第三節 サマーグリーンの異世界 前編
息が出来なかった。相変わらず凍りつくほど寒かった。さまざまな色に囲まれていた。飛んでいた。七愛も、菫さんも、アリスさんも、謎の鎧も、白ローブも、飛んでいた。別々の方向に飛んで、僕たちで花びらをかたどっているようだった。
僕は、自らの頭がおかしくなったのかと思った。
気がついたときには、木漏れ日に守られていた。その反面、空高く僕を見下す木々は、まるで獲物を捕食するかのようにいくつもそびえ立って僕を見ている。雪はない、寒くもない。
つまり、ここは森の中。そこで僕いま、地面に寝っ転がっている。
いや、そんなことを考えている場合ではない。七愛は、菫さんは、アリスさんは、空さんは、リートさんは……みんなはここに居るのだろうか。でも僕が吹っ飛んでいる最中、空さんとリートさんは居なかった。彼らはここには居ないかもしれない。
「誰か……」
声が上手く出なかった。そりゃそうだろう、このわけわからん状況なのだから。クリスマスパーティーしてたらいきなりぶっ飛んでこんな場所に居るのだから。まるでバグったゲームだ。
思い返してみると、あの飛んでいる感覚、歪みを通る感覚に似ているかもしれない。つまりここは、楽園か? 違う、楽園はこんなに明るくなんてない。お父さんも言っていたじゃないか、『あの世界は、どこに行ってもずっとあの空ですよ』と。
そんなことより。皆はここに居るのか?
今度は、力強く声を張ってみた。
「誰か! 居ますか!」
僕の問いに対する答え、それは木々が生い茂る音だけであった。らちがあかない。まずは立ち上がろう。
少し震える体を叱咤し、立ち上がろうとして気づいた。少しだけ、体が土に埋まっている。
……クソ、せっかくのサンタ服が。いくらしたと思ってんだ、結構高いの買ったんだぞ。
「ああ、もう……」
ぶつけどころのない怒りを支えに、今度こそ立ち上る。ズボンに付着した土を手で払う。当然、このときの視線は自らの足元だろう。その足元に、人が居た。
脳内麻薬が出るほど、僕は安心した。
「あ……?」
だが、それも束の間であった。僕の足元に居る人は、まず図体が大きかった。優に三メートルは超えている。上半身は裸で、肉づきがよかった。僕の顔ほどはある手に、刃物が握られていた。そしてなによりもの特徴に、肌が人間では考えられぬほど赤かった。
凶悪な顔、口からはとがった牙。頭には角のようなとんがり。それが、干からびて死んでいるようだった。
たまに居るよね、こういう人……居ないよ、これはモンスターだよ。
……何度か、見たことがある風貌だった。この特徴、それは。
「鬼、いや、オーガ……?」
妖怪にこんな奴は居ない、だから鬼ではなく、オーガ。
いやいや、王雅の横にオーガが居るんですけど! 笑えないよ! なんだよこれ! これじゃあまるで……ファンタジー世界じゃん。
気が動転した。足が勝手に進んだ。頭の中には、彼女たちの顔だけだった。足が痛かった、靴履いてない。
少し落ち着こう。たしかこういう場合のことを、遭難と言うんだ。遭難したときは、最初の地点から動かないほうがいいと聞いたことがある。でも、ここに僕以外の人間は居ないかもしれない。居るとすれば、妻たちだ。だから早く会いたかった、安心したかった。その思いだけが、僕の足を動かしていた。皆の名前を、呼びながら。
時間なんて気にしていなかったが、おそらく一時間以上歩いただろう。勾配がかなり急になっており、ようやく気づいた。ここは、山だ。
そしてやはり、救助もなければ人影もない。その事実と、鳥の声が余計に僕を焦らせた。整った足場もなく、やぶが邪魔する中、僕は孤立していた。
もしかすると、僕はもう死んでいて、ここは死後の世界なのだろうか。そんな考えも頭に過ぎった。それでもやっぱり、僕の足が止まることはなかった。
それも、長くは続かない。僕は元々体力がないのだ。木にもたれかかり、嫌味な汗とともに地面へ沈み込んだ。ボロボロになった服も、もう気にならないほど疲れた。日が沈みかけている。
なんでこんな目に合わなければいけないんだ……僕がなにしたっていうんだ。ただ、妻を三人娶っただけではないか。
あれ? 意外と罪深い?
図らずも、メガネがズレた。
「は……」
気の抜けた笑いが静まり返った山に溶けた。それだけならよかった。僕は身動き一つ取っていないのに、土を踏む音が聞こえた。それも、小動物程度ではなく、結構大きい感じだ。よく耳を澄ませると、金属音も聞こえる。
メガネをかけ直し、ゆっくりと木から顔をのぞかせてみると、あぁ。正気を疑う。
生きたオーガが居た。
先ほどの奴と同じく、でかい図体、手には刃物……よく見ると、反りがあってククリナイフのようなものを持っていた。
またか。なんだよ。ふざけんな。怖い。こっち来るな。臭い。キモい。そんな文字が頭の中でふらふらとワルツを踊った。隠れよう、見つからないようにしよう。息を殺そう、心臓を止めよう。
僕には、悪癖があった。
小学生のときのこと……七愛とのかくれんぼが始めてだろうか。僕は、人から隠れるとき、失笑してしまう癖があるのだ。だからいつも、あっさりと見つかってしまった。だが、いまは駄目だ。笑うな、口を閉めろ。駄目だ、駄目だ!
「ふひ……っ!」
絶対バレた。もう、本当に、こんなの……殺されちゃう。
そうだ、死んだふりしよう。どうせもう死んだようなものだし、死のう。よし、僕はいま死んだぞ。もう死んだ。ポックリ逝った。安らかな死に顔を浮かべよう。
音は、段々と近づいてきていた。あるときを境に、足音のオーケストラは綺麗にフィナーレを掲げた。それはちょうど、僕の真横で。
僕は……薄く目を、開けた。
なにがそこにあるのか、最初はよくわからなかった。だけど、すぐに思い知る。そこにあるのは、僕をこの山から消す、大きな顔。
それが、目と鼻の先にあった。
オーガは、僕の内臓を響きかせるように、低く、低くうなった。その口からは、粘液状のよだれが垂れていた。その鼻は、涼しくなるほど僕の匂いを吸い込んでいた。オーガは、やはり、匂いで人間を識別するのだろうか。こんなことなら、服をもっと土まみれにすればよかった。泥を塗ったくって、匂いを消せばよかった。だが、もう遅い。
僕はここで死ぬんだ。
七愛の笑顔も、もう見れない。菫さんの優しさにも、もう触れられない。アリスさんに嫉妬されることも、もうない。空さんとリートさんには、幻永花を渡せないままだった。天国のお父さんごめんなさい、長内家はここで終わりです。ジトたん、天国に君は居るのかな。キングマン、僕を笑ってくれ。
……こんなことなら、生まれ持った男の証を捨てておけばよかった。でも、妻が三人も居るんだ。一番最初は誰かなんて、僕には選べなかった。不甲斐ない、悔いだけが残る人生だった。
僕は、ベルトにつけた幻永花ストラップを握り締めて、目を閉じた。
音がした。
なにかが流れる、音がした。
それは、生命の音かもしれない。それは、神秘かもしれない。僕の思いが、神へ届いて、チャンスをくれたのかもしれない。そんな奇跡にすがって、僕は目を開いた。
オーガが、吐いてた。
頭が沸騰した、今年一番ムカついた。
人が死の覚悟を決めているというのに、僕の匂いを嗅いでゲロ吐くか?
そんなに臭くねぇよ。潤う花の香りだよ。ふざけんなよ。
「崩衝!」
僕は、衝動的に、右手でオーガの頭をつかんでいた。
放たれたのは、いままでの人生で一番綺麗な崩衝だった。完全に浸透した。こんなにイラついているというのに、体は力んでいなかった。その証拠に、オーガは轟音をまき散らして倒れていた。
それでも、収まらなかった。僕は片手で持ちきれぬほど大きな石を両手で持って、オーガの頭をたたきつけていた。一心不乱に、狂ったようにたたきつけた。気の済むまで、グチャグチャにしてやった。途中で気がついたのだが、僕は引きつったような高笑いしていた。このグロテスクな惨状を見て。
ストレス溜まってたんだなぁ、僕。
「ふぅ……」
汗が流れた。嫌な汗ではなく、凄く気持ちのいい汗だった。まるで、スポーツの大会で優勝した気分だった。拍手と歓声に包まれているような……成し遂げたって感じだ。
僕は背伸びをするように立ち上がった。実際した。
「ふん」
オーガに小さく蹴りを入れ、手に握られていたククリナイフをパクった。
これでやぶも怖くない、武器があると心強い。だが、日が完全に沈みきっているので、一先ずは寝よう。
その矢先、二つも天才的発想が頭を過ぎったのだ。僕は本当に天才かもしれない。
山の終わりが見えないのなら、この目の能力を使えばいいじゃない。この目は、空想の映像、過去の映像、さらに現在の映像も見れる。しかも、後者二つに限っては強制的に上空からの視点になるのだ。
現在の映像を上空からなんて、いままでなんの役にも立たなくて半分忘れていたが、いまなら役に立つ。僕は天才だ。
さらにもう一つは、このオーガの亡き骸を布団にするということ。まず、一見ただのオーガの死体に見える、頭を潰したから、血も大量に出ているし僕の匂いを隠せる。僕は天才そのものだ。
と、いうわけで寝よう。
◆
また、木漏れ日が降ってきた。そして僕はバカそのものだった。
オーガの亡き骸を布団? 重いわ、冷たいわ、臭いわ、気持ち悪いわ、その苦痛で何度も目が覚めるわ、最悪だわ。お陰で体のあちらこちらが痛い。このオーガも、ゲームのように死んだら消えてアイテムとか落とせばいいのに。それがウルトラレアな武器で、無双出来るんだ。あぁ、空想って素敵だな。
僕は、すっかりと朝になったよくわからない世界で深呼吸をした。オーガの死臭がして、吐きそうになった。やはりバカだ。だが、目の能力を使うという発想は、悪くないはずだ。このときのために、僕はこの能力に目覚めたのかもしれないと思っちゃうほど、悪くないはずだ。ククリナイフを片手に、僕は右目に……あ、そうだ。
そろそろ名前をつけてあげよう、この目に。なにがいいだろう、紺碧に輝く目……。
紺碧、こんぺき。一文字変えれば完璧だ。だというのに最初は空想しか見ることができなかったが、気づけば過去の映像や現在の映像も見れるようになっていた。どうにも不完全だ。一欠片足りないような、そんな感じ。うーむ。欠片眼……これだ、格好いい。英語にしてみよう、欠片ってなんだっけ。フラグメント? いや、チップ……? どっちだ。ちゃんと英語を勉強しておくべきだった。
わからん、どうにも。
なら、欠片眼だ。かっこいい。とりあえず左目を閉じる。
「欠片眼!」
出来るだけ大きな声で、格好よくポーズをつけながら叫んだ。正直、少しでもふざけていないと寂しさと不安で胸が張り裂けそうだった。
そんな僕の目に、木が映りこんだ。当たり前だ、山なのだから。だがその規模が異常だった。果てがない。どんだけでかい山なんだ。これでは、自分の位置がわからない。さすが不完全。
そうだ、ならば木を揺らせば位置がわかるのではないか。欠片眼を維持したまま、左目を開き、木に蹴りを入れた。
「……うーん」
なるほど? 揺れないね? 欠片眼に映るのは、途方もない山だけだ。
だが、この映像は僕を中心としているはずだ。動けば追従する。つまり、欠片眼を使いながら勾配を下っていけばいい。終わりが見えたとき、僕は希望を見るのだ。
ちょっと重いククリナイフでやぶを切り払いながら、僕は進んだ。普通の目線と上空からの目線が入り混じって、何度か転んだ。すっごい難しい。正直見えても見えなくても変わんないし、もうやめようかな。
「誰か、誰か居るか!」
ん?
「誰か居ないのか!」
遠くから、声がした。人間の声だ。男の声だ。うわ、マジこれ? 奇跡ってこんな何度も舞い降りていいの? 知っている声ではないが、僕にしたら十分だった。僕を孤独から救ってくれる声だ。
僕はいま一度、深呼吸して、喉を振るわせた。
「ここに居ます! ここに居ます!」
何度も何度も言った。足取りが軽くなった。転んだ。それでもすぐに立ち上がり、進んだ。心なしか、ククリナイフも軽くなったようだった。声の主に、少しずつ近づいているようだった。もう少し、あと少しだ。やった、やった!
人影が見えた。怒りとは違う、頭の沸騰を感じた。そしてようやく、たどり着いた。声の主の正体は、やはり男性で、見た感じは三十代前半の人間だ、カフェオレの髪はあまり手入れされていないように感じる。腰には、鞘に入った剣をぶら下がっていた。よし、救世主と呼ぼう。救世主が、同じくカフェオレの瞳を愉快そうに隠した。
「おう、人が居てよかったぜ!」
そう言いながら、僕に近寄ってきた。正直抱きつきたい。
「僕、人なんて居ないんじゃないかって、本当に怖くて……安心しました。あなたは……人間そのものですか?」
ここが楽園であるかどうかの確証が欲しくて、そう聞いた。あの世界には、人間そのものは居ない。あそこで発見された赤ん坊の僕はどうなるんだって話だが。
彼はもっと愉快そうな顔をした。
「当たり前だろ? じゃあ、答えてやったから有り金をすべて出しな。腹減ってんだよ、さっさとしろ」
「はい?」
意味がわからなかった。なに言ってるんだ救世主。しかもやっぱりここは楽園じゃない、地球か?
なら彼は銃刀法違反だ、まだ刃を見ていないから模造刀かもしれんが。
いやいや、地球にオーガは居ないよ。
「早くしろ、俺は炎界王アレクトだぞ!」
なんだそれは。外国人なのか? 宴会王ってなんだ、面白そう。アレクトさんは、そう言いながら自らの腰から剣を勢いよく引き抜いた。その剣から炎が波打ち、液体のように地面に滴る。いや……本当に、油が燃えているみたいだ。なんなんだ。彼のが演技じゃないのなら、本物の剣か?
「早くしろ、持ってんだろ? あんな大騒ぎだからな。あらかた、ここに隠しおこうって魂胆だろ、金を、大量に! 貴族みてぇな服着てるしなぁ!」
まったく言っている意味がわからない……財布の中には一万円入っているし、それを渡そう。
よかった、財布持ってきといて。
「あの、一万円でいいですか?」
彼の顔が少し歪んだ。やっぱり少なかったか。ていうかどうしよう、警察呼んだほうがいいのかな、いちおうスマフォは持ってきているが……通じないよなぁ。たぶん、ここは僕の知っている世界じゃない。
「イチマン……エン? エンってなんだ、ふざけてんのか? 殺して奪ってもいいんだぞ」
アレクトさんの目には、本当の殺気と悪意がこもっていた。その瞳に、心が冷える。怖かった、脳みそがビリビリした。鬼獣やモンスターに感じる恐怖とは違った。
また死ぬ目に合うの……ちょっと、ビビって足に力が入らない。ていうか日本円を知らないって、日本語使ってる癖になんだよ……そういえば、妖怪たちもべつの言語を使っているが日本語に変換されるんだったかな。いや、それよりも命乞いしよう。財布は出さない、日本円出したら殺されそうだから。
「すみません、お金持ってないんですよ……」
「うそをつくな!」
本当だよ、ドルとかヤードとかオマーン・リアルとか持ってないよ。
あぁ……どうしよう。崩術で対抗する? いや、駄目だ。
崩術を教えてくれた中国人の男性、李国燕さん三十二歳はこう言っていたじゃないか、「にんげつかう、だめぜたいだよ!」と。つまり、人間に使うのは駄目絶対ということだ。その癖、僕にちょっと使ったりして、挙句の果てに所持金すべて取られたが。
あぁ、どうしよう……そうだ。
「わかりました、僕の体を隅々まで調べていいですよ」
「ふん、じゃあそのナイフ、捨てろよ」
僕は、言われたとおりにククリナイフを手放す。すると、アレクトさん……さんはいらないや、アレクトはニヤニヤとしながら歩みを寄せ、僕の目の前まで来た。
彼は、取調べのように、肩から調べ、腕へ。そして、上着のポケットにも手を突っ込んだ。
「ほぉう? なんだこれは?」
「それ、スマートフォンっていうんですよ」
アレクトは、鼻で笑いながら僕のスマフォを自らの懐にしまう。さらに、僕のベルトにぶら下がる幻永花ストラップに気づいたようだった。
「これは?」
「それは、駄目です」
「……金目のものだな?」
彼の視線は、幻永花ストラップに釘づけだった。口は再び笑みを取り戻し、手を伸ばす。だから彼は気づいていない、僕の口も同様に、いや、それ以上に、チェシャ猫のごとく釣り上がっていることを。
アリスさんの言葉が一つ、思い出の中で輝いた。
初めてアリスさんと楽園へ行ったとき、彼女は言ったんだ。
『王雅くん、ボクは君が元気ならなんでもいいよ』
彼の頭をつかんで、流れるように膝蹴りした。
まだやめない、頭をつかんでいる手を離し、両手で拳を作り合わせ、屈んでいる彼の頭に叩きつける。
彼が地面にへたり込んだのを見て、すかさず蹴りを入れる。何度も、何度も。立ち上がってきたら怖い、殺されたくない。そう思った。
そのうち彼は、ぴくりとも動かなくなった。息は……してる。
彼の懐を漁り、スマフォを取り返した。
鼓動が僕を傷つける、心臓が痛い。僕は、人生で始めて、人に対してひどい暴力を行った。しょうがないとも思った。でも、心臓が痛かった。
「なんでこんな……っ」
言いかけて、やめた。気づいた。もしかしたら、僕の妻たちも、つらい思いをしているかもしれない。僕より、もっと。
勾配がだいぶ緩やかになってきたので、そろそろ山から出られるだろう、頑張ろう。
ククリナイフを片手に、僕は右目へ力を込める。
「欠片眼!」
長内王雅、十九歳。ファンタジー異世界へやってきた。