プロローグ:嫌がらせのない職場なのに、この先輩はなぜか浮いてる感が
川越さんはお礼が言えない
覚えなきゃならないことは、必死で覚えていたものだ。
けど、誰だって苦痛は嫌。
それでも、工夫してその苦痛を何とか和らげつつ、覚えるべきことは覚えてきたはずだ。
平仮名、片仮名の五十音を最初に見た時そうだったのではないか?
九九の掛け算を覚えなきゃならない時もそうだったのではないか?
しかし、学生時代に覚えたことは、社会に出てからすべて役に立つとは限らない。
いやいやながら必死で覚えたことも、結局は忘れ去ってしまう分野もあるだろう。
それでも、その時には必要な知識。
学校を卒業するために覚えなきゃならない事柄だった。
しかし皮肉なことに、それを覚えていても意味がないことや役に立たないことを簡単に覚えてしまったり、いつまでも忘れられない事柄だったりすることもある。
今はだれも見向きもしない漫画やアニメのワンシーンなどが記憶にこびりついたり。
知識についてはそんなことが結構ある。
では人と対面した場合はどうだろう?
誰から聞いた話かは忘れたが、聞いた本人にとって忘れられないことならば、いつまでも覚えていたりする。
あるいは、忘れてはならない大切な思い出なんかもそうだ。
場所はどこかは分からないが、あの人とこういう場所に行った記憶がある、など。
他には、気になる存在なんかもそう。
たとえば初恋の相手なんかは、顔も名前も覚えているが、その相手と楽しんだ会話を事細かく覚えている人は、そう多くはないはずだ。
幼稚園の時の先生の中で、憧れの存在などもいたはず。
でもそれくらい古い思い出だと、名前も顔も忘れてしまってることも少なくはないかもしれない。
そんな記憶や思い出は、必死に覚えようとしなくても、いつまでも記憶の中に存在してたりする。
それらは、人それぞれ違うが、もし不特定多数の人が、特定の人に関する記憶が残っていたとしたらどうだろう?
その人の何気ない言葉を聞いた誰もが、いつまでも記憶に残っていたら?
その人の話を、その人がいない場所でも話題になったとしたら?
これはそんな人と、その人に関わった人の、奇妙な物語。
※※※※※ ※※※※※
大見商事の菊川卓也は、入社して十か月目に入る新人の新入社員。
彼は同期と共に半年の新人研修期間を終え、その後はそれぞれ教育係が割り当てられて、職場での実践で指導を受けている。
同期は、教育係から「頑張ったな」「ここ間違えてる。やり直し」「大したもんじゃないか」などと声を掛けられている。
教育期間が始まったばかりの卓也は、当たり前のコミュニケーションをとれている同期が羨ましかった。
仕事の出来に対し、褒められ、叱れ、その後は仕事の質を上げるためのアドバイスをもらう。
そんなやりとりにより、教育係の先輩との繋がりが強まっていく。
しかし卓也は、そんな教育係とのコミュニケーションは一切なかった。
もちろんミスは何度もした。
その飛ごとにその指摘を受け、修正の仕方を教わったりはしたのだが、きわめて事務的な口調。
励まされることもなければ呆れられることもなかった。
当初は、こんなことでこの職場で仕事をやっていけるのか、と不安で仕方がなかったが、今では仕事同様すっかり慣れてしまっていた。
出勤して同じ部署の同僚や先輩達、上司を社内で見かけたら、普通に挨拶はする。
挨拶は普通に返ってくるが、返ってくるのは挨拶ばかりではない。
「仕事にはもう慣れたか?」
「体調崩しそうになる時期だけど、菊川君は大丈夫?」
「今日も定時であがれるといいな」
そんな会話を一言二言交わす。
交流、と言えば大げさだろうか。
だが、そんな何気ない会話でも、社内や部署内の人間関係を円滑にする効果もある。
もっともそこまで意識して会話する人もいないだろうが。
だが卓也の教育係は違った。
「おはようございます。川越先輩。今日もよろしくお願いします」
すでに自分の席に座って仕事の準備に取り掛かる教育係に挨拶をする。
と軽く頭を下げる。
しかし教育係の川越優子は卓也の顔を見ようともしない。
それどころか、表情一つ変えずに小さい声で一言。
「……おはよう」
で挨拶を終わらせる。
誰が言ったか知らないが、無愛想が人の形を成している、との彼女の評判はよく言ったものだ。
眼鏡の奥の目は瞬き以外動かないし、セミロングの黒髪の毛先も、あちこちに向いて乱れるようなこともない。
端正な顔つきは、誰から見ても美人と呼べるレベル。
しかし卓也は、彼女の笑顔を見たことがない。
それどころか、他の感情を露わにすることもほとんどない。
教育係として初めて対面した時は、仕事への意気込みやより自分のことを知ってもらおうと自己紹介もしたのだが、彼女の反応は一見ほぼ無関心。
時々雑談めいた話をしようとしたのだが、まるで聞いていないかのように、あるいは自分に話しかけていると思われてないくらいに、華麗にスルー。
自分には価値はないのかと凹みかけたこともあったが、仕事上のみの人間関係と割り切れるようになってからは、そこまで凹むことはなくなった。
それに彼女の様子を伺うと、気付いたことがいくつかあった。
同僚や上司に対する態度が、卓也に接する態度とほぼ同じ。
そして、仕事では意外とみんなから頼られる存在でもあった。
ただ、回りははれ物に触るような態度であることがやや気になった。
けれど、仕事を押し付けられてるわけでもない。
パワハラをしたり受けたり、というような雰囲気もない。
言わなくてもいいことを言われてこっちがストレスをためることになるような先輩じゃない分、不満を持ってはバチが当たる、と卓也は思うことにした。
そんないつもの通りの一日が始まる。
しかし一日の終わりは、普段とは違った。
「さて、そろそろ定時だな。みんな、仕事は残っているか?」
夕日が沈みかけている外を見た課長は腕時計の時間を確認しながら、卓也ら新人全員を含めた課の社員全員に呼びかけた。
卓也は返事をしかねている。
先輩達には仕事があるのに、新人の自分らは「終わりました」というわけにはいかない、と。
先輩の何人かはその言葉を聞いて、背伸びをしてから返事をした。
「今日の分は終わりました」
「特にないので帰りますかね」
課長はまだ仕事をしている社員に名指しで尋ねた。
「大倉君。笠井君。川越君。君らは、まだ残ってるかね?」
「今終わるところです」
「パソの電源切るところです」
先輩の大倉哲司、笠井修三はそれぞれ課長に応えるが、川越はというと。
「……終了」
です、すら言わない。
しかし驚くことに、課長をはじめ先輩達は特に何の反応も示さない。
卓也も彼女の反応の仕方にはもう慣れて驚くことはないのだが、他の同期の新人は目を見開いて川越を注目している。
「そうか。……こうして新入社員のみんなの働きぶりを見て、教育期間を終えてもいいかと思ってたところだ。そこで突然だが、懇親会と歓迎会を兼ねた晩飯会をしようと思ってな。あ、この後何かする予定がある者がいたら後日、ということにするが……どうだ? もちろん飯の方は私が奢ろう。二次会とかしたい者は、参加者が実費で出してくれ。無論私は晩飯会のみにするが」
世の中にはブラック会社なるものがあるが、会社どころか上司までそんな言葉とは縁はない。
課長以下九名は思わぬ報酬に喜んでいる。
しかし川越は、淡々と仕事の後片付けを進めている。
指導役の彼女の様子を見て、卓也は同僚達と同様に喜んでいいのか川越の手伝いをすべきなのか、少々戸惑つつも川越の様子を伺う。
しかしそんな卓也の気を使う視線にも気付くことなく、帰り支度も完了した。
卓也の隣にいる同僚達は、そんな卓也を気の毒そうに目をやった。
 




