが言ったという、
「『明日大阪で握手会、明後日仙台で握手会、来てね』って言って、飛んできてくれる男なんておれへん。彼氏だって旦那だって、そんな男いない。ファンだけや、そんな我儘についてきてくれるのは。だからアイドルの恋は隠さなあかん。それがファンへの誠意や」
という言葉も、或る意味正しいとも思うのである。それが、アイドルという職業を選んだものの犠牲ではないかと。
いつもニコニコファンに笑顔で手を振っておきながら、休みの日には彼氏とデートしていると知ったら、やっぱり自分たちへの笑顔は営業用のものなのかよ、と思うファンもいるだろう。そうなったときには、それでもいい、それがアイドルの営業活動だと納得できる人間だけファンを続け、許せなければ潔く去ればよいだけのことなのだが、妙にこじらせてアンチ活動を始めてしまう厄介な人間もいる。
いることを隠す、のではなく、いっそ禁じてしまうという方向に事務所が走るのも、厄介事を嫌う人気商売としては仕方ないのかもしれない。
啓介は、これはどうも、事務所の先走りというよりも、ファンの民度の問題ではないかと思うのだ。純粋に「アイドル」として応援している者の他に、真剣な恋愛対象として捉えてしまっている「ガチ恋」勢などという厄介な種類の人間が少なからずいるのだから。
これが俳優とアイドルの決定的な違いなんだなと、啓介は実感するのだった。
現実とはやはり重たいものだった。しかし、必要な話題だったのだから仕方がない。立場上、合格おめでとうと喜んでいるだけでは済まないのだ。
二人はすっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干すと、店から出た。このまま帰宅するのであった。
手を振って二人は別れた。
七ヶ月前に打ち明けられた時から、きっと今回は、千生は合格するだろうと確信していた。
この七ヶ月、そうあることをむろん望んでもいたが、その一方で、その時必然的に訪れることに対して、淋しい気持はどうしても抑えることができなかった。それは、仕方のない感情なのだ。
彼女が夢を得るということは、即ち、別れを告げられるということであった。両方はあり得ない。
これでいいんだ。竹下啓介は半ば諦めたように胸の中で呟き、肩を落とした。
どうも今日の帰り道は、かなり遠回りすることになりそうだった。
五
オーディションの四次審査は、少し変わったものだった。双方向の配信を自宅から顔出しして、事務所が指定した日数に亘って行い、一般視聴者からも審査を受け、点数をつけてもらうのである。
ここまで残った人間であれば、合格者になっている確率は恐ろしく高く、正式なデビューを待たずして、顔を売り、ファンから青田刈りもしてもらえる、という意図もあったのだろう。
視聴者はコメントで様々な質問や要望を出す。曰く、何年生? 出身は? 身長は? といった質問から、服を見せてだの、方言で喋ってだの、ちょっと歌を聞かせてだの千差万別である。一般常識の言葉遣いや、アイドルとしてのファンのあしらい方、対応力などが、こうして測られるのである。
千生は三日目の配信で、好きな歌として一部をアカペラで披露した。
私のわがままなのに
あなたは微笑みながら
ぎゅっと抱いてくれた
頑張れって
昨日
夢をひとつ叶えるため
大事な人と別れた
恋はきっと邪魔になるから
強く 強く
なりたいと願った
夢がやっと叶った時
私は思い出すわ
ひとつ棄てて ひとつ手にした
これで これで
よかったか教えて
六
千生が転校する日が来た。
千生は校門で待ち構えていたクラスメートの数人が、いつも以上に話しかけてきて、教室に入るのを引き留めようとしているのを察した。一人が腕時計を確認して、教室まで手を引いた。
扉を開けると、クラスの全員が拍手して迎えてくれた。学級委員が花束を持って千生に駆け寄ってきた。
千生はやがて黒板に目を奪われた。
色とりどりのチョークで、隅から隅まで、千生に対する餞の言葉が書かれていた。中央には、イラストの得意なクラスメートが可愛らしく描いた千生の似顔絵が配置されていた。
全員が、千生の新たな旅立ちを寿いでくれた。
入学して以来ずっと、クラスに溶け込もうと努力を惜しまなかった千生の行為が、クラス全員からのこのような行動となって返ってきたのだ。千生の心がけは無駄にはならなかった。
啓介とも、今日が別れの日だった。
この期に及んで、もう二人が話すことはあまりなかった。
いや、啓介は本当は言いたかった。
「グループを卒業するまで待っててもいいかな?」と。
しかし啓介はその言葉を呑み込んだ。千生は新しい世界、もっともっと広い世界に自ら果敢に飛び込んで行くのだ。余計な荷を背負わせてどうするというのか。
二人は校門近くの桜並木に背をもたせかけて、言葉もなく、しばらく見つめあっていた。
こういうときは、男から切り出すものだと、啓介は未練を振り切るように言葉を発した。
「俺が千生の最初のファンだからね。そして誰よりも一番推すからね。頑張ってアイドル界で天下を取れよ」
「もちろん」
千生は満面の笑顔を作って応じた。
「じゃあ」と啓介はその場を去った。
早く行かないと、千生に涙を見られそうだった。
校門を出た啓介は、歩きながら、大学に進学したら演劇部に入って、また、一からやり直そうと思った。もしまた舞台に立てるなら、映像作品に参加できるなら、観に来てくれる観客のために、粉骨砕身努力しようと思った。
千生が自分に目標を持たせてくれたのだ。
愛や夢を与えるのがアイドルなら、それは、千生のアイドルとしての初めての仕事だった。――