第一節 紺碧の夜 前編
桃色の天国だった。
僕の瞳には、桃色の天国がはりつけられていた。つまりは、可愛い女の子の桃色映像であった。
ジトたん。あぁジトたん。原作ライトノベルからコミカライズし、はてはアニメ化した作品の主人公、ジトたんが目の前に居る。
この冬、僕が胸焦がす作品の名前が、「ジッとして! ジト目のジトたん!」である。最近全国多発のジトたんを巡る珍事などで、何年か前のアニメなのにまた盛り上がっている。
息切れとともにそう叫んでから二分が経った頃、十四畳の暗い自室に達成感のある汗が小さく弾けた。
激しい心臓の鼓動も、静かに、緩やかになっていく中、隣室の笑い声が僕の脳を刺激した。何度も聞いたその声は安心感と自らの愚かしさを訴えてくる。思考も冷えるこの夜、僕、長内王雅は、大層な名前をあざ笑うかのような行為に、少々特殊な力を利用し、没頭していたのだった。
そう、少々特殊な力。
僕が最近使えるようになったこの力は、自らの脳内に思い描いたものを、映像として瞳に映すことができる。また、自分が体験した過去の映像も見ることができる。音つきで。
その時、僕の右目は紺碧に輝いている。鏡で確認した。格好よすぎて腰が砕けるほど、クールだった。
例えば、このように。
左目は閉じて、暗闇へ。力を流した右目には、黒鳶色の毛先も、メガネの縁も消えて、世界が浮かびあがった。
当然といった顔で広がる空は、夕闇と夜が溶けあって、紫色を奏でていた。その下に雲はなかったが、代わりに、月白の繭に包まれた赤ん坊と老いた男を、歓迎することもなく薄暗く照らしていた。
どうしようもなく孤独な荒野は、二人を場違いだと責め立てていた。この世界にとって二人は異物なのだ。その光景を見下ろす僕には、そんな風に見えた。
だがそれを知らぬ赤ん坊は、さもここが自らの居場所だと主張する寝顔を浮かべていた。それはいまも変わらない傲慢さなのだろう。僕はこの赤ん坊を知っているから、わかる。
この赤ん坊は、過去の僕なのだ。
そして、もう一人……世界の異物である老いた男、その名を長内零時はようやくというべきか、ひそめた眉を緩め、ついでに口も緩めた。
「こんなところに赤子を置き去りにするなんて、許せませんね」
芝居がかった口調であった……が、これは彼の素なのだ。僕がそう言い切れるのは、彼と深くつながったからであろう。変な意味じゃなくて。
そして『こんなところ』と彼は言ったが、それはもう本当に危険なところなのだ。だからなのか、彼は危険で孤独な大地から僕を遠ざけた。
「あなたは今日から僕の子ですよ」
彼の目は、優しさという文字が入り込んでいた。その下では、緊張感のない微笑みが口角を引っ張っていた。そんな人だからこそ、僕は彼をこう呼ぶのだろう。
お父さん、と。
「右目が光ってるよ!」
突然のことだった。
柔らかくも、やかましい衝撃に襲われた。僕の目には、現実へ干渉する能力はない。つまりは、現実のことだ。
僕の背中の後ろにはなんとも形容し難いものがあるはずなのだ。きっとそれはこの右目よりも非現実的で暴力的なのだ。
それは、胸なのだ。
折角、いまは亡き父との綺麗な思い出を振り返っていたのに、なんだか台無しにされた気分なのだった。
にしても、いつの間に入ってきたんだ。第六感が鈍ったのかもしれない。
「少し、力を使っていました」
ため息を零すようにそう告げる。紺碧に輝いているであろう右目から力を抜き、振り返るとやはり非現実的で暴力的な胸が、パジャマの中に隠れているはずだ。その持ち主の顔は、どうにもあどけなさが残っていた。悪く言えば、おバカ面だ。
彼女を昔から知るからこそ、そう思うのかもしれないが。
胡桃色のミディアムヘアーには今日もキューティクルの証である天使の輪が乗っており、長いまつ毛の下からは、雀茶色の瞳がしっかりと僕を見据えている。やはりその胸は、ファンタジックに重力に逆らい、それはそれは大きな果実であった。
七愛。それが彼女の名前。
姉でもなければ妹でもない。無論、母親でもない。七愛は、幼馴染であり、僕の妻だ。
そんな彼女がいきなり、大声を上げた。
こいつはいつもそうだ。唐突に部屋に入ってくれば唐突に大声を上げる。
「どうしたんですか?」
僕が疑問を投げかけると、あろうことか七愛は目を逸らしながら僕を指差した。人を指差してはいけないと習わなかったのだろうか。まあ僕もたまにやるけど。
だがどうにも、その指先の指し示す方向に違和感を覚える。さらには、なぜか涼しく開放感がある。
ワイルドでクールな気分だ。
「あぁ」
僕は無意識にうめきを落とす。そりゃ七愛は驚くだろうし、涼しいだろうし、開放感もあるだろう。その上、ワイルドでクールだろう。当たり前だ。
僕は、下半身に、なにもまとっていないのだから。
「すみません!」
慌てて下半身を隠しながら、とりあえず謝る。普通の夫婦であればとくに気にしないだろう。
だが僕には経験がない。ただの、一度もない。無論、それなりの理由もあるのだが。
「もう! 変態で敬語だね!」
七愛が顔に紅葉を散らしていた。
変態で敬語って……敬語はべつにいいだろうに。お父さんが誰に対しても敬語だったし。
だから僕も、誰に対しても敬語で、一部を除けば敬称だ。
その一部とは、その必要性がない人物。
七愛、お前のことだよ。
「ねえ、王雅くん。その目って結局?」
七愛が甘ったるい声を上げながら、能天気に首を傾げる。その問いに僕はすぐさま答えようとしたが、できなかった。
僕もそれについてはよく知らないのだ。
はっきりとしているのは、生まれた頃から、周りの人には見えないものが見えたことだ。人のステータスとか。
冗談だ。
見えていたのは妖怪を主体とした魑魅魍魎で、それも日常的に居た。
その延長線上に存在するのが、この輝く目なのかもしれない。
「なんで放心してるの?」
「ん……すみません。考えてました」
僕は、彼女の存在を否定するかのように、完全に頭の中へ入り込んでいた。悪いことしちゃったな。
だが僕はそれでもやめない。
「またすこし、この力を使います」
僕は再び、この瞳に力を注ぎ込む。次に僕が見下ろしたのは、パラダイスだった。
そのパラダイスには、当然天使が居た。天使のような幼女に、幼女に、幼女。
走る幼女、飛ぶ幼女。ブランコに揺られる幼女に、砂場で遊ぶ幼女。僕の視線が男児を射抜くことはなかった。
ただ一人を除いては。
その一人、それは幼稚園児であり、男の子であり、英雄である僕であった。英雄というのは、いかにもヒーローらしいポーズを取っているからだ。
「僕の名はキングマン……究極の愛を守るため、推参!」
正直、震えた。格好いいなって、本気で思った。僕の瞳には、本気の英雄が映っていた。
その異彩は、周囲の幼子たちも魅了していた。
……魅了じゃ、ないな。引いてるな、どうにも。
「その子を離しなさい! このキングマンは悪党を許さん!」
しっかりキャラに没入している過去の僕こと、キングマンは、その引いてる子たちに叫んでいた。
男児が二人に、幼女が一人……よく見ると、その幼女は男児たちにいじめられているようだった。にしても可愛い幼女だ……どこかで見たことがある気もする。
本当に、おそらくこの幼稚園で一番可愛いだろう。名前が知りたい。そんなことを考えている間に、男児たちは散り散りになっていった。そりゃ、なんかおかしな奴が来たらそうなるよね。
僕は格好いいと思うが。
「大丈夫ですか?」
キングマンがそう問いかけると、最高に可愛い幼女は小さく何度もうなずいた。
「うん……ありがとう、キングマンっ!」
幼女の浮かべた笑みは、最高だった。最高に可愛くて、最高に最高で、それはもう最高であった。
キングマン、名前を聞け。恩を売れ。そんな可愛い子はめったに居ないんだぞ。なんか、かなり、見覚えあるが。
「君、名前は?」
さすがはキングマンだ! 僕の創りあげた最高のヒーローだ! でもさすがに答えはわかっているぞ!
「私、七愛!」
「そうですか。で、どうして奴らに狙われていたんですか?」
やっぱりか。キングマン、あんまり関わらないほうがいいよ……その子、おバカだから。
「泥団子をおはぎだから食べろって言われて、嫌だって言ったら、それでも食べろって言われて、こうなったの」
ほらね。
おそらくは飯事をしていたのだろう、だから食べるふりをすればよかったんだ。
それさえもわからないおバカなのだ……彼女は。それに、目には見えないが先ほどから肩やら腕やら頭やらに感触を感じる。七愛め、大人なんだからおとなしくしろ……ふふ、これ今度使おう。
「まだ起きておったのかの? ってなんじゃその格好は!?」
パラダイスの中で、究極が舞い降りた。これは過去ではなく、現在進行形の究極なのだ。
その究極は、幼稚園児の七愛と同じくらい、究極にキュートだった。略して、キュキュートだった。
僕は自然と目から力を抜き、キュキュートをうっとりと見つめていた。
「キュキュートです!」
うっかり言葉に直してしまうくらい、僕はうっとりとしていた。
「なんじゃそれは……」
なんじゃそれは。その言葉が既にキュキュートだった。
彼女はキュキュート出身、菫さん。妖怪だ。比喩とかじゃなくて、本当に妖怪だ。
真名はまた別にあるのだが、妖怪は、なかなかそれを教えてくれない。契約を結んだ時、七愛は彼女に菫という呼び名をつけた。らしい。
呼び名を別につけるのは、先駆者が始めた習慣だ。
菫さんは、七愛が使役する妖怪で、元々は、この地球とは違う、鬼獣と呼ばれる生物と、妖怪や他にもいろいろが住まう世界の、金桜の地というところに居た。検索しても出てこなかったが、そこの菫鬼という妖怪が菫さんなのだ。
僕はその世界に行ったことはあるものの、まだその金桜の地は見たことがない。名のとおり金色の桜が咲いていて、それはもう綺麗だとか。
いつの日か、その尊き聖地を拝みたいものだ。あっちの世界には、僕でも行けるしね。
「で、なんじゃその格好は!」
脳がその言葉を解く前に、僕はまずその声音をかみ締める。我が妻の声音を。
そう、菫さんも正真正銘、僕の妻なのである。僕は重婚している。
日本では重婚が認められていないので、あちらの世界で結婚式を挙げたのだ。あっちには法律とか、ないしね。
天使の制服、ウェディングドレスを着た菫さんは、そりゃもう鬼キュートだった。鬼合法ロリだった。
白菫色の髪は肩の下まで美しく流れ、菫色の瞳がすべてを吸い込む。そして、小学生と差ほど変わらぬ身長。普段着は和服。
だが、菫鬼という割りに角は生えていない。彼女の持つ刀、それが角そのもの、と説明を受けたことがある。
あぁ、なんと。
スペックからしてキュキュートだ。
……そういえば、菫さんはなんて言ったのだろうか。そろそろ寝ろだっけ。
「菫さんも、もう寝るんですか?」
「とことんスルーじゃの……まぁよい。そろそろ寝るのじゃ」
「私もず~っと! ず~っとスルーされてるよぉ!」
七愛、まだ居たんだ……ごめん。だけどそれよりも重要なことがある。
「一緒に寝ますか? 菫さん」
「パスじゃ。おやすみなさい、王雅、母上」
菫さんは、自らの主人である七愛を、母上と呼ぶ。七愛はそんな年ではないし、当たり前だが菫さんは七愛のお腹から生まれたわけではない。
だが、七愛の要望でそう呼ばされているらしい。元々他人の考えることはよくわからないが、これはとくにわからない。
「はい。おやすみなさい、菫さん」
「おやすみ、菫ちゃん」
僕と七愛は、挨拶を済ませ菫さんの背中を見送った。
ほんと菫さんってば、照れ屋さんなんだから。そう口の中でかみ殺しつつ、頬に手を当て、顔を逸らした先には……七愛が寝ていた。僕の、ベッドで。
早業だなぁ……断られたからしょうがない、今日は七愛と寝よう。
七愛は体温が高くて、冬には丁度いいと言いたいところだが、冬でも結構暑い、それにやっぱり、愛する妻なので手を出しそうになる。
だが僕は辛抱強く我慢するのだ。軽はずみに手を出してはいけないのだから。
不気味な笑みを浮かべ、瞳を隠した七愛をまたぎ、ベッドの壁側へすっぽり、はまり込む。
不思議と、気持ちよく寝られそうだった。
◆
始まりに包まれていた。
つまり、朝であった。
午前六時四十七分、と時計は告げていた。ぼんやりとそれを眺めながら、欠伸を一つ、ついでに背伸びをする。
感触的に、隣にまだ七愛が寝ているのだろう。
と、思った。
だが、ぼんやりと視界に映るのは白菫色で、天使のオーラを放っていた。
ああは言ったものの、寂しくなって七愛と入れ替わったのだろう。お茶目な子だ。愛くるしい、愛してる。
さすがに菫さんの体が小さいとは言え、三人で寝れるサイズではないからね。いやぁ、七愛グッジョブ。
布団に顔がもぐっていて、よく見えないが、だからこそ僕は彼女を抱きしめる。
こうして抱きよせて見ると存在感あるな。成長したのかな……? いや、まさか。数年、ともに暮らしているが、彼女は一寸たりとも成長していない。
「今日は、ずいぶんと大胆なんだね」
布団の中からそんな声が聞こえた。天使のオーラなんてうそっぱちだった。それは紛うことなき悪魔のオーラで、視界がかすんだ。
あと、七愛グッジョブは取り消した。
「どうして、ここで寝ているんですか?」
僕はメガネをかけながら、悪魔へ挑む。きっと、キングマンが見れば感動する光景だろう。僕はいま、最高に英雄だぜ。
その悪戯好きな悪魔は、布団からひょっこりと顔を出す。白菫色の髪は、菫さんよりも少し短かった。そして菫色の目だった。
菫さんを中学生くらいにしたら、こんな感じになるだろう、と言った体格であった。
彼女の名は、アリス。菫さんの姉であり、妖怪であり、僕の最後の妻だ。いつもいつも僕をからかって喜ぶ小悪魔なのだ。そんなところも大好きだけど。
アリスという名前も、七愛が名づけたのだ。菫さんもアリスさんも、いい名前だと思う。国が違うけどね……彼女もまた、真名をべつに持つ。
「昨日はあんなに優しくしてくれたのに……ひどい言いぐさだね。ボクのことなんて遊びだったんだ?」
ほらまたからかう。僕はそんなこと絶対してない、いままで一度もしたことない。ていうか妻なのに遊びもなにもないだろう。
「うそをつくのは、おやめなさい?」
「うそかどうか、ボクの体で確かめてみるといいよ。思い出すかもしれないからね」
今日も変わらぬ減らず口で、本当に楽しそうに笑う。そんな笑顔が好きだから、僕は強く出られないのであった。
「はいはい。おはようございます、朝食作ってくるので、どけてください」
「おはようのキスは?」
挨拶代わりにキスって、アメリカかよ。いや、日本でもやる人は居るのかもしれないが、恥ずかしいから嫌だ。
「そんな習慣はないです。そういうのは歯を磨いてから」
「そっか、おはよ。ご飯は炊いておいたから、まずは顔を洗っておいで」
悪戯のあとには、たまにだが優しさを見せてくれるのだ。そんなところに心臓が高鳴って、思わずキスしてもいいかも、なんて考えてしまう。
「王雅くん。格好いいスタイルだね」
だが、そんな気持ちもたった一つのことで消し飛ぶのだ。
立ち上がった僕を見て、アリスさんは言った。その紫電が貫くのは、僕の下半身であった。
それに気づいた時、血が逆流していくのを感じた。僕の僕は元気なのに、当の僕は元気がなくなった。
なんて言うんだろうね。簡素に簡潔に言うのなら。
「パンツ履くの忘れてたんですけど!」
この一言に尽きる。