燐
毎年、二月末から三月始めにかけて、南西の海から大陸に吹きつける大風は、春到来の知らせだった。
嵐に乗って陸に押し寄せる暖かい空気が、雪を溶かし、新しい芽を起こし、眠っていた生き物たちを長い夢から掬い上げる。
風が治まる頃、大地は新緑の色と香りに満ちる。厳しい冬に耐えた人々は、待ちわびていた季節に、身も心もうきうきと弾ませるのだ。
その年、春告げの嵐は、例年より早く訪れた。
二月中旬、南西の海の上空を、厚い黒雲が覆い尽くした。
雲の中では雷が咆哮を上げ、赤や紫の禍々しい閃光を放つ。
やがて海は大時化となって猛り狂い、漁に出ていた船が幾隻も沈んだ。
しばらくすると黒雲に渓谷のような裂け目が生じ、轟音を伴って稲妻が降り注いだ。
それらの稲妻に導かれるが如く、黒雲の亀裂から巨大な楕円形の物体が、ゆっくりと、ゆっくりと降りてきた。
巨大物体はしばらく空中を漂ったあと、雷とは異なる光を四方八方に放った。
光は陸に達し、触れたものを一瞬にして炎上消滅させた。
それが、侵略の始まりだった。
*
乾ききった大地に、生暖かい風が吹く。
崩れた建物に開いた穴を、その風が通り抜けるためか、びょうう、びょうう、と不気味な音が鳴り響く。
それは無念を嘆く泣き声となって、死滅した街にこだました。
かつては整然と建ち並び、街の支配者然と君臨していた高層ビル群は、いまや街の墓標と化している。
窓という窓は割れ、コンクリートの表面には無数のヒビが入っている。傾き、崩れ落ち、あるいは粉微塵に砕かれ、風雨に削られて果てるのを、ただただ待っている。
隆起した道路は放置された車両であふれ、車内に取り残された人間が、建物より早く朽ちていた。
世界のどこへ行っても、同じような光景が広がっている。人類が二千年かけて築き上げた文明の面影は、もうどこにもない。
(あっけない)
ビルの一部だったコンクリート壁にもたれ、濁った空を見上げる少女・燐は、そんなことを思った。
(どんなに時間と労力を費やしたものでも、ほんのひと吹きの風で崩れ去ってしまう。それは建物でも、文明でも、命でも同じ)
終わる時は早いものだ。
(私も、あっけない)
灰色の空は澱んでいて、雲はほとんど動かない。上空の風が弱いのだ。地上に吹く風は、こんなに厳しく、虚しいのに。
燐のルビーのような双眸には、暗くたゆたう雲がヘドロ溜まりに見えた。
彼女の白い肌に、紅い瞳はよく映えている。長い髪は肌の色に対して黒く艶やかだ。だが毛先だけは、目と同じ紅色に染められていた。燐はその特徴的で美しい髪を、ゆるい三つ編みにしているのが常だった。
着ているのは制服である。緑のセーラーカラーに赤いスカーフを締め、身頃は白。プリーツの入ったスカートは、襟と同じ緑だ。
廃墟の街には場違いな格好だが、デザインに反して機能性の高い服であり、燐は重宝している。
その機能性高き制服も、ここまでの過酷な道のりのせいで、すっかり泥と埃と煤にまみれてしまった。
燐は上に向けていた顔を正面に戻した。死んだ空など悠長に見ている場合ではない。油断していたら、自身もこの廃墟の一部となってしまう。
敵の目をかいくぐり、どうにかここまで来られた。が、この先どこへ行けばいいか分からない。
そもそも燐の逃亡に、行くあてなど最初からなかった。
ある日突然追われる身となり、身体ひとつでこの枯れた街までやってきたのだ。
頼れる者はいない。今、我が身を守れるものは、肌身離さず携帯しているふた振りの刀のみ。
燐は腰のベルトに佩いた刀に、細い白指を這わせる。柄に結わえた赤い組み紐が、ゆら、と揺れた。
(優良合成素材のこの刀なら、まだ充分に戦える。でも、問題は私の体力がどこまで持つか、だ)
逃亡を始めてから数日、ほとんど休息が取れていない。早く身体を休ませられる安全な場所を探さなければ、いずれ野垂れ死にするだろう。
安全な場所?
燐は弱々しく首を振った。
どこにあるというの。私にとっては、どこも同じ。どこへ行っても、私の処刑場だ。
(行こう。それでも動かなければ)
もたれかかっていた壁から離れ、走り出そうとした。
気配だ。燐はとっさに壁際に戻り、陰になっているところで身を潜めた。
壁の向こうから、かすかに物音がする。燐は刀の柄を握り締め、鞘から引き抜いた。
くすみひとつない精悍な銀色を放つ刃に、燐の顔が映る。優良合成素材を磨き上げて造られた刃は、数多の敵を屠ってきてなお、輝きを失っていない。
息をひそめ、微動だにせず、相手の出方を窺う。物音が近づいてくる。燐を探す物音が。
頭上に影が落ちた。はっとして顔を上げると、侵略者ニムロッドの四足歩行型メタノイドが壁のてっぺんに登っていた。
メタノイドのカメラアイが、しっかりと燐を捉える。その瞬間、燐は風のように素早い動作で刀をひるがえすと、メタノイドの首にあたる部分に向けて突き上げた。
優良合成素材の刃は、鋼鉄のボディをやすやすと貫く。燐は柄を持ち替え、横に薙いだ。メタノイドの首は胴体と斬り離され、火花を散らして地面に落ちる。残された胴はその場に崩れた。
燐は急いで壁際を離れた。メタノイドが一体でも消失すれば、たちまち他の機体に通達が届く。それはつまり、こちらの居所を教えるようなものだ。
瓦礫だらけで足場の悪い道路を、燐は全速力で駆ける。
どこからともなく機械の塊がいくつも現れ、あっという間に彼女を取り囲んだ。
今度の相手は、二足歩行の郡体式メタロイドである。大きさは燐の腰の高さほどしかないが、郡体単位で行動するので厄介だ。
メタノイドたちはボディから攻撃用アームを出現させ、威嚇しながら間合いを詰めてくる。
燐は群れる敵を見据えつつ、もう一本の刀を抜いた。
先のことを考えると、こんな所で体力を消耗したくない。ただでさえ休養不足で、“切り札”を使う余裕さえないのだ。
(一気に片付けよう。できるだけ早く。体力が尽きる前に切り抜けなくては)
両手に持った二振りの切っ先を、外側に向けて構える。
二体のメタノイドがアームを振りかざし、前後から燐に挟み撃ちを仕掛ける。燐は立ち位置をずらすと、刀を前後に突き出して、二体同時に串刺しにした。
そのまま引き抜かず、腕の前後を入れ替えるようにしてメタノイドを振り投げる。貫かれた二体のメタノイドは、周辺を囲む同機体と衝突。巻き込まれた複数体が破損した。
四体が飛びかかってきた。燐はまず右手の一体を真っ二つにし、数歩後退して体勢を低くした。
残る三体が跳躍すると、すみやかに踏み込んで懐に潜る。右足を軸にして身体を捻り、刀を振り上げ一体を叩き斬った。
斬られたメタノイドが地面に落下する間に、反対側の刀でもう一体を斬首。最後の一体は、二振りを見舞って四つに斬り裂いた。
計六体を倒すのに一分足らず。出だしはまずまずだ。
刀を巧みに操る少女が手強い獲物だと判断したメタノイド群は、一斉攻撃を開始した。
その全てを、律儀に相手している暇はない。燐は退路を得るため、繰り出されるアームを刀で払い、あるいは機体を蹴り倒し、隙間をかいくぐった。
攻撃を免れ得ない場合は、容赦なくメタノイドを斬り棄てる。だが優先するのは、あくまでも退避だ。
二十体近くを葬って、ようやく敵の囲いを抜けられた。道が開けた途端、燐は再び全力疾走する。
(他のメタノイドもいるはず。対処できる相手ならいいのだけど)
獲物に対する慈悲を、ニムロッドに乞うても無駄だ。奴らは絶対に標的を見逃さない。
背後からメタノイドがわらわらと追ってくる。燐は時折振り返って様子を見るだけにとどめ、逃げ延びることに集中した。
だが大きな交差点に差しかかった時、左側のビルの陰から巨大なメタノイドが現れた。燐を押し潰さんと、巨体に似合わぬ跳躍力で宙に舞った。
「くっ……!」
燐はメタノイドの腹の下に潜り込んで駆け抜け、あわや圧死から逃れた。
燐を飛び越える形になったメタノイドは、着地するやただちに方向転換し、肩に取り付けられたガトリングを放つ。
無数の弾丸が降り注ぐ。燐はステップを踏むような軽やかな足捌きで、弾丸の雨をかわしながら、徐々に敵との距離を詰めていった。
燐が近づくと、メタノイドは砲撃を止め、彼女に掴みかかった。
モーションが大きい。身軽で俊敏な燐を捉えるには、動きが緩慢だ。
メタノイドのアーム表面から、鎌のようなブレードが出現。目前に迫ったそれを、燐は仰け反って回避する。
避けた体勢のまま、刀の一振りをメタノイドの腹部に突きたて、内部のパーツを抉り斬る。続けざま、もう一振りの刀でアームを一本落とすと、とどめに刀二本で首を貫いた。
メタノイドが倒れ、完全に機能停止したのを確かめると、燐は休む間もなく走り出す。
いくつかの通りを越え、何度も角を曲がり、追っ手を捲くため縦横無尽に駆け抜けた。
街の外れまでやってくると、燐はようやく速度を落とし、やがて足を止めた。
抜き放ったままだった刀を、腰の鞘に戻す。肩を上げて深く息を吸い、吐いた。
「なんとか捲けたかな……」
呟いて、あたりを見回す。
そこは荒れ果てた住宅地区だった。崩壊していない家屋は一軒もなく、生き残った人類が潜んでいるとは考えられない。かつては人間の温かな営みがあったはずだが、玄関ポーチにも、雑草に支配された庭にも、開け放たれたガレージにも、それらを偲ぶ面影はない。
風が吹き、土埃が舞い上がる。かさかさと音と立てて、ゴミくずが転がっていった。
ふと足元に目線を落とすと、赤茶けた輪を見つけた。なんとはなしに拾ってみれば、それはベルト――ペット用の首輪だった。
大きさからして犬用だろう。欠けたネームプレートが付いていたが、表面が傷ついていて名前は読めなかった。
この首輪を飼い主から贈られた犬も、無残に死んだのだろう。それとも、運よく主人と生き延びて、どこかに隠れ住んでいるのだろうか。
(侵略戦争はニムロッドの勝ちだった。でも、人類すべてを滅ぼしきったわけじゃない。今だって……)
見知らぬ犬とその飼い主に思いを馳せる。
突然、数メートル先のマンホールの蓋が、凄まじい勢いで吹き飛んだ。物思いから覚めた燐の手から、首輪が零れ落ちる。
マンホールの下から、群体メタノイドが溢れ出てきた。その数は、最初のグループの二倍以上はある。
群体メタノイドは、ギチギチと耳障りな機械音を鳴らしながら、燐を取り囲んだ。今度の囲いは先ほどより厚い。正面突破は困難だ。
「しまった……!」
燐は刀に手を置き、メタノイドを睨みつけた。
“切り札”を使う、という考えが頭に浮かぶ。体力は回復するどころか、先の戦闘で消費しているくらいだ。今の状態で“切り札”を使うと、今から始まる戦闘の途中で、残る体力が尽きてしまう可能性がある。
(戦いを避け、逃げ切るために使う。それなら……)
燐は腹を決め、大きく深呼吸した。“切り札”を発動するため、意識を集中する。
その時、空気が変化した。
(なんだろう?)
乾いていたはずの空気が、じっとりと肌を舐める。熱い湯の側に立っているような感覚だ。
メタノイドたちも、空気の変化を察知したようだ。慌しく機体を震わせ、コンディションランプを明滅させている。
背後に気配を感じ、燐は息を飲んだ。
何かが迫ってきている。正体は分からない。ただ――、
とても厭な感じがする。
こんな感覚は初めてだ。敵と激しい戦闘を繰り広げている時でも、このような感覚を味わったことはない。
(一体、何が、背後に――)
メタノイドたちも慄いている。彼らさえも身の危険を覚える何かなのだ。それでも退却しないのは、ニムロッドの命令に背けないからだろう。
(まさか――)
メタノイドを恐怖させる何か。その正体が、燐の脳裏をよぎった。
視線を足元に落とす。
地面が赤黒い色に染まっていく。まるで溶岩のような、鮮血のような、禍々しい色だ。
地面だけではない。周辺の景色も、空さえも、みるみるうちに赤黒く変化していった。
空気は重くなり、身体中が圧迫されている気分だ。
燐とメタノイドの周辺の世界は、おどろおどろしい赤に沈んだ。
(これは、結界!?)
一際強烈な気配が後ろから迫ってくるのを感じて、燐は振り返る。
燐の背後を固めていたメタノイドの足元から、無数の刃が出現した。刃は蛇のようにのたうち回り、メタノイドのひとグループを一瞬にして鉄屑に変えた。
機械兵をいともたやすく葬った刃の向こうから、気配の主が姿を見せる。
赤黒く染められた世界の中、その姿は異様に浮き上がっていた。
若い男だ。二十代前半くらいだろうか。
彼が近づくごとに、厭な感じは増す。
それは彼が抱いている、ある感情の顕現。
今この地上において、メタノイドひいてはニムロッドが恐れる唯一の存在。
「〈呪身鬼〉……」
呟く燐の声は震えていた。その震えが、畏怖からくるものとは知らずに。