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そこは真っ白な部屋だった。
明かりなんてないくせにどこも等しく明るくて、どの光がどこまでも続いてゆく。何もない真っ白な部屋には影もなく、景色もなく、ただ真っ白な光が照らす。風もなく、暑くも寒くもない温い空気。自分の視界に映るのは自分の体だけ。上も下もないくせに確かに自分がいまベッドの上で寝ているという実感がある。
これが夢であることはすぐに気が付いた。
確証があるわけではないがなんとなくそう思った。動かない体と真っ直ぐ白い天井を望む視界、見慣れぬその光景があのマンションの一室と似ていた気がしたのだ。
動かないベッドの周りを、皆が通り過ぎてゆく。
はっきりと思い出せないくせにその彼らが自分の大切な人たちであったの言う事だけは分かる。両親かもしれない、友人かもしれない、先輩かもしれない、好きだった歌手かもしれない。
けれど、その顔は塗りつぶされ、思い出すことはできない。夢特有のぼんやりとした記憶、その癖にそれが胸の内側を掻きむしりたくなるほどの慟哭を呼び起こす。
けれど、その声は形になることは無く、声の届かない彼らに自分の存在は気づかれることも無い。
何も伝えることのできないこの身のまま、彼らの背中を見送るだけ。
誰に伝えるかも、どこに伝えるかも分からないこの体に溜まって煮えたぎる澱を残したまま、また一人になった。
無音の耳鳴りの中、携帯の電子音のような音が鳴った。
眠りから覚めるとまた同じ灰色の天井であった。この灰色の天井が一昨日のことが嘘ではないと告げていた。
昨日、帰ろうと思った。理解できないあの男の説明をすべて無視して、このままこの足でいつものように家に帰ってしまえばいい。現実感もなくただ体の中にたまってゆく今にもはちきれてしまいそうな何かに身を任せて、ここを出てゆこうとベッドから起き上がって部屋の中に置かれていたバッグの中から携帯を取り出してマップを起動した。どうやらこの辺りでは電波がつながるらしい。経路検索、現在位置から、目的地まで。
そうして指は止まった。
何処へ帰ればいいのか。
家、自宅、ホーム。小学生でも言えるはずの住所、それが思い出せない。住所も家の外観も自分の部屋も、おぼろげにしか思い出せない。確かに自分の家はあったし、そこに家族とともに住んでいた。しかし、詳細には思い出せない。見覚えはあっても何かわからない、そんな不快感だけで一文字も打つ事が出来ない。
椎名は答えた。自分たちはカケラだと、本来生きている自分たちから分かたれたカケラだと。そんな自分たちは確かに生きていた頃の自分たちと変わらないように感じる。しかし、実際には生きていたすべての記憶を持っているわけではない、と。
赤い磁器のカケラからその器が赤いことは容易に想像できる、しかし、その大皿の中心に何の図柄が描かれているのかは分からない様に。
起きたくない、そう思い毛布にくるまった、自分が死んだことを認めたくなくて、子供の様に嫌なことから逃げるように外界から逃げ、薄い毛布の壁一枚で籠城する。そうしたところで何の解決にもならないのは分かっていたがそれでもやらずにはいられなかった。布団の中で膝を抱え込み、何物も見ない様に眼を瞑る。けれど眼を瞑れば代わりに頭の中にはいつもの彼らが浮かんでくる。小さな採光窓から入ってくる光から今はもう日が空けて随分経ったのが分かった。今頃、皆は授業を受けている頃だろうか、それとも休み時間で友達たちと下らない雑談をしている頃だろうか、もしかしたら、もう昼休みで、みんなで弁当食べている頃かもしれない。いつもの光景、何時ものはずの光景、そして自分がもう二度と戻ることのできない光景。そう思うとただ目が熱くなり涙が出て行く。止めることはできなかった、ただせめてもと瞼をぎゅっと閉じた。
しかし、死していても生理現象とは来るもので、数時間もすればトイレにも行きたくなった。ベッドから出て、お手洗いを探す。簡単に見つかったお手洗いから出ると、家の中がなんとも静かなことに気が付いた。ふらりとリビングをのぞいてみればそこに人影は無く、机の上に書置きだけが残っていた。
『冷蔵庫の中にチャーハンがあります、レンジでチンしてください 雀谷』
どうやら彼は出掛けているらしかった。そういえば、腹も減った気がする。思えば一日山の中を歩き回り、二日寝て起きた日にはコーヒーしか口にしていない。よく死んでいないものだと、笑う、そういえばもう死んでいるんだっけ、と落ちもついた。
冷蔵庫の中にはちゃんと書置き通りチャーハンが入っていた。取り出して冷蔵庫の中に元が無くなったのだから多分、これもカケラなのだろう。生前と同じように使った電子レンジはやはり同様に動き出した。カケラと本物の違いがよく分からないなとレンジの中で回る皿を見ながら思った。
電子レンジから取り出したチャーハンはちゃんと湯気の立つ普通の食べ物のようだった。黄金色に輝く米粒とチャーシューの入った店でたべる様なチャーハンだった。添えられていたれんげでつつくと丸く盛られた山からポロリと米粒がこぼれる。崩した分を掬い取り一口含む。
「うま」
幽霊のくせに店で出てきそうなチャーハンを作っていた。パラパラの米とチャーシューがおいしかった。本当にそんなところまであの嫌味たれ眉に似ていた。いつもこっちのことを見れば嫌味を言ってきた皮肉屋、そのくせ、以前彼の手料理を食べた時には明らかに負けを悟った自分の顔を見てやたらと勝ち誇った顔をされた、北沢の静止がなければ彼の身長が今頃十センチは小さくなっているはずだった。
心臓の鼓動によって血が通うようにいくつもの日常が、思い出が、友人が、家族の姿が思い浮かび、体中を駆け巡り、自分がその日常には、その普通には戻れないという事実が体内を刺し貫いてゆく。本当に嫌になる、喚き散らせば、何かに当たれば、泣き叫べばどうにかなるのだろうか、多分ならないだろうし、だからと言ってこのまま幽霊でいることも許せない、どっちつかずの中途半端、本当にそんな自分が嫌になった。
部屋の窓からは多分今いるこの部屋と似たような集合住宅の建物が見えた。もう使われていないのかそのどこにも人影は見えない。一番端の棟はどうやら建造途中で放棄されたのか、周りは工事用の柵と灰色の防塵シートで囲われていた。もしかしたらバブル期の負の遺産なのかなと邪推する。猫の額のようなベランダに出ると辺りには緑が広がっていた。目の前に経っているマンションから察するに多分今いるこのマンションも十五階建てなのだろう。そして今いるこの部屋は十三階。違うかもしれないが別に違ったところでどうでもよかった。
高いこの部屋から見ると、森の様な山の様な緑に囲まれるようにこの住宅地は建っているらしい。見渡す限り大きな町も見えない、あるのはこの集合住宅地と、森と畑と、このマンションと同様に打ち捨てられたビルの残骸だけだった。開発に失敗したベットタウンのようであった。
上から眺めていても七月の熱い日差しの中、辺りには誰一人通らない。理由は熱気ではないのだろう、割れたアスファルトの隙間から背丈ほどの高さに茂った雑草たちがそれを物語っている。人影は無くたまに鳥が来る程度だった。
まるで映画の中で見た世界の終りの様な風景を見ていた。本当なら世界史のあっている時間帯だ、昼休み明けの一番眠い時間、老年の教師による念仏、クラスの半分ほどが撃沈していたこともあった。かくゆう、自分も人のことは言えなかったが。
それが今はこうして世界の果ての様なマンジョンの一室にいる。何処とも知れないマンションの一室からこうして外を眺めるだけ。退屈だと思っていた日常はこれほど大事なものだったのかと思い知る。
「漫画みたい」
どこか現実味がなくて、しかしどうしようもなく現実を実感している。今こうして四十度近いはずの外に出ているはずなのに汗の一つも出てこなかった。それどころか、別段、熱いとすら感じない。幽霊ならそうなのかな、彼も言っていた、心臓を動かすことも止めることも簡単にできると、なら今自分は暑さのスイッチを切っている。だからこうして涼しい顔で居られるのだろう。その事実がどうしようもなく自分がもう人間ではないことを告げてくる。こんな程度のメリットならクーラーをつければいい、死ぬほどのことじゃないのに。冷たい汗が頬を流れて行った。
いつの間にか日も暮れてきていた。西の空に太陽が消え微かにその光の色が残る。東の空にはもう星が輝き始めた頃合い。やはり団地の中に光が灯ることはなくこの部屋の明かりも灯らない。暗く輪郭だけになっていく部屋の中ただ膝を丸め座っていた。このまま消えればいい、すっと薄くなっていって、そのまま眠る様に消えてしまえればどんなにいいだろうか。
「電気もつけないで、どうしたんですか」
ぱちん、という音と共に瞼の外が明るくなった。いきなり明るくなった視界で声の主を探した。ぼやけた視界の中かにいたのはやはり彼だった。
「テレビでもあれば暇つぶしになったのかもしれませんけど、テレビはあまり見ないもので」
そう言って机の上に置いたのはスーパーのビニール袋だった。
「どうしたのそれ」
パンパンに膨れたビニール袋を見ながら言うと彼は着ていた、背広をハンガーにかけると腕まくりをし始めた。
「買ってきたんです」
冷蔵庫の中にいくつかの野菜を入れ、そして残ったものを台所へと持っていった。
「触れないじゃん」
「ええ、だから正確には盗んできた、が正しいんです」
悪戯っ子のように笑うと彼はキッチンへと引っ込んでいった。対面型ではない普通のキッチンでは彼がどんな表情をしているのかは見にくい。おとなしく背後から聞こえる野菜を洗う水音を聞いた。
「ねぇ、あんたはさ、悲しくないの」
どこを見るでもなくカーテンレールを視界にとらえながら彼に聞いた。
「悲しかった、と思いますよ」
「随分と他人事ね」
「もう随分前のことですからね、細かいことまでは覚えてません」
台所から聞こえてくる小気味よい包丁の音が聞こえてきた。
「死んだことが細かいことって」
「細かいことです、あの時は悲しかった、確かにそれは間違いありません」
けど
「もう、その苦しくてどうしようもない悲しみはもうどこかへ消えてしまいました」
そう言う彼の声はいつもの皮肉を言うときの様に少し笑っているような声だった。
「確かに死ぬことは悲しいことです、けど、残された人たちもそれを心の中で折り合いをつけて、また明日を生きる、だから僕たちもそういう風に折り合いをつければいい、それだけの話です」
「私は、そんな風に考えられないよ」
まだ生きていたかったし、戻れないことも、もうみんなに会えないことも、私ばっかりなんでこんな目に、ってそんな風にしか考えられない。
「折り合いなんてつけられないよ」
「それでいい」
彼は包丁の軽い音に乗せて言った。
「僕たちに明日は無い、けどまだ今日までは奪われてないんです」
そう、と答えた。後ろからは火を使ったらしく、ジューという音が聞こえてきた。
食卓の上に並んだ品数は優に十を超えていた。唐揚げやら、エビフライやらポテトサラダ、鰤の照り焼き、茄子のお浸しなどなど所狭し、と置かれた器たちに思わず目を見張る。
「作り過ぎじゃない」
まるでパーティーの様なその状況、それが二人、まして片方が小食の女子高生ならばこの量は異常ともいえた。
「ちょっと奮発してしまいました」
「あんた盗んできたんでしょう」
「それは言わない約束です」
最後に茶碗と何故かグラスを差し出されて、用意が揃ったらしい。
「それではこの千義桜子さんとの出会いを祝しまして」
渡されたグラスは琥珀色に輝いていた。
「私まだ、未成年なんですけど」
グラスには何やら白い泡が立っていた。
「お化けにゃ法律もないってことで」
そう言いながらグラスを小さく鳴らした。
「思いのほか食べられるものね」
綺麗に空っぽになった皿を眺めながら、今度は本当にロング缶を開け始めた椎名を見た。マンションの最上階、五回のこの部屋のベランダからは夜になって初めて遠くに町の光がかすかに見えた。昼間の熱を残した夜風が流れてゆく。ワイシャツ姿のまま、ロング缶を片手に外を見ていた彼の隣に立った。
「やっぱりあんたも料理美味いのね」
「やっぱりとは」
「あんたの姿したやつも、うまかったのよ」
そうですか、と彼は遠くに見える街の光を見ながら言った。その姿が随分としっくり来ていた。
「あんた、なんか疲れたサラリーマンみたい」
その言葉に彼は笑った。口元を歪ませて笑った。ロング缶を揺らすとちゃぷん、と水音が聞こえた。
「あの光は此岸なんです。」
笑ったままの、歪ませたままの口元で彼は言った。
「此岸、生きた人たちの世の中、そしてここはいうなれば彼岸、死んだ人たちの世の中。目に見えていたとしても僕たちは決してあの光の中には帰れません。どんなに願っていたとしても、もう二度と」
彼の言葉は気負うことなく息をするように言った。まるで何でもないことを言うように。けれどその言葉が今は深く胸に突き刺さる。
「空から見れば同じところにいるように見えても、こっちは五階であっちは一階、どんなに近く見えても届かないんです」
そう言うと一口缶を煽った。日焼けのない白い肌のままの彼は何を見るでもなくただ自分の手に握られた銀色の缶を見ていた。。
「けれど、あの光の中ではこの星空は見えません」
そう言って彼は空を見上げた、つられるように見上げた先に広がっていたのは満天の星空だった。あたりも真っ暗だから見えるこの星空はいるもの真っ暗な画用紙とは比べ物にならないほどの星が輝いていた。丁度新月なのか、月は出ていない。そのおかげか微かな星の光が見えた。決して町の光ほどは強くはない、むしろ比べてしまえば安っぽいネオンにも負けてしまうようなその光。その光のくせにどうしてこんなにきれいなんだろう、どうしてこんなにも心をざわつかせるんだろう。
「死んでしまったから、もう生きていた時のことを全部台無しにしてしまった、なんて考えるのはあまりに悲しすぎます。確かに僕たちはもう生きてはいない」
けれど
「今ここにいるんならどうか、顔を上げてください。辛くても苦しくても、顔を上げてください」
僕からのアドバイスです、と彼はもう一度缶を煽った。