一本道のレール
私は幸せ者だったらしい。
つまり……幸福である、ということ。
確かに当時の私の周りだけを見れば、何処からどう見ても私は幸せに見えるだろう。
──私は勉学に秀でている。
故に数学に必要な論理整合性、或いは丁寧な情報処理能力を持っている。
故に国語に必要な人を惹き付けるような魅力的な文章を書くことが可能であり、更に他者の文章に対して適切な批評が出来る、という自負がある。
故に外国語に必要な意志疎通能力、そしていわゆる「空気を読む」ということが出来る。
故に理科に必要な森羅万象を観察し、未知を発見するための姿勢を常日頃から心がけている。
故に社会に必要な全てを網羅し、総合的に考える理知的思考回路を所持している。
勿論、見ればわかるようにこの5つには被りもあれば、一見すると不必要なものも含まれている。
だがしかし、それは間違いではない。
何故なら私は勉学が得意だから、これらの能力を活用出来ているわけではなく、これらの能力を十全に生かせているからこそ、「勉学が得意」という結果が得られている。
私の両親は大富豪、ではないもののちょっとした富豪、といえる程度には金銭を蓄えている。
そもそも、大富豪が常に良いものとは限らない。世界全体で見てもとても希少な彼らは常に「大富豪たること」に縛られている。
仮に大富豪が河川敷でテントを張って野宿していたら、少しの称賛と、それを押し流す程大量の批判が来るだろう。
これからわかるように、地位には、称号には義務が付き纏う。
そう考えれば、「ちょっとした富豪」という立ち位置が如何に恵まれているかがわかるだろう。
故に大多数に埋もれることは平和であり、安住であり、中庸である。
されど……それが「良い」かは、また別の問題となる。
私は運動が「そこそこ」──定量的に表すならば、全てにおいて偏差値60程度に──でき、恋愛遍歴も「そこそこ」──常識の範疇で──ある。
そして、現在の私は結婚し、子供が産まれ、専業主婦という職に就いている。
幸いにも、夫も「ちょっとした富豪」になれる人だったのだ。
ここまでの状況を見て、私が幸せではない、と思う人は極僅かだろう。
私の人生は順風満帆であり、非の打ち所がない「成功例」にしか見えないだろう。
小学校の頃は「そこそこ」の運動で注目を集め、中学高校では勉学と持ち前のコミュニケーション能力で人気があった、と自負できる。
大学に入っても、恋愛をし、失恋をし、「真面目で優秀な大学生」としてサークル内の印象は決まっていた。
結婚する前、企業に入っていた時も同じだ。
真面目、優秀、注目に値する。
そんな一辺倒な評価ばかりだ。
ああ、わかっている、わかっていますよ。
あなたを含めた皆さんは「こういう」存在を羨み、妬むのでしょう。
そんなことは私を客観視すれば、嫌という程わかることだ。
でも、私にとっては間違いなく不幸。
私という存在は誰にも見られていない。私には自由がない。私には選択する権利がない。
有り得たかもしれない無数の選択肢は強制的な路線変更により泡沫の彼方へと消え、私に残るは不躾にも決められた……されど、それを感じさせないほど豪華な装飾の施された一本道。
私は皮肉にも、その「優秀な頭脳」で以てその欺瞞を見破ってしまった。
無知でいれば幸せな道化師として一生を終えることが出来たというのに、私はその機会を他ならぬ自分の手で奪ってしまった。
私の意志で選んできた筈の道は、舗装され、整備されたコンクリートに塗れた幻覚のようなものだった。
それに気付いてしまったことが、最後の切っ掛けだった。
人生が色褪せて見え、世界がとても矮小な物に感じられ、何もかもが音を立てなくなってしまった。
そして、次に犠牲になったのは、私の「順風満帆」な人生だったらしい。
夫には愛想を尽かされ、子供は持っていかれ、親の寿命が尽きた。
職を手に馴染ませようと、新しい職場を求めて進めば、不慮の事故に遭遇し、左足が使い物にならなくなる。
正確に描写するならば……左足と左手小指、薬指が使い物にならなくなる、という表現にはなるが。
生憎、私は少し異端……つまり、左利きだったわけだ。
それが何を意味するかは語るまでもない。
その頃の私は焦燥感と諦感と厭世感とでまともな思考が出来なくなっていたのだろう。
それ故に「普通」が「異常」になったことにも気付かず、唯々人生という有限の時間を浪費していくのみだった。
────そして、現在に至る。
私は大地震の影響で崩壊しつつある都市を遥か屋上から見下ろしている。
遠くでは高層ビルから煙が昇り、電車が横転し、道路が断裂している。
なのに、誰も悲鳴を上げず、誰も助けようとしていない。
これがどれだけ「異常」なことかはわかるだろう。
さて、改めて問おう。
私は幸せ者なのだろうか。
ちなみに、私の答えは既に一つに絞られている。
私は自由への一歩を踏み出しながら、視界の先にある月を見る。
「───もう、何も見えないな」