無機質な蛹
ふわり、と宙に浮かぶような感覚とともに、燐は目を覚ました。
瞼を開くと、壊れた窓から鈍い光が射し込み、廃屋の室内を弱々しく照らしていた。
夜が明けたのだ。黒雲立ちこめる空から、なけなしの太陽光が、地上に降り注いでいる。
(私、生きている……?)
昨日、〈呪身鬼〉の青年が放った呪いに、首を絞められたはずだ。
右手を首元に当てる。嵌められていたはずの爆破環はそこにはなかった。だが触れた肌に、ちりりとかすかな痺れを感じた。
燐は立ち上がり、鏡を求めて荒れた部屋をぐるりと見渡す。
呪身鬼の男はいない。目当ての鏡もなかったので、隣の部屋に移った。
隣室はベッドルームで、鏡は窓際の壁にかかっていた。
大きくヒビ割れた鏡に首元を映す。すると燐の首には、消失した爆破環の代わりに、奇妙な痣が刻まれていた。
歪な線に、棘に似た模様があちこちついている。有刺鉄線のようにも茨のようにも見えるその痣は、燐の首を一周している。
その痣に触れると、ピリッと痺れるのだ。
(これは一体……)
これも呪いの技なのだろうか。呪身鬼の彼は、燐を殺さず、呪いの戒めを施したのか。何のために?
(私に、利用価値があると判断したの? 私を使って、一体何を)
憎きニムロッドが生み出した生体兵器である燐を、本当は殺したくて仕方がないだろうに。その激情を抑えてまで燐を生かしたのは、よほどの理由があるからに違いない。
(私は、廃棄処分が決定した身。一緒にいれば、共に追われるのに)
その答えを知る呪身鬼の男を捜して、燐は家の中を歩き回った。が、どの部屋にも彼の姿はなかった。
キッチンの勝手口から外に出る。雨降り前の曇天のような、灰色に満ちた景色が広がった。
勝手口の先は荒れ果てた裏庭で、そこに彼がいた。
男は大型バイクの側に立っていて、あちこちをいじっていた。バイクはところどころ疵があったり、へこんでいたりしているが、少し手入れをすれば使えそうだった。
もともと男の所有物なのか、はたまたそのあたりで見つけたものなのか定かでないが、バイクを修理して、乗るつもりらしい。どこかからかき集めたと思われる工具や部品が、彼の足元に散らばっている。
男は燐に気づくと、冷ややかな一瞥をくれただけで、作業に戻った。
「あの」
「じろじろ見んな」
声をかけたが、すげなく突っぱねられた。
見るなと言われても、他に見るべきものなどないから、どこに目をやればいいのか分からない。仕方なく燐は、家の外壁の側に立ち、男の作業を見守ることにした。
が、すぐに、この奇妙さに疑問を抱いた。ニムロッドの兵器と呪身鬼の男。宿敵同士がこんなに近くにいるというのに、戦うことなくただ密やかに過ごしているとは、なんともおかしな状況だ。
「あの、すみませんが」
「なんだ、うるせえ」
男は燐を見ないまま応じた。
「なぜ私を殺さなかったのですか?」
「死にたきゃ待ってろ。あとで殺ってやる」
「いえ、そうではなく」
燐はいったん口を閉じ、どう言うべきか考えてから、続きを述べた。
「昨日は私を殺すつもりでしたよね。それなのに、なぜ生かしているのですか? 私に何か利用価値を見出したのでしょうけれど、私は追われているんですよ」
「それがどうした」
男はバイクの反対側に移動した。結果、燐とは向かい合わせの立ち位置になる。
「つまり、お前がいれば、勝手にニムロッドの機械兵が来てくれるってわけだろ。手間が省けらあ」
「メタノイドは、常に生産され続けています。追撃者を一掃したとしても、また新たなグループが差し向けられます。いくらあなたが呪身鬼でも、すべてのメタノイドを破壊しつくすなど無理です」
「んなこたァ、お前に言われなくても分かってる」
男は、持っていた工具を振り上げ、琥珀の双眸で燐を睨みつけた。
「うじゃうじゃ湧いてくる連中なんざ、どれだけ相手にしても無駄だ。だからお前に役立ってもらうのさ」
「どういうことですか」
「ニムロッドの拠点まで、俺を連れて行け。奴らの基地は目に見えねえし、レーダーにも映らねえ。だがお前は、位置を知ってるはずだ。基地へ行き、ニムロッドそのものをブッ潰す」
たしかに、ニムロッドの拠点は、天空にある母船を含め、すべてステルスバリアで守られている。だが兵たちは、各拠点の位置を把握しているため、帰還に問題はない。
「一人で攻め込むというのですか? それは、……無理です」
たとえ呪身鬼でも、たった一人で、数に勝る敵陣に乗り込むなど、無謀すぎる。
燐も、単独で人類軍の小隊を制圧する任務を与えられ、完遂したことはある。が、燐は戦うために生み出された兵器だ。その任務をこなせるだけの戦闘能力を備えている。
しかし呪身鬼は、ニムロッドを屠る能力を持つとはいえ、しょせん生身の人間である。際限なく送り込まれるメタノイドの猛攻を潜り抜け、その先にいる司令塔のニムロッドまでたどり着くなど不可能だ。
「ニムロッドに報復したいというのは理解できますが、リスクが大きすぎます。死ににいくようなものですよ。なぜそうまでして……」
「だったらなんだ! お前には関係ねえだろ!」
男は声を張り上げ、燐の言葉を遮った。手にした工具を乱暴に投げ捨て、大股で歩き、燐の前に立つ。
「俺が何をしようと、お前に口を挟む権利はねえ。俺が俺の命をどう使おうが、それもお前の知ったことじゃねえ。どうせお前は、もう死んだも同然だろうが。だったら最後に、俺が有効活用してやろうってんだよ」
低い声でまくしたてる男は、右手を挙げ、人差し指を燐に突きつけた。
「なんで俺がお前を野放しにしてると思う? お前の首に刻んだ“茨”があるからだ」
「いばら……、これが、何か?」
「そいつはお前にかけた呪いさ。お前が死ぬまで解けやしねえ。もしお前が俺に逆らったり、俺から逃げようとしたり、俺を裏切ったら」
男は燐に向けていた人差し指を、自分の首元に持っていき、すっと横一直線に動かした。
「お前は一巻の終わり。その場で死ぬ。よく覚えとけアイオーン」
男はもう一度、きつく燐を睨み、バイクの方へ戻っていった。反論は許さない、と無言で語っているが、そんなふうに拒絶せずとも、燐には返す言葉が見つからなかった。
呪身鬼の、人間の、ニムロッドに対する怒りや恨みは、燐には計り知れない。
世界に充満している人類の負のエネルギーは、一人の人間に、メタノイドの群体を破壊しつくすほどの異能力を与えた。
そして、玉砕としか言いようのない、無謀な道を歩ませようとしている。
怒りとは、憎悪とは、これほどまでに人間を突き動かす感情なのか。
己が命を捨ててもいいほどの。
(感情とは、そういうものなの? 理性や理屈を超えていってしまうもの?)
燐の身の内に芽生え始めたものが感情であるならば、いつかそれを、理解できるときがくるだろうか。
(私は知りたい。感情とはどういうものか。なぜ生体兵器である私に、このようなものが芽生えたのか、知りたい)
この男の側にいれば、真の答えが得られるかもしれない。
「手伝います」
何気なく言うと、男は顔を上げ、燐を凝視した。その表情は奇妙に歪んでおり、なんとも形容しがたい。
「………………は?」
たっぷりと間を空けて、男は気の抜けた返事をした。
「なんつった?」
「手伝う、と言いました」
「何を」
「そのバイクの修理を、です」
燐は、兵器には似つかわしくない細い指で、故障したバイクを指差した。男はバイクと燐を見比べる。
「なんでだ」
「必要なのでしょう? これからあなたがどこに向かおうと、生身の人間が徒歩だけで旅をするには、体力的に無理があります。そのバイクが直れば、あなたの旅を大いに助けてくれる」
「だからって、なんでお前が手伝う」
「手伝ってはいけないのですか?」
「いけないっつうか……、それは、なんか違うだろ」
「違う……」
燐は男の言葉を吟味してみた。
人間である彼の旅を、効率のよいものにするには、乗り物の確保は必須だ。修理にあまり時間をかけていると、新たなメタノイドの追跡隊が来てしまう。手伝うことで修理時間を短縮できれば、その分早くここから移動できる。
「なにも問題はないと、判断しましたが」
「………………もういい。勝手にしやがれ」
なぜだか男は、なにかを諦めたふうにため息をついた。
彼が釈然としていない理由は分からないが、手伝いの許可が下りたのなら不都合はない。
「燃料はありますか?」
「いや、少し足りてねえな」
反論は不毛だと察したのか、男は素直に答えた。
「では、燃料を探してきます。食料も残っていれば持ってきます」
燐は頷き、裏庭を出るために、壊れた柵を跨いた。すると、男が呼び止める。
「ちょっと待て」
「なんでしょうか」
燐が振り返ると、男は再び指を突きつけた。
「逃げるんじゃねえぞ。逃げたらどうなるか、分かってんだろうな」
「分かっています」
手短な返事をして歩き出した燐だが、あることを思い出し、急いで男のもとへ戻った。
「すみません。あなたの名前を聞いていませんでした」
*
この街の名はレイクベルというのだと、倒れた土地売り出しの看板から判明した。
昨日、燐がメタノイドと戦いを繰り広げた市街地に比べ、ここは民家のような低い建物だけが集まっていたようである。
多くの住民たちが紡いできた営みの痕跡は、瓦礫と土と雑草に埋もれてしまい、かつての名残を垣間見ることさえできない。
燐は廃墟の中を散策しつつ、三ブロックほど進んだ。バイクの燃料はなかったが、食料をいくつか発見した。
民家の地下貯蔵庫、ドラッグストア、中型のホームセンターなど。この街から逃げる際に住民らが、あるいは通りかかった生存者らが荒らしてしまったようで、物資はほとんどなくなっていた。が、注意深く探せば、見つかるものである。
燐は集めた食料品を道端に並べ、検分してみた。
日持ちのする缶詰がいくつか。菓子類が少々。水のボトルが二本。
食事を必要としないアイオーンの燐には、これだけの食料で何日持つかは分からなかった。が、多少なりとも、水と糖分を確保できたのは幸いだろう。
人間にとって食料と水は、生きるために必要不可欠だ。これからの旅の先々でも、こうして食料を探すことになるだろう。
燐には無用の長物なので、わざわざ食料を探す義務はない。だが彼――ノア・ハルキヴァハを生かすためには、食料探しが欠かせなくなる。
燐はいまや、ノアの所有物といっても過言ではない。
ニムロッドから見捨てられ、廃棄処分対象となり、メタノイドから追われる身となった燐を、ノアは「ニムロッドの拠点まで案内させる道具」として拾い上げた。
自分を造ったニムロッドに不要とされても、燐にはその運命に抗う理由と意味がない。この胸の中に芽生えた、感情と思われる“重み”がなければ、従順に処分されていただろう。
だが、この感情と思われるモノのために、燐は逃げた。逃げれば罪は重くなる。燐にはもう、逃げ続ける道しか残されていない。
それならば、「道具」として使われていた方が、存在価値はあるというもの。
ノアとともにいれば、きっと感情をいうものを理解していくことができるだろう。
呪身鬼であるノアの、激しく熱い感情に当てられたとき、燐は、胸の内が大きく揺さぶられたのを感じた。その瞬間、まるで雪解けの土の中から芽吹くように、何かが燐の中で目を覚ました。
それがきっと“感情”なのだ。
けれど、すべてを理解したわけではない。自分がどうして感情を得たのか。他のアイオーンと何が違うのか。
そもそも感情とは何なのか。
そのすべての答えを得るために、燐はノアとともに行くことを受け入れた。
(私、おかしなことをしている……)
ノアに「道具」として使役されることを認めながら、なお、人間のように芽生えた感情を理解しようとしている。
それはまったく噛み合っていないようで、それでいて、どこかが絡み合っているような、とてもとても奇妙な感覚だった。
燐は見つけた食料を、拾ったリュックに詰め込み、肩に背負った。
次はバイクの燃料を見つけなければ。
(私は、私の求める“本当の答え”を得る目的のために、ノアに協力する。つまり、そういうこと。そう、そういうことなんだ)
ひとまずそれで、納得するとしよう。
自分の目的達成に必要となれば、ノアを生かし、守ることは不自然ではない。
燐がまだ、アイオーンとして正常に機能していた頃、同胞のアイオーンから聞いたことがある。
〈呪身鬼〉は、絶大な力を手にする代わりに、短命になるのだ。と。