ノア
辛うじてガラスの残った窓から、青白い光が射し込んでいる。
首を動かして窓を覗き、黒い夜空を見上げれば、ほんのわずかな雲間から半月が顔を見せていた。
ノア・ハルキヴァハは思わず微笑み、口笛を吹いた。
侵略戦争以降、空は陰鬱な暗雲に覆われ、太陽は拝めなくなってしまった。雲を通過した太陽光は弱く薄暗いが、それでも光が届くだけありがたい。日中の気温は大きく下がったものの、氷河期のようにならなかったのは不幸中の幸いだ。
昼間はまだましだが、夜はどうしようもない。月や星の輝きは、暗雲を貫いて地上に到達するほど強くなかった。
電気供給が途絶え、街の明かりが消え失せ、夜の地上を照らしてくれる光は、もうどこにもない。
忌々しいニムロッドの哨戒船が、複眼のような不気味な照明で、人間の生き残りを探っているだけだ。
だが時おり、こんなふうに雲が切れ、気まぐれに月光が注ぐことがある。
月が輝いているということは、太陽の光は失われていないということだ。
地上は死んだも同然だが、太陽と月は、まだこの星の側に寄り添ってくれている。
そう思うと、不思議なことに、寂しさが少し和らいだ。
(柄にもねェことを。俺もヤキが回ったか)
ノアは窓辺の椅子に腰かけ、淡い光をくれる月に魅入った。
世界がこうなる前のノアは、月を見ても情趣など解さなかった。月や星、太陽に対して、何の感慨もなかった。
だが今、灰色に濁った空を見上げて、そこに太陽の姿がないとき。
夜空に、冴えた白銀の月や、散りばめられた星の瞬きが見えないとき。
この世界は、もう今までとは違うのだという事実を、改めて叩きつけられた気がして、怒りとともに、虚しさや侘しさ、郷愁の念が押し寄せてくる。
会いたい人は、もういない。
守りたい人も、もういない。
そして後悔だけが、ノアを責める。
*
ノア・ハルキヴァハの故郷は、ここからずっと南に下った地方都市だ。広いだけが取り柄の、何の面白みもない、退屈な街だった。
子どもの頃はそれでも、広い街は世界のすべてで、友だちと野原や山、沼地を駆け回ったものだ。
そのまま馬鹿みたいに純粋な気持ちでいられればよかったと、ふと思うことがある。だが、一度間違った道を戻すのは、簡単なことではなかった。
成長するにつれ、近所の年上の少年たちの影響を受け、地元の自然や釣りへの興味がなくなっていった。
年上の少年たちのファッションは尖っていて、少し危ない空気を醸し出していた。それがなんだか、やけにかっこよく見えるようになった。
大人の言うことを聞かず、未成年にも関わらず酒や煙草をたしなみ、数人のグループで結束を固め、自分たちだけのルールに従って生きている。何より、喧嘩が強い。
そんな彼らに、ノアは憧れを抱いたのである。
ノアが、彼らと同じ道に足を踏み入れたのは、十五歳の夏だった。
とある少年グループのリーダーに乗せられ、グロサリーの食品類を万引きしたのがきっかけだった。
生まれて初めての反逆行為だ。本当は怖かったが、憧れていたそのリーダーに認めてもらいたくて実行した。
度胸を買われ、ノアはグループの仲間入りを果たした。
嬉しくて仕方がなかった。一人前の男と認められたのだ。家族や教師のように子ども扱いせず、説教もしない。自由を手に入れたのだ。
守れと言い聞かされてきた社会のルールなど、一度無視してしまえば怖くない。自分を縛りつけていたつまらない決まりごとなど、本当は何の効力もなかったのだ。
大人が築き上げた社会は、大人にとって都合がいいようにできている。
そんな社会なら、壊してしまえばいい。
定められたルールに逆らい、思うがままに生きる。急に目の前が開けた気持ちになって、心が解き放たれたようだった。
当然のことながら家族は、荒んでいくノアを、何とか元の生活に戻そうと努力した。
ノアは、家族の言葉に耳を傾けなかった。その時の彼にとって、家族もまた、自分を拘束するしがらみでしかなかったのだ。
無視し続けていると、いつの間にか家族の方が、ノアを疎ましがるようになっていった。
忌々しげに眉をひそめる母。
怒鳴ってばかりのうるさい父。
ノアを見向きもしなくなった妹。
最後まで優しかった祖母も、悲しい目を向けるだけになった。
そんな家に帰りたいなどと思うだろうか。
十七歳になったある日の朝、ノアは高校に向かうふりをして、そのまま故郷の街を出た。
首都のダウンタウンで暮らし始めたノアは、アンダーグラウンドな若者グループの一人として、退廃的な日々を送った。
定職に就かず、スリやカツアゲで小銭を稼ぐ。盗んだものを裏のマーケットで売り払い、あぶくのような金を得た。
喧嘩は日課だ。ノアのグループは、他の若者グループと比べても、かなり強い権力を持っていた。その地位を狙う連中は五万といる。
違法行為を恐れず、喧嘩にも強い。それだけが、当時のノアのアイデンティティを支えるものだった。
その矜持が、いかに薄っぺらで儚いものだったか。
ノアは後に、死にたくなるほど思い知らされる。
二十二歳の冬。
ノアは数名の仲間とともに、大きなヤマに取りかかった。大手銀行へ強盗に押し入るのだ。
計画は綿密に練った。このヤマが成功すれば、グループの名声は高まり、不動の地位を得ることになる。プライドに懸けても、成功させなければならなかった。
だが決行の日、ノアはとんでもないミスを犯した。
金を奪い、逃走用の車に向かう途中、行く手を阻んだ警備員と取っ組み合いになり、誤って銃殺してしまったのだ。
慌てて逃げたものの、使用した弾丸から足がつき、犯行に関わった仲間は全員逮捕された。
人を一人、死に至らしめたノアには、無期懲役という刑罰が下された。
街から離れた荒野の刑務所の中。
受刑者用の繋ぎ服を着て、高い塀を見上げる。
胸にあるのは後悔よりも苛立ち。それは、何に対する苛立ちなのか。
道を踏み外した自分への反感だと自覚したとき、故郷を飛び出した後の人生を、ノアはようやく見つめ直した。
拓けたはずの自分の世界は、本当はただ狭まっただけだった。
今ならまだ間に合う、と、差し伸べられた手をことごとく振り払い、気がつけば後戻りのきかないところまできてしまった。
一体、何がしたかったのだろう。
一体、何を見てきたのだろう。
一体、何が欲しかったのだろう。
それは、家族や故郷を捨ててまで、手に入れたかったものだったのか。
がむしゃらに突っ走っていたときには、気にもかけなかったのに、立ち止まった今は、目を背けても消えてくれない、後悔という重荷。
故意ではなかったとはいえ、死なせてしまったあの警備員と、残された家族への謝罪の念も、日に日に強くなっていった。
奪ったものの大きさに、心が押し潰される。
(俺は、どうしようもない大馬鹿だったんだ)
今更のように思う。
目を閉じれば、瞼の裏に家族や故郷の姿が浮かんでくるが、自分があまりにも惨めで情けなくて、涙は一粒もこぼれなかった。
もし。
もしも家族が、刑務所へ面会に来てくれたなら。
そのときは謝ろう。許してくれないかもしれないが、せめて自分の愚かさを自覚していることだけは分かってほしい。
いつか会いに来てくれる。
それだけがノアを支える希望だったが――。
何もかも、手遅れだった。
春告げの嵐が、例年より早く訪れた二月。
世界が終わった。
侵略者ニムロッドの攻撃の手は、ノアが収容された刑務所にまで伸びた。施設は紙切れのように破壊され、看守も受刑者も関係なく殺された。
一部の者たちは連れ去られたが、その目的は知る由もないし、知りたくもない。
阿鼻叫喚の混乱の中、刑務所から脱出できたのは、幸運としか言いようがない。
しかし、逃げ込める場所も、隠れられる場所もなかった。
外では、異星人と人類軍との熾烈な戦いが、そこかしこで展開されていたのだ。市街地も郊外も関係なく、銃弾が飛び交い、爆弾が炸裂する。
建物は瓦礫の山と化し、水は汚染され、兵士たちの屍が、道端に累々と積み上げられていく。
異星人の探索の目を抜け、命からがら逃げ続けるノアは、行く先々で地獄のような光景を目の当たりにした。
(どうしてこんなことに……)
恐怖と怒りに震えながら、ノアはそれでも走った。
故郷へ帰る。家族を捜しに行く。
その想いだけが、ノアを奮い立たせていた。
遠く離れた故郷。交通は完全に止まってしまった中、徒歩でどれほどかかるだろう。見当もつかなかったが、ノアは一心不乱に歩き続けた。
街のいたる所では、生き残った人々が、水や食料を求めて暴動を起こしていた。ノアも水と食料が欲しかったが、荒らされたあとの店から、残り物を探し出して確保した。もう誰からも、何も奪いたくない。
暗がりに連れ込まれ、乱暴されそうになっていた女性を助け出したこともある。
敵は異星人だけではなかったのだ。追い詰められた人間は、生き延びるために、やがて同胞に牙を剥く。
極限状態の人間は、我が身かわいさのために、どこまでも残酷で非道になれる。
そんなことは分かっていたのに、いざ目の当たりにすると、心臓が切り裂かれる錯覚を覚えるほどショックだった。
犯罪に手を染め、殺人も犯し、世界など壊れてしまえと願ったこともある。
でも、こんな結末は残酷すぎる。
この先、正体も分からない異星人に蹂躙され、滅びていくだけの終わりだなんて、あんまりではないか。
気力と体力を奪われ、それでもノアは歩いた。
嫌な想像はしたくない。きっと無事だと信じて、ひたすら歩いた。
絶望と戦いながら歩き始めて、二ヶ月ほど。
ノアはついに、故郷の街が一望できる丘までたどり着いた。
疲れも忘れて丘に駆け上がる。もうすぐ故郷をこの目で見られる。無邪気だった子ども時代、懐かしい家族の思い出を残した街を。
丘の上の木立を抜ければ、そこに――。
街は、なかった。
ない。ない。なにもない。
建物も、家屋も、学校も、道路も、なにもかもなくなっていた。
街があったはずのそこには、巨大なクレーターが口を開けているだけだった。
たった一握り残されていたノアの希望は、欠片も残さず消滅した。
ノアはその場に崩れ堕ち、泣き叫んだ。
待ってくれていると信じていた家族も、少年時代を共に過ごしたかつての友人も、恩師も、叱ってくれた近所のおじさんやおばさんも、通いつめたお菓子屋も、思い出の詰まった遊び場も。
ノア一人をおいて、消えてしまった。
どれだけ泣いたか分からない。叫び続けて、喉が焼けるように熱かった。だが足りない。どんなに泣いても喚いても、この絶望を拭うことなどできはしないのだ。
ふと気配を感じて、顔を上げた。
周りを見れば、いつの間にか機械の兵士たちに囲まれていた。忌むべきニムロッドのメタノイドだ。
メタノイドは感情のないカメラアイで、ノアをじっと見つめてくる。
涙で濡れそぼった目で、ノアは奴らを睨み返した。
腹の底から何かがせり上がって来るのを感じる。熱い、ドロドロした、マグマのような何かが、ノアの心臓に達し、血管を通って全身に行き渡る。
鼓動が激しくなり、こめかみがズキズキと痛んだ。耳の奥で、鼓膜がビーンと奮え、周囲の音が遠ざかる。自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。
頭のてっぺんから爪先まで、身体の内側が、熱く激しい流れに支配されていく。
押し流されそうな威力の奔流に、しかしノアは抵抗しなかった。
その激しい熱さが、ノアに必要なものをくれると分かったからだ。
ノアは、己を飲み込もうとするそれに、自ら手を伸ばして引き寄せた。
痛みにも似た刺激が、全身を包む。それは徐々にノアの神髄まで滲みていき、やがて彼の一部なった。
ノアの足元から、世界が赤黒く染まっていく。
メタノイドを見据えたまま、ノアは呟いた。
「殺してやる。お前らみんな、俺が殺す」
*
月に向けていた視線を、掌に落とす。掌の中心に意識を集めると、赤い煙のような靄が立ち昇った。
これが呪いを根源とした能力であることを、ノアは覚醒とともに知った。力そのものがノアに教えてくれたのだ。
旅の間、一人だけだが、同じ能力者に出会った。その人は、十人ほどの生存者グループのメンバーで、神父だった。
能力に目覚めた者は他にもいるらしく、いつからか〈呪身鬼〉と呼ばれるようになったと、真面目そうな神父は語った。
なぜこのような力を得たのか、それを知る者は誰もいないらしい。
そう前置いて、けれど、と神父は続ける。
「これは、神が与えたもうた最後の奇跡だと、私は思います。私たちは選ばれたのです。呪い、というおぞましい能力ですが、使い方は能力者次第です。私は、仲間たちを守るために、この力を振るいましょう」
ノアは神父の誘いを断り、一人での旅を続けた。
神父はいい人だった。だがノアは彼と違う。
奇跡だろうが、神の贈り物だろうが、なんだっていい。たとえ悪魔の仕業だったとしても、この能力を与えてくれたことに感謝する。
守る仲間はいない。これ以上失うものもない。
ならば、奴らへの復讐を。
掌の赤い煙を、握って消す。
この力が、真実、神からの授かりものであれば、祈りを捧げなくなって久しいノアを選んだ神は、よほどの物好きだ。
だが、見方を変えれば、ノアはふさわしい対象だったのではないか。
これまでの行いを悔い、罪を償いたければ、この能力をもって覚悟を示せ。
そういうことなのかもしれない。
だが、神に言われなくとも分かっている。
「俺がやるべきことは、一つだ」
視線を動かし、斜向かいの壁を見やる。
リンと名乗った黒髪の少女が、ぐったりと壁にもたれて座り込んでいる。人間の姿をした、おぞましきニムロッドの破壊兵器。見ているだけで腹が立つ。
「ったく。人間に似せて造るとしても、なんだってこんな……」
少女型にする必要があったのだろうか。成人男性を基準にした方がよさそうなものを。
それとも、アイオーンという連中は、様々な外見をしているのかもしれない。あるいは、人間を油断させるために、あえて少女型にしたか、だ。
リンの外見年齢は、十七・八歳くらいに見える。ノアの脳裏に、自然と妹の姿が浮かんできた。
ノアが家を飛び出したとき、妹は十五歳だった。リンよりは幼い容姿だろうが、背格好はあまり変わりなさそうだ。
記憶の中で、成長が止まった妹とリンが重なり合う。ノアは慌てて首を振り、そのくだらない空想を払い落とした。
あれは妹とは違う。ニムロッドが造り出した兵器、人間ではない。
リンから取り上げ、手元に置いたこの二振りの刀を見る。この武器で、一体どれだけの人間を殺したことだろう。
感情が芽生えたとか何とかほざいていたが、そんなのは嘘っぱちに決まっている。兵器が感情など持つものか。
壊してやるつもりだったが、思いとどまった。そもそも昼間、メタノイドの群れを屠ったとき、彼女だけ生かしておいたのは、ニムロッドの拠点まで案内させるためだ。
ニムロッドの母船や、世界中に点在する基地は、常にステルスバリアを張り巡らせているらしい。
ならば、ニムロッドに案内させるしかない。あのアイオーンは適任である。人間と変わらない外見には吐き気をもよおすが、言葉による意思疎通が可能なのは大きな利点だ。
(ニムロッドは殺す。俺が殺す)
“力の代償”がノアを飲み込む前に、それは成し遂げられなければならない。




