サメ
掌編小説たちの群。少しシュールレアリスム混じる。
シリーズではない作品、短いもの。詩のようなものも。「私」は男性視点。
私がその国に降り立ったのは朝方だったのだろうか。出迎えた日本の報道陣に揉まれ、私は目の前を歩く人物を懸命に追っていた。
彼の肩には豪勢な黒い羽飾りが光り、腰まで緩いカーブを描く白銀の髪は彼の動きに合わせて、黒いビロードのマントの上を波打っている。私は、四肢が長く、線の細い後姿が男であることを知っている。彼の名前は勿論、顔、地位、声、特技、好きな食べ物、また、どれほど手を伸ばしても到底届かぬ存在であることも知っている。
駆け寄る報道陣に動ずることもなく、ただゆっくりと人の波を縫っていた彼が突然私を振り返って真紅の唇を艶かしく歪めた。美しくも恐ろしい笑顔は、私の理想そのものだ。
彼は私の右腕を掴み、周りを振り切って走り出す。彼の手は驚くほどに冷ややかで、その指を薄氷が覆っているのではないかと思うほどだった。彼についてゆくのは苦しかった。しかし私は何があっても離れまいと、必死になって彼についていった。
漸く人の渦を脱け出して、私は彼と共に地下にある食品街を歩いていた。息を乱す私とは対照的に彼は薄く浮かべた笑みと、生きていることを感じさせない微かな呼吸を崩さずにいた。彼の指は相変らず冷たくて、走って熱を持った私の体にはとても気持が良い。しかし目の前にあった黄色い外装のサンドウィッチの店に彼は目を奪われた。それと同時に冷たい指は私の腕を離れ、虚しさが肌に残った。私は店に嫉妬した。
手を掴まれていない私は、後を追うのに気が引けて、彼が店から出てくるのをただひたすらに待っていた。店はおろか地下街そのものも、客は私たち以外見当たらず静まりかえっている。空気が動く気配がして顔を向ければ、彼が二つの包みを持ち店から出てきていた。私がひとつの包みを受け取ると、彼は早速ナプキンを剥がしてそれを口に運んだ。
そこは既に地下街ではなかった。
歩く街並みは、赤茶けたレンガの色が目に優しく、一目でこの場所が母国でないことが窺えた。頬を掠めてゆく風すらも緑の匂いが隠れている。横でサンドウィッチを口に運ぶ彼を盗み見ながら私もサンドウィッチを口にした。サンドウィッチに、味はなかった。
「おいしいね」
そう言った彼に、頷いていた。私は事実、味のないサンドウィッチが美味しいと感じていたのだ。ふと私のサンドウィッチに視線を落とせば、狐色に焼かれたふっくらとしたパンの間にねずみ色の平たい魚が挟まっていた。魚は、生のコンクリートのようにぬらりと光っていた。
「この魚は、なんですか」
こんな質問を彼に出来る身分ではない。しかし奇跡的にふたりでいるこの時間を、会話なしで過ごすにはあまりに口惜しかった。私はか細い声でそう呟くと、彼は初めてにっこりと微笑んだ。
「これはドイツのサメだよ」
私はそのとき初めて、自分がドイツにいることを知った。会話はそれきりだった。
道なりに歩いてゆけば、私たちは透き通った水の流れる川の土手を歩いていた。ドイツにいる実感はますますなくなってゆく。
彼は風に舞い上げられたプラチナブロンドを気にとめることもなく、未だにサンドウィッチを食べていた。私は彼を直視することが出来なくて、視界に入る透き通った髪が一層に切なさを煽った。私のパンに挟まったサメは、食べても食べても減らず、齧ったあとすらつかない。
目の前に広がる大きな川が朝陽を浴びてぬらりと光った。私はサメを齧りながら、彼の冷たい体温を傍に感じ、涙を流す。
彼は悪魔だった。
私は、彼の信奉者だった。




