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午前五時半、六月の早い日の出よりも早く彼は起き上がる。
顔を洗い、歯を磨き、軽く髪を整えると紺のパジャマからダークグリーンのスポーツウェアへと着替えた。窓のない暗い玄関で赤いランニングシューズに足を詰め込む。家を出るとまだ夜の街灯が灯っている。昼間のうだるような暑さが嘘のように、時折、涼しい風が流れてくる夜明け前、日課のランニングが始まった。毎朝まだ人もまばらな道を走る。後、一時間もすれば登校途中の学生や出社途中のサラリーマンであふれかえるこの道もまだこの時間帯にはその影もなかった。
最初は体力づくり程度だと、数日もすれば疲れ、飽きただなんだとやめるだろうとその程度に考えていたものだというのに気が付けば二年、一日たりとも欠かさずに続けている自分。他人事のように感嘆してしまう。体力はあるに越したことは無いものの毎朝十キロ程度というのはアスリートでもあるまいし、どうなのだろうと首を傾げながら今日も走る。
広い庭につながれた番犬たちもまだ夢の中なのだろう、靴が地面を削る音にも耳を貸さずにゆっくりと寝息を立てていた。
町の外縁をなぞる道を抜けると腕時計のアラームの電子音が三度、短く鳴った。夜明けまであと十分と少し、帽子の縁に汗をにじませながら短く息を吐くと少しペースを上げて走り去っていく。走り始めた頃は日が昇るころにやっと半分程度だった。今ではあと五分もすれば家に帰りつく、もう少しだけコースを伸ばした方がいいのか、考えるでなく、思いを漂わせながら走ってゆく。
東の空に太陽が昇る前の紫色が映っていた。
ランニングから帰り、自宅でシャワーを浴びると、コーヒーを入れ始めた。すでにひかれた粉を取り出す。目分量で測り入れた粉をコーヒーメーカーに入れる。数秒もすればゆっくりとコーヒーが落ちてくる。濡れた髪もそのままに体を椅子に投げ出し、落ちてゆく一滴一滴に視線を漂わせる。一滴が落ち、溜まっていたコーヒーに小さな波紋を作る。ゆっくりと震えすぐに引いてゆくそしてまた一滴が落ちてくる。窓から朝の陽光が入ってきた頃、半分ほどたまったコーヒーをカップに注ぎ、またスタンドに戻した。
一口含むと、すぐに二杯の砂糖とミルクを一つ入れた。
コーヒーとクラッカーという簡素な朝食を済ませ、軽く身だしなみを整えた後、昨日のように、一昨日のように、いつものように白のワイシャツの袖に腕を通してゆく。皺のない、糊のきいたシャツ、折り目のついたスラックス、解れの一つもない黒のジャケット。着慣れてきた黒の背広ではあるものの童顔ぎみの顔と相まって新卒の就活生のようにも見える。この背広も既に二年、依然として馴染まないこのジャケットにスラックス。先日も知り合いにも大学の入学式みたいだって言われた、姿見の前でじっと自分の顔を見つめる。髭でもはやせば多少変わるのかもしれないが、そうするのも面倒で今日もまたそのままの顔になった。こうして本来ならば着る必要も無い背広を纏う。Tシャツにジーンズにスニーカーでも、特に支障はなく、極論、スエットでも問題は無い。けれど、好き好んでこのスーツを好んだのは単なる線引きでもあるのだろう。生活と仕事と、それを分けるために、見た目よりも自分の心を切り替えるために。灰色の靴下に青いストライプのネクタイを締め立ち上がった。部屋の隅に置かれた鞄の中を確認することも無く、持ち去る。部屋に時計は無く、しかし、時計を確認する必要も無く今日も又いつもの時間に部屋を出た。柔らかくなった革靴に足を滑りこませて、少し体重をかけるように鉄製の扉を押し開ける。北向きの玄関には窓は無く、薄暗い空間。開かれた扉の向こうから朝の陽光が差し込んだ。淀んだ玄関の埃たちが光に照らされて輝き始める。靴を慣らす軽い音とドアストッパーの軋む音。ゆっくりと閉じられてゆく扉に、光の帯も細く薄くなり、すぐにまた薄暗い静寂が戻って来た。微かに巻き上げられた埃たちが少しずつ落ちて止まった。
人で溢れかえるホームを対岸に、人影もまばらな郊外へ向かう路線のベンチに座った。
目的地は丁度市街地とは反対方向だった。数えきれないほど乗った満員電車はやはりなれるものでは無く、今日の様な人のまばらな電車には少しの安堵感を覚える。
両足の間に挟むように置いていた鞄を右手に待つこと数分、ベージュと青色に塗られた古い車両が流れてきた。中には数人の人の姿があるだけ。山を登り、そして超えるその路線の車両にはパンタグラフだけでなくディーゼルの煙突も見て取れる。乗り込むとすぐに古くガタついた扉が閉まり、ゆっくりと走り始めた。空いているボックス席に一人陣取りながらその近辺の観光情報誌を取り出し眺めていた。
目的地までは一時間と少し、鞄の中から取り出した観光情報誌は端がくたびれて、少しだけ使い込んだ様相だった。いくつか開き癖のついたページを飛ばし、まだ真新しいページを開くと、そのページにいくつかの丸をかき込んだ。書き込まれたのは名所であったり、おすすめの店であったり、はたまたページの端に書かれた小さな地図であったり。突飛なその丸付けをニ十ページ程する。もう一度軽くそのページたちを見直すと雑誌を丸め鞄の中に詰め込んだ。代わりに使い古されたノートを広げた。柔らかくなり角の潰れたノートの表紙にはマジックで十七と書かれていた。
開いたページには黒のボールペンで記載された文字が所狭しとつづられていた。また次のページには小さな地図とそれに付随するように精細な風景画が描かれていた。めくってゆくページに統一性は無く、繁華街の入り口であったり、裏通りの軒先や自然公園のベンチ、何やらよく分からない郷里の偉人の像などが描かれている。ガイドブックのようも見える。しかし、あるところの絵は文字と同じように黒のボールペンで描かれているものもあり、また別のものは鉛筆が用いられているように見えた。題材も画材も統一性は無く、唯一の共通点と言えばすべてが走り書きのように描かれていることだった。ノートの草臥れ具合や、表示についた指の形に曲がった跡からノートを片手に走り描いたことは容易に想像できる。
めくるそのページには時折赤の丸が描かれて物も見受けられた。テストの採点の様なその小さな丸、しかし、かといって他のページにはバツ印が付いているわけでもない。
ノートを乱雑にめくっていた手が止まる。
そこに描かれていたのはどこにでもありそうな自転車屋の外観だった。オートバイも取り扱っているのか、表に出された自転車の端の方にはいくつかの単車も描かれている。懐から赤のペンを取り出すと絵の描かれた反対の文字で黒く塗りつぶされたページに小さく丸を付け、そこに小さく日付を入れた。
他のイラストと残りの白紙のページを数えながらパラパラとノートを扇ぐ。
二年で十七冊目。赤丸がつけられたのは一冊分にも満たない。同業もいないためにこれが多いのか、少ないのかは分からない。ノートに書かれた場所はその土地の観光施設から飲食店、服屋、骨董品店、果ては住宅街の風景など。十七冊目になった今、どれほどの数があるのかはもはや覚えてもいない。
ガタン、と電車が揺れる。山を越えるためのディーゼルの低い唸り声が聞こえ始めた。
快晴の空の下、目的地はまだ遠かった。
三回の乗り換えの後、たどり着いた先には何の変哲もない住宅街が広がっていた。近郊の都市部へ勤めるサラリーマンのためのベットタウン、比較的新しい住宅街と少し離れた処には大型のショッピングモールが見えた。
何の変哲もないその駅前にはやはり何の特色もない住宅地が広がっていた。ガイドブックにも特に多くの記載は無く、むしろこの町の住人たちの勤務先である繁華街の情報がメインで掲載されている。
それでも数少ないこの町の名所と、そしてどこにでもある住宅街を目指して歩を進めた。
夜も更け、九時を回った頃電車に揺られた帰途に就く。帰りの暗い電車の中で、今日書き込まれたページたちを見直す。ほとんどがどこにでもある住宅街の光景。その光景には人の姿は無く、ただ建物だけが描かれている。今日だけで埋まったページは二ページ半。多くも少なくもないいつも通り程度の成果。敷いて言うならば移動にかかった労力に対しては少ないそう思う程度の成果。
右側に広がる窓の外は暗く、鏡のように社内を反射している。住宅街からも離れ再び山の中へと進んでゆく列車。ちらつく蛍光灯と経年と煙草によって茶色に黄ばんだ車内に一人、揺られる。
建てていた鞄がパタリと倒れた。