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一週間ほどたった金曜日のことだった。
「千義さん、ちょっといいですか」
いつもなら朝早くに出掛けている彼に起こされ、久しぶりに朝早くに起きた。
「なんでしょう」
先日近くのショッピングモールから購入という名の窃盗してきたパジャマ姿のままリビングに行くと彼はもうすでにワイシャツとスラックスに身を固めていた。寝ぼけ眼の私に目覚まし代わりの朝食とコーヒーを差し出した。ホットサンドに齧りついた。トマトがおいしい。
「ちょっと、今日は千義さんに付いて来ほしいところがあるんです」
「ついてきてほしいところ」
短い共同生活ではあるが、彼が初めて頼んできたことに少し驚いた。平日は出勤するようにスーツに着替え、朝早く出かけていき、いつも七時ごろに買い物をして帰ってくる。気が付けば家の中にいて、思い立てばどこかへ出かけている、そんななんとも雲の様な男からの依頼に少し面食らったのだ。
「ついてきてほしいってどういうこと、何かする事でもあるの」
お化けになったのに、試験も勉強も仕事もあるのだろうか、目の前にいるスーツ男はまるでどこかへと出勤しているようだけれど。
「そうですね、会う前に話しておいた方がいいかもしれませんね」
「話しておいた方がいいこと」
はい、と彼はどこからともなくB三ほどの大きさのパネルを取り出した。
「何それ、どっから出したの」
「企業秘密です」
とん、と食卓に立てたそのパネルにはでかでかと『初心者カケラのしなければならない五つのこと』という文言が鮮やかな蛍光色で書かれていた。
「なにその売れないハウツー本みたいなタイトル」
「ようやく千義さんも慣れてきたようなのでちょっとお勉強の時間です」
そう言う彼の笑った顔は椎名が揚げ足を取ったときの様な顔を思い出させる、なんとなく腹が立った。
「どういう事よ」
「簡単に言えば、カケラとして生きていくうえでの必要な約束事みたいなものです。法律みたいに守らなければ捕まるわけじゃありませんけど、社会的に生きていく上では守らないと周りの顰蹙も買います」
「生きていくって、そんなところは生きてても死んでても変わらないのね。面倒くさい」
「生きていても死んでいても、寄り集まっているのはどっちもおんなじ人間ですから、仕方ないです、それでは一つ目」
フリップをめくるとへたくそなリンゴの様なものを持った人の絵とともに謎の大きなばってんが書かれていた。
「ものは取り過ぎない様にしよう、ってどういうこと」
「僕たちに本物は触れません、触れるのはカケラだけ、だからスーパーに置いてある品物も一個本物があればいくらでも取る事が出来ます。あの砂時計の様に」
確かに横を向けば今もあの時と同じまま砂時計が置かれていた。目の前にいる彼も自分もあの一つしかない者から二つの物体を取り出せた。
「別に、良くない。本物が一個あればいくつとっても減るもんじゃ無し」
「確かにそうです、でもむやみやたらに取れるからと言って取り過ぎるのは精神衛生上良くないということでして」
「そんなこと良くない、普通に考えればいらないのにそんなに取るやつもいないでしょうに。とったところでどうしようもない」
そう言う自分に彼は少し困った顔をしていた。
「なんというか、僕たちの精神はもともと生きていることをベースに作られていますから、生きるという大前提を失ってしまうと精神が上手いこと行かなくなることがあるんです。だから、生前のままとはいきませんができるだけ生きていた頃の様に保つことで精神のバランスを保つべきであるって、この世界に来た昔の偉い学者が言ったことを組み込んだらしいのです」
「最後の方なんか曖昧ね」
「ようは悪いことはしてはいけませんってことです」
「今度は適当過ぎない」
「約束の時間もあるので、さっさと行きます、二つ目」
新たなフリップにはまたしてもブサイクな犬なのか猫なのか分からない動物たちが横に並んでいた。
「みんな仲良く、です」
「幼稚園児じゃないんだから」
「カケラは、それこそ人口が少ないですからね、百人、千人に一人くらいしか出ませんからね、その分見かけたら、仲良くするというか困っていることがあったら手伝うとかそんな感じです」
「この辺りには誰かいないの」
「この辺りにはいませんね、もっと町の方に行けば集団で暮らしている人たちもいますけど、僕もそこそここうして暮らしてますけど、会ったことのあるカケラなんて百人もいませんし」
「そんなに少ないの」
「ええ、この前言ったイオンにもあんなに人がいたのにカケラは誰もいなかったでしょう」
東館の食料品店の衣料品の区画を少し除いただけではあったものの視界の三割ほどは人で埋まる程度には多く、しかし確かにカケラと思われる者は誰もいなかった。
その中で、知り合いの椎名と会えたのは随分と幸運だったらしい。
「シャカシャカ行きます、三つ目」
『騒ぎを起こさない事』
「騒ぎを起こさないってどういうこと、喧嘩とか」
「まぁ大体はそういうことだと思っておいて構わないです、騒ぎを起こしたら、目立つでしょ、生きていたら警察がすっ飛んできますけど、それがカケラになるとさらに面倒くさいものがすっ飛んでくるのです」
「地獄の番人とか」
「そんなものでは生ぬるい、地獄の極卒よりも厳しく、天使よりねちっこく、悪魔よりも執念深い奴らが来るんです」
「誰よ、そんな奴いるの」
「それは、聖職者です」
「聖職者って牧師さんとか、シスターとかってこと」
頭の中に思い描いていた化け物はテレビで見たことのあるやさしいお爺さんの皮に包まれた。
「ほかにもお坊さんとか、神主とかそんな神職に携わる人全般です」
エクソシスト、と言えば伝わりやすいかもしてませんね、と彼は胸の前で十字を切ると苦いものを噛んだような顔をした。
「でも、おかしくない。そんな人たちってそんなに危険なの、ちゃんと懺悔すれば許してくれるんじゃの」
「それは生きている人だけです。極卒は地獄に落ちるまでは何もしません、天使たちは生きた人間に何かすることのない限り不干渉です、悪魔は取引をしなければ置物と同じです。けど人間は僕たちみたいなカケラを見かけると狂喜乱舞して迫りくるのです。」
身震いする彼に少し俯いた、そうか自分はもう消される方なのかと。
「何もしていなくても、消されるの、何の悪いことをしていなくとも」
「僕たちはあまり生者に知られてはいません、普通の人には見えないし、信じられないし、記憶にも残らない、だからみんな知らない、だから怖いんです。もし僕たちが何かしてきたら自分たちにはどうしようもない、だからもしいいカケラでも怖い。どんなに仲のいい友人でもその友人にずっと首に手をかけられたまま生活することができる人なんていないでしょう。必ずその友人を蹴飛ばして消してしまう、そういう事です」
自分がまさか人類の敵として消される日が来るとは思ってもいなかった。出れたとしても一般参加のエキストラ役位のものだと思っていたのにそんな自分がまさかボスの様な人類の敵とは、なんとも大きくなったものだ。
「けど、この辺りはそんな目立ったような不良カケラというかカケラ自体があまりいませんし、ここを担当している坊主も適当な人ですから大丈夫です」
「でももし、気が変わったら、突然、消してやるってなったら」
いつまでも、放っておいてくれる保証はどこにもないじゃないかと彼を睨んだ。
「そうならないために、いろいろやることがあるのですが、詳しいことは後で説明します、ので今は大丈夫だと納得していてください」
その言葉に仕方なく口をつぐむと彼はまた次のフリップをめくる。
「四つ目は危険なものに気を付ける、です」
「なんというか適当さもここに極まれりって感じね」
「危険なものというのもいろいろあるんです。それこそさっき言った聖職者だったり、神社仏閣教会とかのいわゆる聖域と呼ばれるところだったり、不良カケラも入ります」
「いるその四つ目、誰でも危険なものには気を付けるんじゃない」
「それは言わないお約束なんです、伝統芸だと思ってください、そして最後の一つ」
彼がめくるとそこには何も書かれていない真っ白のフリップがあるだけだった。
「何も書いてないけど」
「五つ目は、自分で見つけて書き込んでください」
「安っぽい雑誌の付録じゃないんだから」
「あなたのカケラ生はまだ真っ白のカンバス。何色に染めるのもあなた次第」
芝居がかったセリフの彼には冷たい、湿った視線しか出てこなかった。三十分ほどかけた結果がこれとは随分と無駄な時間になったような気さえする。
「で、結局何が言いたかったわけ、もともと何かあたしに頼み事したいんじゃなかったの」
「そうでした、ちょっと出かけるのでついてきてくれますか」
「それは聞いたけど、結局何処へ行くの」
「知り合いのところです、この辺りの顔役みたいなものです、新しい住人の顔見せというか面通しみたいなものです」
「ふーん、あたしの用事なわけね、それじゃあ行かなくちゃ」
私の快諾に彼は面白いものを見るように笑っていた。