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そんな理由で、川越さんはお礼が言えない

「……最初は、お弁当の件だったわね」


「弁当? あぁ、そう言えば先輩、いつも弁当でしたね」


 彼らが勤める大見商事には社食がある。

 食券を自販機で購入し、受付で食券とその料理を交換するシステムを導入している。

 だが、弁当を持ち込みそこで食べる人もいるし、外の店に食べに行く者もいる。

 それを好む社員らには、卓也たちがついさっきまでいた食堂に足を運ぶ者が多い。

 メニューもボリュームも多く、近隣の企業で働く社員達からも受けがいい。

 いわゆる人気店だ。

 それでも行列はできない。

 それくらい席も多いし部屋数も多い。

 卓也もしょっちゅうあの店を利用する。

 社食も利用することはあるが、弁当を買ったり作ったりすることはない。


「私はずっとお弁当。入社してしばらくは、社食を利用したり、そこでお弁当食べたりしたことはあったけどね」


 そういえば、と卓也は思い返す。

 川越はいつも自分で作った弁当を、自分の席で食べていた。

 思い返せば、勤務中、部屋から出ることはあっても会社から出ることはないな、と卓也は気付いた。


「気の合った同期や先輩と一緒に社食でお弁当食べてた時だったわ。入社して……そろそろ一年過ぎる頃だった」


 ここから本題か、と卓也はやや緊張する。

 本人しか知らない話も聞けるはずだから。


「あたし、卵焼きを作るのが好きなの。……最初は料理が下手だったんだけど、お母さんが作ってくれた卵焼きがおいしくてね。それに近づこうとして、毎日それだけは欠かさず作ってた」


 卓也は、川越の声がやや明るくなったように感じた。


「練習も兼ねて作ってたから、どんどんおいしくなっていってね。一緒に食べる人にも味見してもらって、その人からお礼におかずをもらったりもした」


「おかずの交換、ですか。楽しかったでしょうね」


 それにつられて卓也の声もやや明るくなる。

 が、それも一瞬のこと。


「ある日のお昼、いつものように一緒にお弁当食べてた。そしたら、見知らぬ男性社員が隣に座って『おいしそうだね。僕ともおかず交換してほしいな』って」


 それもそうか、とも思った。

 いい思い出の昔話ではないはずだから。

 それに加えて、話のこの急展開。

 卓也は、聞いてる限り正体不明の人物のいきなりの登場に、気持ちが落ち着かない。


「だ、誰です? その人。今もいるんですか?」


「さぁ? でも私達にはまだ後輩がいなかったから、新人の気分は抜け出せていなかった。だから無下に断るのもどうかと……」


 社員証があるから、自己紹介もしてくれない相手でもいずれは世話になる人かもしれない。

 断るにせよ、相当言葉を選ばなきゃいけない、と緊張もしただろう。


「その人、勝手に卵焼き一個を持ってって、自分のおかず一品を「どうぞ」って私の弁当箱の蓋の上に置いた」


「親しき中にも礼儀あり、とは言いますけど……親しくもない人なら、なおさら……」


 卓也は思わず口にする。

 しかし川越は「そうね」と短く返すのみ。

 そして話は続く。


「一口食べて、味わった上で『君が作ったの? おいしい』って言ってくれたのよ。条件反射でもなく、おべっかとかでもなく。知り合いだったら素直にうれしいって思えるような。だから私も『ありがとうございます』って」


 新入社員、というには時期が外れただろうが、後輩がいないならそう表現しても障りはないこともある。

 その新入社員ですら、そんな突然のことでも社交辞令を言えるくらいには、社会人としての心得は弁えていた。


「けど……なぜか噂になったのよ」


「噂?」


「その人と私が恋仲だって」


「はぁ?!」


 卓也の声は裏返っていた。

 いきなりの初対面で、しかも弁当のおかずの交換を一回しただけで、なぜそんな噂が流れるのか。

 就職先を間違えてしまったかもしれない、と卓也は怯える。

 だが、当事者である先輩の方がもっと怖かっただろうに、と思い直し、懸命に気持ちを落ち着かせた。


「知り合いの社員から次々と聞かれたのよ。いつから付き合ってるの? とか、デートどれくらいした? とか。女性、男性問わず、ね」


 特定の人から付きまとわれるストーカーは怖いが、不特定多数から身に覚えのないことを聞かれるのも怖い。

 だが、それを放置するわけにはいかない。

 ずっとここで働くつもりなら、とりあえずは……。


「たくさんの違う人からの同じ質問に、同じ答えで返したわ。『名前も知りません。初めて見た人です』って。一か月くらいかかったかな。その時以来その人とは会ったことないけど、その人も否定してくれたらしいかったから」


 その男性社員もまともな人だったのが、せめてもの救い。

 だがまともな人なら、見知らぬ異性の社員に、いきなりおかずの交換なんて申し出るだろうか?

 しかし、卓也はそんな話は初めて聞いた。

 ということは、その問題は解決済み、とも言える。


「その一件が落ち着いた頃かな。仕事が終わって、渋川先輩と一緒に会社から出る途中で、その頃開店したばかりの軽食屋さんの話をしたの」


「渋川美沙先輩ですよね。俺の同期の竹川の教育係の。川越さんの先輩だったんですね。詳しいこと知らなくて……」


 新人研修、そして教育期間と続く毎日。

 卓也は仕事を覚えるのが精一杯で、人間関係まではなかなか覚えられなかった。

 やや驚く様子を見て、川越は軽くため息をつく。


「軽食屋さんはここの隣の駅。渋川先輩はその駅からここに通勤してるから」


「そう言えば、ちらっと聞いたことがあります。おしゃれな店って。自分には縁がないなーとは思ってたので、どうでもいい話だなって」


 頭を掻きながら苦笑いをする。

 しかし川越の顔からは、更に表情が消える。


「開店したばかりの店だし、行ってみたいって言ったのよ。その時、私も『時間が空いたら行ってみたいですね』って」


「渋川先輩に釣られた感じの返事、ですかね」


「そうね。ほんとに軽い気持ちで、でも行ける機会があったら覗いてみたいって程度で。そしたら……次の日から一週間くらいだったわね」


「まさか……、そのお店に行こうってお誘いが?」


 川越は黙って頷いた。


「まさか、その男性社員から……?」


「まさか。それはなかったわ。でも……みんなからじゃないけど、男性女性問わず、廊下ですれ違ったりしただけでそんな風に声をかけられたりしたから……」


「何か……異常な感じ……あ、でもないか」


「どうして?」


 怒りがこもったような目を向けられた卓也は一瞬ひるむ。

 しかし卓也にとっては、それは道理と思える理由が頭に浮かんでいた。


「だ、だって、川越先輩、その頃はまだ普通に振る舞ってたんじゃないですか? なら、美人な社員として気になる人は多かったんじゃないかと」


 一方的に相手を知っている人は、その相手から自分のことも知られている、と錯覚する者も少なくはない。

 そんな人達から声をかけられても不思議ではないだろう。

 ましてや、声をかけるきっかけは、どんな小さいものでも欲しいと思うはず。


「……本人を目の前にして……」


 その怒りの色はやや変化した。

 臆面もなくそう言い放つ卓也への、嫌悪感の類ではないのは確かだ。


「あれ? てことは、その恋仲の噂を聞いてきた人達からは……」


「……うん。その人達のうち、何人かからは話しかけられたけど……」


 誘ってきた人達の中でね恋仲の噂を尋ねた人はほとんどいなかった、ということだ。

 見た目の麗しさで知名度が高くなったから話しかけられることが多くなった、と考えるにしても妙な話だ。

 男女問わず話しかけられる。

 好人物にはありがちな話だと思う。

 けど、その話しかけられる人の波というか、タイミングが実に奇妙。


「あの、普段から、そんな風にどこかに行くとかのお誘いを受けたりされてたんですか?」


「特にないわ。渋川先輩とのお店の話だって、他のお店への誘いの話は何度かしたけど、その店以外の誘いはされることなかったし」


 常にいろんな人から言い寄られるわけではない、ということだ。

 ということは。


「ということは……その二件とも、その様子を見た誰かが噂を流した……ってのは……ないのか」


 それはない。

 川越は巻き込まれた側だ。

 そして卓也が聞いた、川越が巻き込まれた話を聞いたのはこれで三件。

 元課長の一件を目の当たりにした者が、この二件も目にしているとは考えづらい。


「……先輩、噂にされやすい体質……てのも、ないか……」



「それに、そんな何気ない会話をいつしたか、なんてことだって忘れてるわよ。先輩だって覚えてなかった。覚えてるのは店の場所と会社から出ようとする途中ってことくらい。あ、先輩は店の名前も覚えてたけど」


 なのに、誘ってきた人達は、何日のどんな時にそんな話をしていた、というのを聞いて知ったらしい。

 本人達が忘れたことを、ほぼ接点のない人達がなぜ覚えていられるのだろう、と疑問に思う。

 そんなに簡単にどうでもいいことすら覚えられるなら、研修や指導を受けた内容なら尚更簡単に覚えられるだろう。

 卓也はそんな人達のことを羨ましくも思えたが、川越を前にしてそんな悠長なことも言っていられない。

 それに、川越の話はそれで終わりではなかった。


「その次は……それから数日して、私と近い年代の男性社員と廊下ですれ違った時ね」


 大きな段ボール箱を抱えて歩いていた社員とすれ違った時、その箱の上に置いてあった物を落としてしまったらしい。

 川越はそれを拾って段ボール箱の上に置いた。

 ただ置いたのではなく、また落ちると面倒だからということで、落ちにくいように箱の上に置いた、とのこと。

 男性社員は「すいません。助かります」と礼を述べ、川越は「いいえ、これくらい何ともありません。気をつけて」と返して互いにそのまま通り過ぎていった。

 ただそれだけのことだった。

 しかし。


「……その人、彼女がいたらしいの」


 この話の流れを聞いて、嫌な予感がしない人はいない。


「思い当たるとしたら、微笑みながらその人に声をかけたことくらい」


 互いに気分良く、言葉を一言二言交わす。

 そして離れ離れに。

 ごく常識的な人との接し方の一つ。

 それだけでは、その二人は特別な関係など思えるはずもない。


「浮気を疑われたらしいの。その人と仲のいい社員達が私のところに来て、その関係を確認しに来たのよ」


「疑われた、ってことですか?」


「そこまでじゃなかった。ただ事実確認しにきた、と。携帯の連絡帳にもないし、鍵もつけてない。連絡のやり取りなんかできるわけがない。知らないどころか、その人の名前も知らないし顔も覚えてなかったから」


 箱が大きかったから、見えたのは髪形くらい。

 声だって、抱えて運んでたからこもってた感じがした。

 だからその人の普段の声は分からない。


「本人の携帯も確認したうえで私のところに来たみたい。私のことは見えてたらしいから。で、その人達は納得してくれたけど、本人同士はしばらく喧嘩してたって話だった」


 色目を使って話しかけたりしたのなら、そんなトラブルで困っててもそれは自業自得だ。

 しかし日常の普段の行いがそんな誤解を生みだして、本人もどう対応していいか困る、というのであれば、手を差し伸べるべきだろう。

 それに、すれ違いそうになる相手に何か困ったことが起きる、なんてことだって、しょっちゅうあるわけではないが滅多にないことでもない。

 思えば弁当の件もそうだし、誰かと新装開店の話をするなんてこともそれ以上の頻度で起きる出来事だ。

 であれば、そんな問題は件数と同じ数だけ起きててもおかしくはない。

 つまり、因果関係を無視して考えると、川越に何かが起きてそれに対する反応が噂になりやすい、とは言える。

 なぜそうなるのかまでは分からないが、そうとしか説明できない。


「ほかにも細かいことたくさんあったから、とりあえず目立たない地味な格好になって、伊達眼鏡かけて、なるべく喋らないようにして……」


 涙ぐましい努力は、その方向が間違っているような気もするが、具体的な解決策も見つからないなら自己防衛に専念するのも仕方のないことだ。


「ありがとう、も、お疲れ様、も、なるべく言わないようにして……。なるべく笑顔も、泣き顔も見せないようにして、ね。そこから誤解の噂が何度も流れてたから……」


 まるで、口に出したら危険な言葉、みたいなことを言う。

 礼儀を弁えているのであれば、その枷はかなり心苦しい。

 何も悪いことをしていないのに罰を受けている、そんなイメージが湧く。

 しかし何ともしようがない。

 何とかしてあげようにも、やはり何の力にもなれそうにない。

 卓也は力を落とす。


「……そういえば、他の先輩達とかはどうなんです? 何か力になってくれるような……」


「ないわよ。逆に自分に火の粉が飛んでくるかもしれないし。だから、誰も余計な話をしようとしないでしょ? 私も私で、ただいるだけで迷惑がかかるよりも、その迷惑に目をつぶれるくらいには役に立とうとしてたしね。でも、追い出すようなことはされない分、有り難いとは思ってるわよ?」


 部署内の人間関係は、こじれている心配は無用のようだ。


「……川越先輩。じゃあ、改めて教育係をお願いしていいですか?」


 卓也の依頼を聞いて、川越は気の抜けた表情を見せた。

 初めて卓也に向けて、感情を見せた顔である。

 卓也はそんな彼女の顔を見て、ハードルを一つ越えたような気がした。


「……何言ってるの? 課長がおっしゃってたでしょう? 教育期間は……」


「いろいろ教わりましたけど、教わった通りにできた手ごたえがありませんでしたから。他の同期は、褒めてもらえたり叱咤激励があったりしてたのを見て、それに比べて自分の仕事の出来栄えはどうなんだろう? って、いつも自信なかったので……」


「必要なことは教えてあげたでしょう」


「ミスしたら書類戻されて、指摘は受けましたし、問題がなければそのまま受け取ってくれはしましたけど、やっぱり何か一言ないと不安ですよ。一から教えてくださいってんじゃないんですからいいじゃないですか」


 指導する側としては、教えられる側への対応の仕方がまずかったという思いはあったのだろう。

 川越はやや困った顔を見せた。

 片や卓也は、いつも表情を崩さない川越のそんな顔の変化を楽しんでいる。

 思わずにやけてしまうが、川越には、指導を受けることを楽しみにしているように見えているのか、その表情が険しくなることはなかった。


「……しょうがないわね。ただし、私から何かをしてもらったとか、そんな無駄話は絶対しないこと。もちろん部署内にも」


「……それはもちろん」


 川越の出した条件を聞いて、卓也はその歪んだ顔を引き締めた。

 ちょっとした、しかも何気ない一言からトラブルが引き起こされている。

 相手に心からのお礼一つも言えない。

 不誠実と思われても仕方がない。

 ひょっとしたらすでにそう思われているのかもしれない。

 そこに自分が川越とのやりとりを外部に漏らして、余計な噂が立てられたりしたら、それこそ社内に居場所がなくなってしまう。

 そればかりじゃなく、その噂を聞いた社外の人達がたくさんいて、転勤先にわが社が選ばれた、なんて情報を耳にしたら、どこもかしこもお断りすること間違いない。

 誰だって問題のある人物を受け入れたくはないはずだ。

 それと、川越優子という人物のことは、卓也はまだよくは知らない。

 好まれるべき人物か好まれざる人物かは不明だが、これまで指導を受けてきた先輩だ。

 わずかながらも交流を深めることができるこれからのことを思うと、なんとなく胸が弾む気分になる。

 こちらも言葉数を抑えさえすれば浮かれた気分も抑えられるはず。

 後輩の立場ではあるが、この不遇な先輩を守れる存在になれる。

 そんな自分の成長への期待感も生まれ始めていた。


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