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目が覚めると、目の前にはコンクリートの灰色が見えた。昨日どうしたんだっけ、学校は面倒だなぁ、今日は火曜だから英語の小テストの日だ、面倒だなぁとあたりにあるはずの携帯を探すが自分の周りを探してもいつもの硬い感触が無い。そういえば昨日はどうしたんだっけ、と思い立った時だった。
そうだ、昨日自分は、何やら知らない田舎に突然取り残されたのだった、と思い出す。急に体を起こすとやはり知らない部屋。コンクリート打ちっぱなしのデザイナーズマンションの一室であった。六畳ほどの部屋にシングルベッドが一つだけ置かれ、他には何もない簡素な部屋だった。咄嗟に自分の体を見た。いつの間にか知らないうちに着ていた制服は横に畳まれて置かれ、自分には旅館の様な簡素な浴衣を着ていた。咄嗟に胸元を掻き合わせた。羞恥に顔が熱くなるとともにさっと血の気が引く。恐る恐る浴衣の中をのぞくと自分のしていた薄桃色の下着ではない白い下着がつけられていた。状況は黒に近いグレー、まだあわてるには早い。落ち着け、昨日自分に何があった。そう頭の中を整理する。田舎に置き去られて、帰らなきゃって歩き回って、でも町が見つからなくて、やっと見つけた屋根付きのバス停に転がり込んで、そして、眠ろうとしたら。そうだ、あいつを見つけて、そこから記憶がない、さてはあの変態野郎に何かされたのか。脳裏に浮かんだ奴の薄笑いに恐れよりも怒りが浮かんでくる。
するとむき出しの配管から水の流れる音がした。耳をすませばどこからか水の流れだす音が聞こえた。胸元を握りしめたままベッド脇に置かれたスリッパを履き、部屋から出た。廊下は窓がないせいか部屋よりも数段暗く、廃病院のような恐ろしさであった。壁を伝うように進むと奥から明るい光が見えてきた。
部屋南向きの大きな窓から入ってきた陽の光に、思わず目がくらむ。だんだんと目が慣れてきて見えるようになったのは小さなテーブルと三人掛けのソファ、それに小さい棚だけが置かれた部屋の中、台所から出てきた椎名の姿だった。
「よかった、目が覚めましたか」
という彼はスラックスに白いワイシャツに上からベストを着ていてなんともバリスタのようであった。
「あんたねぇ」
そう言いながら出てきた彼にローキックを入れた、が思いのほか打点は高く太ももを打たれ彼はうっ、とよろめき、地面に手を着いた。
「あんた、あたしの服脱がせて何しようってのよ」
「靴も足も泥汚れがあったのでさすがにそのまま寝かせるのは衛生的にも良くないので着替えさせていただきました。もちろん、着替えさせたのは僕ではなく知り合いの女性の方ですので安心ください」
疑うような私の視線に彼は大仰に手を振り、自分の無罪を訴えた。困ったような顔に少しだけ溜飲を下げる。
「まぁ、いいわ。で、私どのくらい寝てたの」
「もう十二時ですから正確には二日と半になりますけど」
ローキックの余韻から回復すると笑いながらキッチンの奥へ引っ込んだ。
「それとここは僕の部屋です、自宅も分からないので送ることも出来ず、とりあえずうちに」
奥のキッチンから顔をのぞかせ、そう言うとまたキッチンに戻っていった。
「学生証財布の中に入ってなかった」
「見つかりませんでした」
そう言えばちょうど昨日、朝財布が見つからなくて、仕方がないから小銭入れだけ持って家を出たんだった。失敗した、と後悔していると両手にソーサーを二つ運んできた。片方を差し出してくる。珈琲の目の覚めるような香りが広がった。
「とにかく、目覚めのコーヒーはいかがですか」
つい受け取ると彼は満足そうにテーブルに座り私にも勧めてきた。必然的に向かい合うように座った私は目の前に座る椎名をじっと観察した。どこからどう見ても奴にしか見えない。いつも皮肉屋なたれ眉の彼。しかし、言葉使いも反応も何か不自然だった。
「あんた、椎名じゃないの」
「まだ名乗ってませんでしたね、改めまして。私は雀谷と言います」
男は笑顔でそう名乗った。しかし、見知ったたれ眉の顔に疑いの目は消えない。
「じゃあ何その恰好」
いつもは学生服姿しか見たことのない彼、しかし今もそして昨日もサラリーマンの様に黒のスーツに袖を通していた。
「変ですか、もう二年はいつもこんな感じですけどねぇ」
不思議そうに答えた椎名に思わず首を傾げた。そう言う設定なのか、不愉快を乗せた自分の視線にもひるまずに、目の前の男は少し笑いながらそう流した。確かに学生服姿以外を見たのは数回しかないがそれでも普通に私服はシャツやジーンズといったありふれた格好をしていた。
「それになんであんたがこんな所にいんのよ、しかもなんであんな辺鄙な田舎に」
そう言うと少し彼は困ったような顔になりこちらを見てきた。
「覚えてないんですか」
「覚えてないって何がよ、しかも敬語なんか使って、背中が痒くなるわ。いつもの憎まれ口の方はどこ行ったのよ」
知っている椎名と目の前にいる椎名、どちらも同じように見える。多少格好と言葉使いが違うだけ、上の兄弟がいるとは聞いていたが随分年上だと言っていたはず。
「えっと、お嬢さん、じゃあ、どうしてあんな田舎にいたかは覚えてないんですね」
「覚えてるっていうか、知るわけないじゃない、突然気が付いたら、あんな田舎に取り残されて」
冷静になって思い出してみると不思議なことがいくつも出てきた。なぜ知らない間にあんな所にいたのか
「もしかしてあたし誘拐されたとか」
半ばパニックになって気が付かなかったが冷静に見れば瞬間移動なんてあるわけないのだから自分をあんな田舎まで運んだ別の人がいるはず。ピチピチの女子高生だ、犯罪に巻き込まれる確率のというのはほかのどの世代に比べてもトップクラスではないか。統計学的に見ても小学生とワンツートップを張れるくらいには危険なはずだ。
「でもなんで私を置いて行ったの」
こんなに手の込んだ仕掛けをしておいて攫って監禁するでもなく、身代金を要求するでもなく、恐ろしいことだが乱暴するでもなく、ただどことも知れない田舎に放置し、果ては知り合いに保護されてしまう始末。わざわざ変な仮装した友人まで呼びだして、犯人は何がしたかったのだろうか。
「さてはあんたが仕組んだとか」
「えっ」腐っても映像研究部、しかもまだ今年の文化祭の出し物は決まっていない。いきなり知らない環境に放り込まれた人間の行動の観察とか言って盛大なドッキリをするくらいのことはやっても不自然じゃない。奴らの事だ、多少犯罪まがいの手段を使ってもおかしくはない。なんとも嫌な信頼ではあるが。
「あたしがこうしてうろたえる姿を見るためにこんな犯罪間際の手を取るなというのなら椎名誠一郎なら十分頷ける、さぁきりきり吐きやがれ、ネタは上がってんだ」
丁度良くつけていたネクタイを引っ張り、犬の首輪の様に彼を引き寄せた。身長が高い分引っ張る距離も長くなりぐえっ、とひかれたカエルのような声を上げた。
「違います違います、私じゃないです、私じゃないです」
「人間嘘を言うときは二回繰り返して言うんだよ」
「本当に違うんですって」
首が閉まり、だんだんと赤くなり青くなっていく彼の顔に免じて渋々首輪の刑は免除してやった。
「じゃあ、お前じゃなきゃ犯人って誰なんだよ」
腕組みしながら睨み付けると、彼は咳き込みながらこちらを見てきた。
「お嬢さん」
「千義桜子、あんたにそういわれると嫌味言われるときみたいで虫唾が走る」
こほん、と彼は咳ばらいをし、話を仕切りなおすとこちらの方を真っ直ぐ見つめ話し始めてきた。
「それでは千義桜子さん、あなたが覚えているのはどこまでですか」
「何処までって、何が」
「今から考えると三日前、知らない田舎に置き去られる前の最後のいつもの光景はどんなだったか覚えていますか」
「最後に見たものってこと」
彼は小さく頷く、そういえばそうだっただろうか、いつもの様に起きて、歯を磨いて朝ごはん食べて準備して家を出た。しいて言えばいつもより家を出るのが十分ほど遅かったくらいだろう。自転車で高校まで行きながら、そういえば数学の課題で寝不足だったから欠伸ばっかりしていた気がする。緩い下り坂をちんたら降りて、学校近くの交差点で、そうだ、きーちゃんに会って手を振って、信号が赤になったからブレーキをかけて、そして。ブレーキが利かなくて、
そこに車が突っ込んできてそして。
「思い出しましたか」
一瞬前とは違う声に聞こえた。二年聞いてきた彼の声とは全く違う声だった。皮肉を滲ませ、嘲笑うようで、けどその後のツッコミ待ちの声とは違う。ただ音としてしか聞こえない無機質な声だった。
「千義桜子さん、今から言うことは貴方を傷つけることになるでしょう、しかし、あなたは受け入れなければならない、これからも生きていくために」
彼は一呼吸おいてゆっくりといった
「あなたは死んだのです」
言っていることが矛盾している、そう頭の端の方で冷静に見ている自分がいた。けれど、言葉にはならなかった。いつもの見知った彼からの言葉は、人をバカにしたことは言っても決して嘘は言わなかった彼からの言葉は重かった。七月の日差しは真っ白くしていくようだった。