蝶々と
「なんなんだ、あいつ。訳分かんねえ」
颯爽とバイクの燃料を探しにいったリンの背中を見送ったあと、ノアは渋面で頭を掻いた。
さすがはニムロッドが作りあげたものだ。思考回路が読めない。ノアに生殺与奪の権利を握られたにも関わらず、抵抗するどころか協力的な姿勢を見せる。
従順なふりをして、寝首を掻こうという算段だろうか。それはあり得る。
だが、あの“茨の呪い”がかかっている限り、リンはノアに手出しできない。反抗の意思を見せた途端、茨が彼女を殺す。
呪身鬼の力は、使い方次第で万能を発揮する。ノア自身、手にした力の大きさに慄くことがあった。そのたびに、侵略者への復讐心を奮い立たせる。
(そうだ。なにより重要なのは、奴らを叩きのめすことだ。そのためにあの女を使う。協力的で結構じゃねえか。ギャーギャー喚かれるより楽ってモンだぜ)
ノアは胸中で自らに言い聞かせ、ひとり頷く。
名前を尋ねられ、仕方なしに答えた時、リンは小さくノアの名を呟いて――ほんの少し、笑ったように見えた。
そんな馬鹿なことがあるか。ノアは自嘲気味に鼻を鳴らし、バイクの修理を続けた。
(そういえば……)
人を模ったもの、例えば人形などには魂が宿りやすい、などという迷信はあちこちで聞く。
ノアも幼い頃、祖母から似たような話を聞かされた。「だから、おもちゃや人形は大事にして、かわいがってあげなさい」と祖母は、ノアや妹によく言っていたものだった。
人間により近い姿かたちであれば、魂を得て、そこに感情が生まれるものなのだろうか。それはつまり――、
「あーーーーーーーーーッ! うっとーーーーしーーーーー!」
ノアは叫びながら立ち上がり、持っていた工具を投げ捨てた。
「くそッ! あの女のせいで、変な考えが頭から離れなくなっちまったじゃねーか!」
まるでそうすることが厄祓いになるかのごとく、ノアはしばし、怒鳴り散らしながら、あたりに転がっているものや地面を蹴りつけた。
そうして五分ほど過ぎ、やっていることの幼稚さと、苛立つ無意味さに気づいたノアは、周囲への八つ当たりをやめ、陰鬱なため息をついた。
「なにやってんだ俺は」
足元を見やれば、爪先が掘り返した土の山が、モグラの巣穴のように、あちこちにできている。
「ちくしょう。調子狂うぜ」
ノアはもう一度ため息をつくと、投げ捨てた工具を拾い、バイクのシートに置いた。
足りない部品があるので探しに行こうと、ノアは裏庭から通りに出た。歩けば少しは気晴らしになるだろう。
自分が離れている間に、リンが戻ってくるかもしれないが――。
(知るか。俺を待つのも逃げるのも、好きにすりゃあいい。逃げたら死ぬだけだ)
リンのことを考えると、苛々が止まらない。ノアは無理やり思考の外へ追い出した。
煙草をふかしながら、住民のいなくなった通りを歩く。あちらこちらに目をやり、使えそうなものがないか探した。
バイクの部品に限らず、今後の旅に役立ちそうなものも、何か見つかれば僥倖だ。
弾丸もあればいいのだが、見つけるのは難しいだろう。
ノアはオートマチックの銃を、一丁だけ持っている。呪身鬼とはいえ、能力を使わなくても身を守れる術として、このくらいの装備はあって当然だ。
だが、肝心の弾丸を確保するのが難しい。すでに、他の生存者に持って行かれている場合が多いからだ。手持ちは多少あるものの、あまり無駄遣いしたくない。
メタノイドと出くわさないか、用心しながら歩いたが、まったく見当たらなかった。どうやらこの街は、すでに制圧しつくされているようだ。
また一つ、街が奴らの手に堕ちた。ノアは苦々しい思いで、煙草のフィルターを噛んだ。
しばらく歩くと、舗装された幅広い川に出た。川といってもすっかり干上がってしまっており、大破した車両や瓦礫が、水の代わりに底に積み重なっている。
そんなガラクタの中には、墜落したヘリコプターまであった。プロペラが二基備わった大型ヘリである。物資輸送機だったようだ。
機体は、ほぼ真っ二つに分断されている。運んできたと思われる物資コンテナは、だいぶ離れた場所に転がっていた。
ノアは水のない川底に降り、ヘリコプターの内部を覗き込んだ。
特に変わったものは見られない。これまで嫌というほど目にしてきた、朽ち果てた人類のテクノロジーの残骸だ。座席にこびりついた茶色のシミが、何によって着いたものかも想像できる。カビの臭いしかしないのは幸いなことだ。
ノアはヘリコプターを離れ、物資コンテナの方に足を向けた。もう何も残っていないかもしれないが、調べるだけ調べてみるつもりだった。
コンテナのすぐそばには、破損車両がうず高く積み上げられていた。今にも雪崩を起こしそうな、危ういバランスを保っている。
コンテナには、開けられた形跡が見られなかった。ひょっとしたら、中身は手付かずかもしれない。
「うおっ、こいつァツイてるかもしれねえな」
ノアは機嫌よく口笛を吹いた。
コンテナまであと数歩、というところまで近づいた時、ノアはその足を止めた。
背筋に虫が這うような、おぞましい違和感が走る。
「なんだ……?」
何かに見られているような、厭な気配がする。こういう時は、警戒しなければならない。なぜなら、こんな違和感がある場合、その近くには――。
身構えたその瞬間、コンテナのそばの瓦礫の山が、火山噴火のごとく弾け飛んだ。
*
屋根の崩れ落ちたガソリンスタンドで、幸運にも数リットルほど残されていた燃料を見つけた。
しかし、燃料を汲むためのタンクが見つからなかった。燐は仕方なく、一度戻って先に報告することにした。燃料タンクの代用品なら、あの廃屋にあるかもしれない。
確保した食料だけを持って廃屋に戻ると、そこにノアの姿はなかった。修理途中のバイクは、裏庭に残されている。
どこへ行ったのだろう。燐は、食料を詰めたリュックを地面に置き、あたりをぐるりと見回した。
すると、ノアはいなかったが、植木の陰に見覚えのある長い物を見つけた。二振りの刀である。
燐は刀を手に取り、腰のベルトに差した。己の身体の一部といってもいい二振りが、定位置である腰に戻ると、居心地のいい椅子に座ったような、柔らかな落ち着きが燐を包み込んだ。
(それにしても、彼はどこへ……)
廃屋の周辺を探してみようと足を踏み出したとき、どこかから爆発に似た轟音が聞こえてきた。
はっとして、音のした方角に顔を向ける。すると、遠くの方で不可解なものが見えた。車両と思われる金属の塊が、宙に跳ね上がっているのである。
「あれは何」
呟いたが、答えは一つしかない。
「ノア……」
おそらく彼は、あそこにいる。そして、歓迎すべきでない、他の何かも。
アイオーンの脳は、ニムロッドのマスターコンピュータの端末でもある。しかし、廃棄処分対象の燐の回線は、処分決定と同時に絶たれてしまったため、どのシステムにもアクセスできない。脳端末が健在であれば、衛星監視システムを通じて、あの場所で何が起こっているのか確認することが可能なのに。
ここから数百メートルは離れているだろうか。走って間に合うとは思えない。
(ノアは〈呪身鬼〉。私の手助けがなくとも、メタノイドを倒せる)
燐は、知らぬうちに刀に触れていた手を、ゆっくり握りしめた。
(私がいなくても、問題ない)
そうは思えど、胸の内がさわめくのはなぜなのだろう。身体がむずむずする。この場でじっとしているのが耐えがたい。
ニムロッドのアイオーンである燐には、「何もしない」という選択肢がある。呪いに縛られたとはいえ、彼を助ける義理はないのだ。むしろ、呪いの呪縛をかけた彼を見捨てるのは、アイオーンとして当然の報復だろう。
(でも、)
でも――、
(それは、嫌)
燐は考えるのをやめ、胸の内側から沸きあがる衝動に身を任せた。それが“正しい”と思えたからだ。
目を閉じて、意識を集中する。
金色の光が、風を纏う。
ぐんと迫るボンネットに、ノアは目をつむって受け身の体勢をとった。
次の瞬間、ノアは背中から廃車のボンネットに叩きつけられた。衝撃でボンネットはへこみ、割れたフロントガラスの切っ先が、ノアの頬や耳を裂く。
「ぐあッ!」
背中と腰を、凄まじい痛みが襲った。ノアは呻きながらも、腕の力を振り絞って、上半身を起こす。
顔を上げると、たった今ノアを投げ飛ばした張本人である、巨大な金属の塊が、その体躯に似合わぬスピードで、ノアに向けて突進してきた。
とっさに身を翻して、ボンネットから転げ落ちた。ノアが地面に落ちた刹那、今しがた乗っていた廃車が、金属の巨体によって宙高く放り投げられた。
廃車はそのまま、十数メートル離れた地点に落下。完璧に破壊された。
「くそったれ……!」
ノアは毒づきながら、なんとか立ち上がった。人間を仕留め損ねた金属巨体は、頭部を巡らせ、目ざとくノアを見つけた。
物資輸送コンテナの側にあった瓦礫の山の中に、こいつは潜んでいた。侵略戦争のとき、歩兵であるメタノイドを率いて、人類軍を葬っていた大型機械兵〈ハーロウ〉だ。
「なんでこんな奴が、こんなところに……!」
ハーロウは、メタノイド指揮系統の上位にいるはずである。そんな奴が軍の撤退した廃墟の街に、たった一体きり、しかも瓦礫に埋もれているとは思いもしない。
だが、今は理由など考えている暇はなかった。ハーロウはネズミを追い詰める猫さながら、じりじりとノアに近づいてくる。
廃車のボンネットに落下したときに受けた衝撃により、背中と腰を痛めてしまった。動くたびに激痛が全身を襲った。
結界を展開させようとした途端、胴を貫くような痛みが走り、集中力が霧散してしまった。展開されかけていた結界は、たちまち消え失せた。
激痛に顔を歪めるノアは、忌々しげに舌打ちした。
ニムロッドに対して絶大な能力を持っているとはいえ、〈呪身鬼〉は生身の人間だ。肉体へのダメージが軽減されるわけではないし、ましてや不死身になれるものでもない。
「肝心なときに役に立たねえな、呪身鬼ってのはよ!」
自虐的に吐き捨てたノアは、隠していた銃を抜き、銃口をハーロウに向けた。
動作は相手の方が早かった。ノアが銃の安全装置を外し、引き鉄に指をかけたそのとき、ハーロウは攻撃アームを掲げた。
アームの先端から、熱光弾が撃ち放たれた。熱光弾は、ノアを囲むように雨霰と降り注ぐ。
数発が、ノアの肩や足首、腿をかすめた。焼けるような激痛が、体力を奪っていく。遠のきそうだった意識は、どうにか手元に留めた。
「ちくしょう! ブッ潰してやる……」
琥珀の目に怒りを湛え、ノアはハーロウを睨みつけた。そのハーロウは目と鼻の先、たった二・三メートルしか離れていないところにまで迫っていた。
ノアに覆い被さるように立つハーロウに。人間のような顔があれば、勝ち誇った笑みを浮かべてたことだろう。
ノアは口唇を噛み、再び銃を敵に向けた。
「こんなところで無様に終わってたまるかよ」
ニムロッドには屈しない。たとえ何があってもだ。
ハーロウのアーム先端に、熱光が集結していく。
金色の光が閃いた。
被弾を覚悟していたノアだったが、熱の弾丸は放たれなかった。
予測していた事態は起きず、代わりにノアの想像を超えた光景を目にすることになった。
ハーロウの周りを、大きな蝶が舞っている。
否、蝶ではない。リンだ。
リンの背から、黄金の翅が生え、彼女はその翅をもって、自由に飛んでいるのだった。
翅は黄金の金属で出来ており、リンの瞳の色に似た、四つの紅い珠が備わっている。
リンは両手に刀を掲げ、翅を翻して、ハーロウに斬りかかった。ハーロウは、うるさい小虫を叩き落そうと、アームを振り回す。
ハーロウがどれだけ激しく暴れようと、リンの服すらかすめることはなかった。掴みかかるハーロウのアームを、リンは軽やかにかわし、刀の一撃を喰らわせた。
金色の翅は、リンの動きに合わせて、自在に変形する。上昇するときは大きく広げ、閉じて滑空することで、ハーロウの巨体の隙間をくぐり抜ける。身体に巻きつけると急降下し、体重を乗せた強烈な攻撃を可能にした。
翅の機動力にスピードが加わり、リンの戦いぶりは、まるで舞踏のようだった。
自分より遥かに巨大なハーロウを、見事に翻弄する彼女の姿に、ノアはいつの間にか魅入っていた。
ハーロウの左のアームが、リンの刀に斬り落とされた。ハーロウがよろめいた隙に、リンがノアに呼びかける。
「逃げてください、ノア。このハーロウは私が仕留めます」
「は……?」
どういうことだ、と問うよりも早く、リンはハーロウとの戦いに戻っていった。
「逃げろって、……なんのつもりだよ」
問いただしたいリンは、上空で片腕になったハーロウの猛攻を華麗にかわしつつ、追撃を与えている。時おりノアに向ける眼差しは、「早く行って」と訴えていた。
(あいつ、俺を助けに来たのか? なんでだよ)
放っておいてもよかったはずだ。負傷し、力がうまく働かないノアなど、放っておけばハーロウに殺されたのだ。ノアが死んだところで“茨の呪い”が解けることはないが、それでも、リンにノアを助ける義理などない。
呪身鬼であってもなくても、ニムロッドの生体兵器であるリンに、ノアを助ける理由はないはずだ。なのに、
(なぜだ)
逃げることなどできない。ここでリンを置いて逃げるのは、何かが違うような気がした。
「ノア、早く!」
リンが叫んだその時、彼女の死角から、ハーロウの右アームが突き出された。アームの側面から幾本ものワイヤーが射出され、リンの細い身体に巻きついた。
更に数本のワイヤーが伸び、リンの首を締め上げた。そしてそのうちの一本は、顎を広げた蛇の如く、彼女の左目に喰らいついた。
「燐!」
何をどうやったのかは分からない。
何を叫んだのかも覚えていない。
赤黒い世界が、ノアを、燐を、すべてを包み込む。