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気が付いた時には知らない場所に建っていた。
周りを見渡せば一面の緑、七月の緑の濃い田んぼが広がっていた。
蝉の声がうるさいほど響いている。自分の家の周りでも鳴いていないわけではないがこれはレベルが違う。ミンミンゼミだかアブラゼミだか種類までは詳しくないがそのあたりの蝉たちが親の仇とでも言わんばかりに泣き叫んでいる。あまりの大きさに気付けばいつからかキィー、という甲高い耳鳴りまでし始めた。
履いているスニーカーにはあぜ道の泥が付いた。靴に興味があるわけでもなく家の近所で安売りをしていたランニングシューズ。思い出は無く、思い入れもあるわけではないがまだ買ってあまり時間の経っていない新品に泥が着くのはいただけない。税込み二千九百七十円。しかし、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
先ほどまで、いつも通り、気だるい月曜日の学校へと電車を乗り継ぎ、登校していたはずであった。その証拠に今自分が着ているのも制服であるし、鞄の中を漁れば昨日遅くまでかけて終わらせた数学の課題もちゃんと入っていた。しかし、今自分がいるのはどことも知れない森の中、後ろを振り向けば里山と前を向けば水田の緑が広がっている。都会育ちの自分からしたらテレビの中でしか見たことのない田舎が広がっていた。水の張った水田に稲の緑が時折吹く風に撫でられゆっくりと左右に振れている。
七時に家を出たはずだが気が付けば太陽はちょうど真上に上っていた。とりあえずせめてまともに舗装された道へ出ようと崩れかけた道を歩き始めた。七月の太陽は随分と強くだんだんと体の中を焼いて行く。いつもなら教室の冷房対策に離せないサマーセーターも今となってはただの荷物にしかならない。セーターを鞄に巻き付けるようにして半袖の夏服になる、ちょうど日焼け止めクリームも切らしてたことに気が付いた。しかし、三百六十度人の影も形もない、増してコンビニなどあるわけもない。背に腹は代えられないと仕方なく肌を焼かれることにした。
体感的には一時間ほど、実際には十五分程度歩くと綺麗にアスファルトに舗装された小道が出てきた。端の崩れかけた田舎道ではあるもののやっと靴の底から硬い感触がすることに喜びすら覚えた。赤いスニーカーは泥で汚れもはや見る影もないが、学校指定のローファーで来るよりかはずっとましだと思い自分を慰めることにした。軽トラックが二台横に並べば埋まってしまう様な狭い道路ではあったもののそれ以外に人里への手がかりもなく、まだ歩くしかなかった。
「どんだけ離れてんのよ」
人里から離れ、圏外となってただの板となった携帯電話を恨めしそうに睨む。一番必要な時に全く役に立たない板切れをつい叩き割りたくなるが、夏の熱さがその勢いすら奪っていった。ただため息しか出てこない道を歩いていく。
ふと、蝉の大音量の中に微かに違う音が聞こえた。低い音は山に囲まれどこから響いてくるのか、辺りを見回すと歩いてきた方から白い影が迫ってきていた。陽炎の果てに揺らめくように迫ってくるのはどうやら軽トラックのようだった。
「おーい」
やっと見つけた人間に思わず両手を大きく振り、叫んだ。だんだんと近づいてくる軽トラに走りながら近づいて行った。
どうやら農作業からの帰りらしいそのトラックを止めるように道の中央に立った。
「おーい、とまってよ」
しかし、トラックの速度は緩まない。むしろ下り坂で速度は上がっていた。鞄に巻き付けたセーターを振り回して呼びかける。しかし運転手には声が届いていないらしい。夏のうだるような暑さに窓を閉めクーラーを利かせているようだ。カーナビでテレビでも見ているのか、何時もの道で気を抜いているのかろくに前も見ていない。
夏の熱さに水分を取られた喉で呼びかけた。少しひり付く喉。袖口に泥のついたサマーセーター。
依然としてエンジンの音の変わらない軽トラ。
手を伸ばせばフロントガラスに届きそうになる。運転手の黒縁眼鏡が見えた。
「あぶなっ」
一向に止まろうとしない軽トラックに横に飛び込んで逃げた。走り去る白いトラックの荷台を恨めく睨んだ。
「止まれよ、バカヤロー」
へたり込んだまま、そう叫んでもやはり軽トラックは止まらなかった。
「ここどこなんだよ」
つぶやきも自然の音に紛れ消えていった。履き慣れていないスニーカーの中で足には豆が出来、潰れ白い靴下が真っ赤に染まっていた。鞄の中に入っていた五百ミリリットルのお茶はとうの昔に尽き、もう一時間は水を口にしていない。七月の陽光はアッという間に体から水分を抜き取ってゆく。だるい体を引きずって何とか屋根付きのバス停に付いた時にはもう、日も傾き始めていた。
「あぁ、せっかく皆勤賞だったのになぁ」
現在位置すらも何処か分からない中、そう独り言ちた。鞄の中には今日の授業の教科書やノートが陣取っていた。この状況下では使いようのないものたちばかりが重荷になる、、けれど、捨てることも出来ず背負ってきた。人生の中で最も肩掛けの鞄ではなくリュックにすればよかったと思った日だった。
「げ、無い」
バッグの持ち手部分に着けていたはずのカエルのキーホルダーがいつの間にかなくなっていた。一度、紐がちぎれた時に二度と千切れないよう厳重につけたというのに今、見れば影も形も無くなっていた。
「はぁ」
ただため息しか出てこない、中学校の頃からつけていたお気に入りのキーホルダー、学校や家であればまだマシだっただろうが、土地勘もないこんな田舎道に落としたとなれば出てくる可能性は間違いなくゼロだろう。今まで歩いてきた道も分からないなら尚更だった。もうすぐ日が暮れる。そうなればもう歩き回ることも出来なくなる、探しに行くことも無理だった。涙は出なかった。
後ろの森のおかげだろうか、日が暮れ始めると随分と涼しくなる。近くを川が流れているのか時折、冷たい風も流れてくる。肌寒いほどに夏としては涼しい。昼過ぎに脱いだサマーセーターはいつの間にかどこかへ落としてしまったらしかった。少しでもと、自分の体を抱くようにして丸まった。せめて、明日は人里に降りたいな、そう思いながら目を閉じた時だった。
「どうかしました」
唐突な人の声に勢いよく顔を上げた。日も暮れ暗くなった辺りでは顔は見えない、しかし、スーツを着た男の人だというのは良く分かった。
「やっと見つけた」
やっと見つけた人に半ば縋る様に尋ねた。疲れ切った体では彼にしなだれかかる様な体制になる。
「ここってどこですか」
「ここって、町の名前ってこと」
思っていたより若く聞こえる彼の言葉に深く頷いた。
「西桂木村だけど」
西桂木町、聞いたことのあるような無いような町の名前、けれど取り会えず現在位置が分かったのは大きい。やっとつかんだ頼みの綱、離してはなるものかと食い気味に訊ねると男は若干引いたように下がるも、笑いながらそう言った。
「こんな時間にこんなところでどうしたんですか、もしかして迷ったとか」
渡りに船とはこのこと、と今まで拝んだことも無い神様に感謝した。
「もしかして家出、それにしてはこんな辺鄙なとこまで来るなんて根性のある人だ、名前は」
「私、千義桜子って言います」
思わず答えたが、見ず知らずの今あったばかりの人に本名を言ってしまった。しかし、背に腹は代えられない。
「僕は」
丁度、ジジジ、という電気の通う音とともにバス停の裸電球が暗くなったバス停を照らし始めた。見上げた男は思っていたよりも幼く少し下がった眉が柔和な印象を与える、二年間毎日見かけた男だった。
「椎名、なんでこんなとこにいんのよ」
そこにあったのは彼女とクラスメイトの椎名誠一郎の顔であった。