職場で彼女の身に起きた昔話
「俺は川越さんとは同期なんだけど……つか、同期なのは俺だけか。最初はあんなんじゃなく、普通にみんなと話をしてたんだよな」
意外にも川越の同期は大倉一人だけ、というのが分かった。
普通、というと表現があいまいだが、あんな風に極端に無口の無愛想ではなく、周囲と交流を持ってた、とのこと。
なのになぜ、あんな風になってしまったのか。
「決め手は、前課長の件だよな」
「そうだな。流石にあれは……」
と、先輩達が次々と口を開く。
「何があったんですか?」
聞きづらいことを、向こうから話題にあげてくれた。
事情を知る、滅多にないチャンス。
逃してはならない、くらいの勢いでその話題に食いつくのも無理はない。
その勢いに同期はやや引き気味だが、卓也は気にしていられないとばかりに、目先を先輩達と課長に定める。
「前の課長……杉林元課長がうちを去ったのは二年前か?」
「課長についてはね。異変は四年前……五年?」
五年というと、川越が入社した年。
ということは、同期の大倉も、ということになる。
入社して早々、何らかの問題が起きて、何らかの騒動に巻き込まれた、という流れ。
「こまごまとした話はあったが、とりあえず前課長のことな。既婚者なんだが……」
既婚者、上司と部下、そして異性。
これだけで、穏やかな話で終わるとは思いづらい。
「まぁ上司と部下な関係なわけだ。前課長は、俺にもおんなじことを言われたよ。仕事の指示とか連絡報告相談その他。今日の下坂課長のように、こんな風に飲みにも誘われたこともあった」
ごく普通の、会社内の人間関係だ。
卓也はその話の先をせがむように先輩の大倉聡に注目する。
「はっきり言えば、社内では容姿端麗の方だ。けど、何というか……説明つかないんだよな」
「同性の私でも、ね」
大倉よりも先輩の利根美恵子も話に合流する。
しかし、もやもやする言い方である。
何の説明なのか、話がまだ見えてこない。
「俺が見た時は、仕事を言いつけられた時だったな。書類を受け取って、そのあとアドバイスを受けたか何かした時だった。にっこり笑って『ありがとうございます』って礼を言って……」
「俺も見た。部外者も何人か出入りしてた時だったから……そいつらの誰かなんじゃないか? 普通じゃない関係って勘繰られたらしい」
利根と同期の笠井も話に加わる。
彼の話によれば、その場面は多くの人の目に触れていた、ということだ。
「いつからか、杉林課長と不倫してるんじゃないかって噂が流れてな」
「それだけでですか?!」
卓也は信じられなかった。
確かに川越のルックスは、洗練されたらそれくらい綺麗な人になりそうな気はしていたが、不貞行為をするような人には思えなかった。
ずっと教育係として面倒を見てもらった。
余計な人間関係は築きたくない。しかしやるべき仕事や役割はしっかりと果たす。
そんな姿勢をずっと見てきた。
しかし、そんな仕事に対する姿勢だけでは、その人の性格などを決め付けることはできない。
そして、それは、その場面の目撃者たちにも当てはまる。
ましてや一線を越える関係の噂が流れたり流したりする人達の方に非があることもある。
しかし卓也への答えは、皆一様に肯定だった。
「根も葉もない噂ってのはホントにあるんだな、と呆れたよ」
「噂ってのは、責任をとる必要のない立場の人から流れるもんなんだな」
名誉棄損で訴えてもいいレベル。
しかしその噂の発生元はどこだか分からない。
しかも、その噂の影響を受ける者達もいる。
一番の被害者は、杉林元課長だった。
「会社は調査を徹底的にした。もちろん証拠なんてあるわけもない。が、仕事への熱意をそがれる奴も出てきた」
「彼女に憧れてる社員もいたからね。一部の社員達のグダグダっぷりはなぁ……」
「社会人なのに、学生気分で噂の一つに振り回されて、情けないわよね」
驚いたことに、川越を擁護する声が多い。
というか、全員が川越を擁護していた。
「けど、そんなんだから、杉林さんにも課長の立場もあるしさ」
「会社、辞めさせられたって聞いた」
卓也は頭にでかい岩か何かで殴られたような衝撃を受けた。
そんなたった一つの噂話に振り回される会社だったのか、と。
だが、その衝撃は課長の言葉で和らげられた。
「その話は初めて聞いたな。だが彼は、確かにこの会社を辞めさせられたんだが……」
「だが……って、元課長のその先のこと知ってるんですか?!」
先輩達は驚きの声を上げる。
部署から去ってからは全く話が聞こえてこない。
ゆえに、最悪消息不明ではないか、と最悪のケースしか頭に浮かばなかったようだった。
「人望と業務への態度は評判だったんだろう。会社が取引先のうちの一社に相談して転勤。転勤して間もなく本社への異動になったらしい」
「え?!」
「マジっすか?!」
「栄転じゃないですか、それ! よかったぁ……」
利根は涙ぐんでいた。
部下たちから心配されるほどの人格者でもあったらしい。
「栄転、なんてもんじゃない。大抜擢だよ。……我々の手を伸ばしても届かないくらいにな」
場の空気が一気に和む。
事情を知らない卓也と、特に同期達は、そんなことがあったのか、と耳を傾けている。
しかし卓也はそれに加え、川越にどう労わるか考えを巡らせていた。
だが忘れていたことがある。
なぜみんなが他の同僚と同じように、川越と接しようとしないのか。
「そりゃお前……。普通の会話でも妙な噂が立って、会社に居場所なくなったら困るじゃん」
「確かに川越には非はない。けど、誤解があちこちで立ってみ? いくら正しいことを言い張っても、それを聞き入れてもらえる自信はないし」
「一人一人と話し合えば誤解は解けるわよ、きっと。でもそんなことをする時間はなかなか取れないの、分かるでしょ?」
自己弁護ばかり、としか思えない。
手を差し伸べる気はあった、などと言われても、行動に起こさない限り相手にはそれは伝わらない。
嫌がらせなどはなかったとしても、自分の居場所はあったのだろうか、と卓也は川越のことを思いやる。
そんな思いも相手に伝わらなければ、彼らと同じ穴の狢である。
一方彼女は、それでもこの部署に居続けた。
「菊川は彼女とかいるのか?」
隣に座っていた笠井が突然卓也に聞いてきた。
個人情報云々の問題などもあるのだろうが、咄嗟のことでつい答えてしまう。
「え? いや、いませんよ」
「ならよかった」
さらに突っ込んだ質問をされると思ったが、卓也のことを詳しく知りたいというわけではないらしかった。
それどころか。
「悪い奴じゃない。いろいろと声をかけてやってくれ」
先輩の面倒を見てやってくれ、ということなのだろう。
新人よりも同僚や先輩の方が事情が詳しい分、フォローもしやすいのは先輩達だろうに、と不満を持つのだが、そんな細かい拘りから部署全体に諍いをもたらすのも、健全な人間関係を築き広げるのも、人としての成長の一つでもある。
「は、はぁ……」
そんな不満は心の中に留めておくくらいの器量は持ち合わせているようで、周りに気付かれないほど小さいため息をついたあと、力のない声を出す。
しかし明るい情報はあった。
川越に対して、嫉妬や怨恨などの思いは誰一人として持っていない、ということ。
そして、卓也には言葉でしか認識できていないが、同僚達からは川越は気の毒に思われている、ということだ。
周りに遠慮することなく、堂々と声をかけることができる。
それが分かっただけでも、卓也の気持ちは少し晴れた。
その後しばらくして川越が戻ってきた。
外でこの話に聞き耳を立ててたとは思えないくらいには時間が経過した頃。
卓也はそのタイミングで川越が入室してきたことに安堵した。
あの話が本人の耳に入ったら、みんながどう思われるか分かったものではない。
それに、部屋の外にまで声が漏れるような大声もなかった。
川越はというと、服装や髪の毛には一点の乱れもない。
顔はやや化粧を整えたか、という感じではあるが、相変わらず整った表情は変わらない。
卓也は心の中で胸をなでおろす。
そして、そうこうしているうちにお開きの時間となった。
店から出る彼ら。
最後に出たのは支払いをした課長。
「ごちそうになりました」
と部下からの礼を受け、「明日はまだ平日だからな。遅刻すんなよ」と答えて帰路についた。
残された面々の中、真っ先にその集団から離れたのは川越だった。
卓也は何となく、背中を押されている感じを受けた。
自分達が先に何か声をかければいいのに、とは思ったが、これもまた絶好のチャンス。
普段の川越の様子が見られるかもしれない、という期待感は抑えることはできなかった。
「あ、あの、川越先輩」
後ろから声をかけられた川越は、振り向くことはせず、ただ目線を卓也の方に向けるのみ。
それでもかまわず声をかける。
「夜も遅いですし、女性の一人歩きは危ないでしょうから送りますよ」
「必要ありません!」
勤務時間外のせいか、普段より声量と口調がやや強め。
後ろにいるみんなにもその声は届くと思われるほど。
「ま、まぁ確かに、夜というにはまだ早い時間ですけど、到着時間になると遅くなるでしょ。帰り道の方向が同じなら、途中まで……」
「無用ですっ」
激しい拒絶と言ってもいいくらいだ。
それでも卓也は食い下がる。
「新人の教育期間は終わりって課長言ってましたよね。俺、不安なところがあるんですけど、ちょっとだけなので帰りの道中教わったら、明日からは万全で仕事に取り組めると思うので……」
川越は無言のまま、歩を進めた。
卓也は慌てて彼女の後を追う。
残された同僚達は、その二人を生温かく見守っていた。