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大型連休もあけた五月の初め、成り行きで結成させられた映像研究会のメンバーはなぜかしら四人に増えていた。
元からいた自分と椎名に加え新たに二人の奇特な新入部員が表れたのだ。そのおかげでいつの間にか同好会は正式な部へと昇格させられていた。椎名がとこからか見つけてきた顧問である千義の担任の真嶋と今は文科系の部室棟となっている旧校舎の端、椎名と初めて出会った物置教室を部室として手に入れてきたのだ。
「暇だ」
少子化のためだろうか教室の半分ほどに積まれた机と椅子の山。その中のいくつかの机と椅子と、文化祭で使われたあまりなのか教室に残されていたクッションと端切れを組み合わせたソファにしなだれかかった。やはり、正規品とは違い安いクッション程度の柔らかさでは元来の椅子の硬さは補えず、木の硬さが伝わってくる。
「そういうことを言う前にまず、手を動かしたらどうだ」
その言葉に仕方なく目の前に置かれたプリントの束に向かい合った隣には丸坊主の男も同様にプリントの束を睨みつけていた。注視すれば自分よりも随分進んでいるらしくもう一、二枚で終わるほどの量だった。
「やってられるかぁ」
目の前にないプリントの束のない椎名へシャープペンを飛ばす。予想していたのか蟲でも払うように心臓を狙ったシャーペンを払われた。
「真面目にやれ、北沢はもう終わるぞ」
こちらを見る坊主頭の北沢は無表情のまま親指を立てた。
「勉強だけで私の何が図れるってんだ」
「お前の馬鹿さは良く図れる、なんともまぁよく主要五教科すべて赤く染めた人なんて始めて見た」
心なしか冷たい椎名の視線を流し、ともに追試の代わりの課題を埋める北沢を見る。
「それなら北沢も一緒に追試代わりの課題してるじゃない。」
同意を求めるともうすでに北沢の前には課題の束はなく代わりに漫画の山が出来ていた。
「あ、ずるい。自分だけ先に終わらせやがって、裏切り者」
「誰が裏切り者だ、北沢はもとから国語だけなんだから単純計算でお前の五分の一なんだからはお前より早く終わるのも分からないほどお前は阿呆だというのならまず数学より先に算数を教えなければならんが」
「本当にあんたってそんな嫌味な言い方しかできないわけ、そんなんじゃ一生結婚できないぞ」
「他人の心配する前に先に自分の課題の心配をしろよ」
勝ち誇ったような椎名の顔に旗色悪しと引き下がる。苦々しい顔で彼を睨みながら空欄を埋めていく、その間に椎名にはゼリーを開けると必ず指に汁がかかる呪いをかけた、これからは毎回指が甘くべたべたになればいいのだ。
睨むつける自分と椅子に座ったこちらを見下す椎名との間に火花が散る。ああ、本当にこのマイクロンをどうしてやろう、小人らしく床下に放り込んでやろうか。ミシミシと手元のシャーペンが嫌な音をし始めた時だった。
「買ってきましたよ」
少し掠れた甲高い声が聞こえてきた。声と同時にがらりと教室の扉が開いた。目の開いているのか閉じているのか分からないほどの糸目の女子生徒だった。染めていないのにもかかわらず少し赤毛の長い髪を後ろで三つ編みにしていた。腰ほどまで達しそうなおさげを左右に揺らしながら両手に持ったポリ袋を運んできた。
「キーちゃーん」
これ幸いと椎名の視線によって縛り付けられていた椅子から飛び出し同輩の懐へと抱き着く。ほとんどの女子よりそして大多数の男子よりも大きなこの体で自分の肩ほどまでしかない彼女へと突撃するのは里香ちゃん人形に軽トラがぶつかりに行くようなものだ。結果は里香ちゃん人形の大破となるはずであった。
しかし、いつものようにその突進はかわされいつの間にか地面とハグを交わしている。もはや見慣れた光景であった。身長百七十オーバーの突進でさえ軽くいなす女子高生、それが四人目の部員安藤紀久子であった。
「お疲れさんドロス大王」
私がひんやりと冷たい床との抱擁をしていると椎名が彼女に買い出しの代金を渡す小銭の音がした。
「課題終わったの。桜子ちゃん」
背後から聞こえる声が無性に心に刺さる。椎名と違って悪意のない分、殺傷能力は高い。地面との抱擁からソファの横に置かれた扇風機の前を陣取る徹底抗戦の意思を見せた。
「何が赤点だ、何が補修だ、私の人生は後、百年しかないのだからこんなことをしている時間はないのだ」
扇風機に向かいせめてもの涼を得ようとするが扇風機の送る風も温い空気ではどうしようもなかった。旧校舎であった部室棟にはもちろんエアコンなんて言うハイテク機器はなく、あるのは倉庫代わりの教室の奥に転がってた古いおんぼろ扇風機だけであった。しかも、元は壊れていたもはやごみであったのを、何とか北沢が動くように直したのである。おかげで首振り機能も壊れて、タイマー機能なんてものはもとから存在しない有様だった。
「千義、どけ、暑い」
「無口な北沢が三語以上言葉を話したくらいだぞ、さっさと座ってプリントをやれ、馬鹿」
「人のこと何度もバカバカっていうほうが馬鹿なんだ、バーカ」
椎名の反撃をかき消すため扇風機の羽に向かってあー、といった。宇宙人の声に聞こえた。その様子を見ていたのか視界の端に見えた彼は頭を抱えていたようだ。
「椎名くん、こんなになるまで座らせて、何時間桜子ちゃん勉強させてたの」
「三十分です」
頷く北沢に思わず目を見張る。そんなに短かったのか、体感的にはもう三日は飲まず食わずで勉強をさせられていたような気がするというのに三十分、あの地獄の三日間が三十分、そう考えると炎の七日間は七十分ってことか、一時間ちょっとか、耐えられそうだな。
「駄目じゃない、桜子ちゃんがニ十分も勉強していられないなんて分かり切ったことじゃない」
「ぐはっ」
我が部最後の癒し我が愛しのキーちゃんにまでそう言われてしまった。むしろ傷はいつもより深い。扇風機の前に倒れたままもう寝てしまおうかとも考える、それがいいきっとこれは夢なのだ、あの辞典の様な厚さのプリントの束も椎名の呆れ顔もキーちゃんのちょっと困ったものを見るようなかわいい顔も漫画を読んでいる北沢の顔も、そうだ夢なのだ。さっさとこの悪夢から目を覚まし、いざ夢の現実へ。
「じゃあ、夢に旅立つ奴にはこれはいらんな」
「え」
背後から聞こえるカサカサというコンビニ袋を漁る音と椎名の声に振り返るとポリ袋の中からは手の平よりも一回り大きな丸いものが見えた。
「それはまさか銘菓達摩屋の大判どら焼きではないか」
「本来なら行列必死、開店して十分もすればもうすべて掃けてしまうその大判どら焼きを手づてを頼ってようやく手に入れ食べようと思っていたのにそうか、千義は夢の国に旅立つそうだ、それじゃあこの余った一個は三人で分けるか」
「神様、仏様、椎名大明神様、私はまだ物欲を捨てきれない未熟者の身、それゆえまだ悟りの道は遠いのでとりあえず夢への逃避は止めるのでどうか」
いつの間にか体は勝手に平伏していた。今なら椎名を褒めたたえる文言も湯水のように出てきそうだ、椎名株はストップ高、もはや全人類がミドルネームに椎名万歳をつけることもいとわない。
しかし、そんな私の姿を冷たい目で見る男がいた、もちろん椎名である。私の目の前にどら焼きをつりさげ、左右揺らす、つられて自分の視線も左右していることを止めるのはできない。どうやら彼を崇め奉る賛歌が気に入らなかったのか、一向にこちらにどら焼きを渡してくれそうもない、仕方ない、強硬手段である。土下座に近い体制からそのまま椎名の懐まで体を一直線に伸ばし一気にどら焼きをかすめ取る、名付けててどらを狙うロケットネズミ作戦。一部の狂いもない計画、元陸上大会の選手にも選ばれたことのある私にスプリント勝負をかけるとはいい度胸ではないか。椎名の視線が少し右を向いた。号砲が鳴る。
一秒もたたず私の手の中にはどら焼きが握られているはずだった。しかしあるのは腹に私の頭突きを食らう形になった椎名の死体と空を掴む掴む私の右手だった。しまった、つかみ損ね椎名の下敷きになってしまったか、あわてて椎名の死体を放り投げあたりを探すがなにも落ちてはいなかった。消えたどら焼きに首をかしげる。後ろからぱすっ、という軽いプラスチック袋の音がした。見ると先ほど椎名の手の中にあったはずのどら焼きは無事愛しのキーちゃんの手の中にあった。
「キーちゃん」
思わず神に感謝する、今ならどんな神でも信仰してしまうだろう、立派な信者となって見せよう。
「おやつはプリントが終わってからね」
神は死んだ。
その後、一時間ですべてのプリントを終えたが、その際に椎名からは最初からもっとも味目にやれという有難い説教とキーちゃんからの生暖かい視線、そして北沢からのうまいの一言を頂戴することとなった。
「本当に、なんで俺がこんな巨女の勉強なんて見てやらんといかんのか」
深いため息をつきながらどら焼きにかぶりつく椎名の視線、何時もの様に怒っているのならまだ反抗の仕様もあるもののこうして悲しくため息をされてしまうとなんとも申し訳なくなってくる。今なら五センチくらいは縮んでいるような気がする。もっと言うがいい。
「別に手伝ってくれって言ってるわけじゃないんだから、面倒なら手伝ってくれなくていいんだけど」
「人のことを言えるほどじゃないがお前も随分と口悪いよな」
二度目のため息を履くといつの間にか買っていた牛乳のストローに口をつける。
「なんでこんな存在意義のない部の申請が通ったか分かるか」
確かに考えてみれば絵の練習場所に教室がほしい、運動部の地獄の練習から逃れたいという不純な理由しかないこの部がなぜ存続しているのか分からない、今日も課題がなければいつものように持ち込んだお菓子を食べ、漫画を読み、たまにトランプをし、椎名の絵をバカにしたり、たまに教えたりする、そして時間になったら帰るという学校が禁止しているようなことばかりやっているような気がする。でも、漫画はもとからこち亀が百巻まで置かれていたのだからグレーゾーンだろうか。
「そういえばそうだね、私たちが来た時にはもう同好会って成立してたふうになってたけど」
安藤の疑問に北沢も頷いた。この学校では一応何かしらの部活に入らなければならず、彼ら二人も一度はどこかしらの部に入ったのだが、なんとも人間関係の不安から、流れ流れてここまで来てしまったのだ。それが五月の初めほどだった。そう考えるとなんとも随分早期に部としては決まっていたようだ、成立だけで揉めそうなのにそれが公認の教室までもらえるとは確かに不思議だ。
「ということは椎名お前まさか、真嶋先生のあんな秘密やこんな秘密をネタに嫌がる先生を強引に」
「阿呆な言い方をするな、誰が四十のおっさんの秘密なんぞ握りたいか」
せっかくのどら焼きが不味くなる、と今度はどこからか取り出したお茶を口に含む。ペットボトルの緑茶をラッパ飲みすると、一気に半分ほどを飲み干していた。飲み口から離し口を拭う。
「なあに、そんなに、いいやそんなにじゃないのか。まぁ、特にブラックな方法は使っていないさ。ふつーに用紙を書いてフツーに提出しただけだ」
「うそだぁ、そんなに簡単に通るわけないじゃん、私が生徒会長だって認めないもんこんな遊んでいるだけみたいな部活、教えろよぉ」
椎名は露骨に嫌そうな顔をした。
「別に面白くないぞ」
「それは困る、せっかく椎名のあくどい手練手管を白日の下にさらそうっていうのに面白く無かったら意味ないじゃん。エンターテイメントなのに」
「そうかそんなに聞きたいなら教えてやろう」
がばっ、と立ち上がった彼に三人で歓声と拍手を送る。
「同好会の申請には生徒会の許可は必要だが、予算も割り振られず、正確には部室も割り振られない、しかし、暗黙の了解というか、慣習的に旧校舎の教室にはどの同好会がどの空き教室を使うかというのが決まっている。絶対ではないがそれを崩すのは周りからの顰蹙を買うことは間違いない。そこでだ、俺は、もともとは使われていなかった倉庫代わりの空き教室であるここに目をつけたのだ。今でこそ人の住めるほどの空間が出来てはいるがもとは文化祭の余った資材とか、いつの間にか使わなくなった事務用品とか、卒業生が持ち帰らなかった美術の彫刻とかがここにうずたかく積まれていたのだ。それを片付け、やっとこんな快適空間を手に入れたのだ。」
そう言う彼の背後にはいまだ机やがらくたの山になっている、自分の白い眼を彼は全く無視した。
「そうしてやっと手に入れた空間で人が気持ちよく絵をかいていたら飛び込んできたのがそこの巨人だった」
「誰が巨人よ」
こちらを差している人差し指をもぎっとってやろうと手を伸ばすとすっと逃げられた。こざかしい。
「しかもその闖入者はなんと都合の良いことに名前だけ滞在したい部活がほしいというのだ、これ幸いと早速、同好会の申請をしたのだ。まぁ同好会とは言えども、既定では構成員が二人以上なのだが実際には最低限三人は必要だから、俺としても申請が通るとは思って居はいなかったのだが」
「じゃあなんで通ったの、しかも顧問と教室までもらって」
「やっぱりあれだよ、あの美人生徒会長の秘密を握ったんだよ、サイテー」
「ありもしない罪をでっちあげるな。」
えへん、とわざとらしく咳払いをする椎名。
「でだ、申請を出したと思ったら次に日には職員室に呼ばれたのだ。そりゃ、こんなあやふやな部活が認められないとは思っていたからな。しかし、職員室に行ってみれば俺を呼んだのは部活動関係の担当である生徒会の仁科先生ではなく、剣道部の顧問をやっている真嶋先生だった。なぜわざわざ俺の担任でもない真嶋先生が俺を呼ぶのか。確かに数学の受け持ちではあるもののそんなに接点があるわけでもないのに、そんな目をしていた俺に気付いたのだろう、真嶋先生は言ったのだ。『今お前の同好会に名を連ねている千義のことだが、単刀直入に言おう、千義の赤点を回避させろ、代わりに俺が顧問になってやろう』とな」
わざわざ立ち上がりこっちを見下ろすと真っ直ぐこちらを指差し、高笑いとともに言った
「つまり、お前の阿呆さによってこの部は設立されたのだ」
「椎名ならまだしもまっしー先生にまでそんなことを思われていたなんて」
椎名だけならまだ言い訳もできた、しかし、担任にまで阿呆扱いされたいたのか、それはなかなかショックでもある。道理でこのプリントの山を渡されたとき、椎名に次はないと言っておけ、と言われたのはそういうことだったのか。
「まぁまぁ、そんなに落ち込まないで。何はともあれ、桜子ちゃんが赤点だったからこの部室もあるし、どら焼きも食べられたんだから」
ぐはぁ、最期の良心、キーちゃんにとどめを刺されバタンと机に突っ伏す。
「倒れ込むな、邪魔だ、ただでさえで巨人なんぐふぅう」
主犯はとりあえず〆ておく。あれ、と首を傾げあわてて愚にもつかないフォローをし始めたキーちゃんの言葉を聞き流した。北沢は何も言うことなく飴をくれた。ハッカ味だった、解せぬ。
飴を口の中に放り込んだとき何故か白い飴が苺の味がした。
北沢に違うじゃん、そう言おうと顔を上げた。気が付くと今目の前にいたはずの北沢の姿はなく、今までいたはずの小汚くて少しくらい部室の影は形も無くなっていた。自分が座っていたはずのぼろいソファはいつの間にか真っ白なシーツのベッドの上になっていた。視線の先には四角くて白い白色光の電燈が見えた。座っていたはずなのにいつの間にか自分の体は横たわっているらしい。視界は目の前の白い天井から変わることはなかった。口の中は甘く、時折、何かの音が聞こえてきた。金属同士がこすれ合う様な音、重いものが動く音、無機質な機械音、嫌な気分がした。本当にまるで自分が自分じゃないような。
いやだ、ここは嫌だ、嫌なところだ。逃げ出さねばならない、どこかここではない別のところへ行きたい。あの教室に帰りたい。そう願っても体は動くことはなく、視界は動くことはなかった。どれだけ叫びたくとも息は吸えず、喉は鳴らず、言葉は出ない。その癖に感覚だけは感じた。シーツの滑らかな肌触り、温いプラスチックのつるんとした感触。
感覚だけは残ったまま、何もできない体、監獄に閉じ込められた囚人、いや、それならばまだましかもしれない。自分で動く事が出来るのだから。しかし、今の自分は、ただ感じる事が出来るだけ、すべての感覚を感じながら、それで終わり。苦痛に悲鳴を上げることも、恐怖から逃げることも、助けを呼ぶことさえできず、望みを叶えることも無く、ただ感じ、そして死ぬだけ。自分は何もできず、ここでこのまま生きて死ぬ。何をしたとしてもどんなことも無意味に消える。自分の仕様とすることもすべてが消える。この真っ白な天井を見ながらすべてを無駄にしながら生き続ける。北沢に昨日のテレビの面白いとこの話をしようと思ったんだ、キーちゃんが今日はマフィンを作ってくるって言ってたから今日はメープルシロップを持ってきたんだ、まっしー先生にこの前の生物のテスト平均超えたんだって自慢してやろうと思ってたんだ。
椎名に言おうと思ったんだ。
本当に何もかもが嫌になってくる。何もできない自分が、何もできなかった自分が、どうして動かないのか、どうして、どうして、やめてくれ、やめろ、やめて、また私は一歩も踏み出せないのか。
否応なく見えていた白い天井が急に真っ暗になる。嫌に真っ白な天井はもう見えなかった。瞬きの先にあったのはコンクリート打ちっぱなしの灰色の天井だった。遮光カーテンの端から陽の光が伸びていた。丁度、その光が目を照らしていた。まぶしくもゆっくりと暖かくなっていく感覚、熱が先ほどまでは動かなかった体に伝わっていく、手が動いた。軋むベッドから起き上がる。やっぱり暗い廊下を伝っていく。少しだけ扉の開いた部屋からは最近、なじみになった匂いが流れてきた、おいしそうな、けれど苦そうなそんな匂い。扉を開けた先にはやっぱりなじみのあいつの顔があった。くそたれ眉、けれど最近のいつもとは少しだけ違った。いつも来ている白のワイシャツではなかった。どこかで見たような和柄のシャツとジーンズ、彼がいつも着ていた服だった。新聞から顔を上げ、こっちを見た。いつものようにニヒルな笑みを浮かべると小ばかにしたように口を開いた。






