第二打目:若年性健忘症(第一章:異界の住人)
妙な夢を見た。気がする。
何か凄いものを見たというのは分かっているのに、肝心の内容は思い出せない。
怪しいものを見た気がする
綺麗なものを見た気がする。
怖いものを見た気がする。
でも、内容は思い出せない。だから、気がする。
いい目を見ても悪い目を見ても、それは夢。だから肝心なところは曖昧。
夢だから、そんなものだと思う。
…なのに、何かが引っかかるのは何故だろうか。
忘れてはいけない、忘れたくないものがあった。
何故それだけ覚えているのだろう。
何故。
桜色の開花の季節は終わり、新緑生い茂る育みの季節。
新しい環境にも慣れ始めるか、慣れるのを諦める時期。
葛原成一にとっても自分の過去を知る人間と知らない人間の区別が付き、知る人間の哀れみか蔑みを含んだ視線から如何に逃げるか…その有効な手段を選定し、習慣とする変化が落ち着きを見せ始める時期でもある。
元より人付き合いが苦手なわけではないが、親しくなった相手が自分の過去を知ってどう思うか。そこでの反応やら遣り取りが面倒で、級友たちとは必要最低限以外の交流は避けている。
だから、成一が昼休みに一人で弁当を食べている光景も珍しいものではない。
ただしそれが人目に映るか否かは別である。
場所は校舎裏に程近いフェンスに面した通り。庭とすら呼べない寂れた場所。
今はもう使われていない茶色く錆び付いた焼却炉と、高くそびえるフェンスの壁。
後は申し訳程度に小さな花壇が設置されている程度。その花壇も草が生い茂り土の色は見えない。勿論花の色も。
成一の通う三条学園の中庭は花壇が色鮮やか。裏庭は木々と芝生の緑が目に優しい。どちらも現在の過ごし易い気候の中では学生達の憩いの場となっている。
しかし成一のいる通称・廃墟通りには滅多な事では人は寄り付かない。
何か目に優しい、心が安らぐようなものが無いのは分かるし、実際太陽が頭の真上に鎮座している昼休みにおいてもどことなく雰囲気は暗い。とはいえそんな場所なら後ろ暗いことをするにはうってつけな筈。
しかし人は来ない。そして誰もそれを疑問に思わない。
詰まりは、それくらい寂れた場所なのだと判断した。何にせよ成一にとっては人が寄り付かないのはいいことである。
成一はその日も好物の緑茶をお供に、慎ましく昼食を摂っていた。
のだが。
視線。これ以上なく分かり易い存在感。
元より人気の無く「動」の無い場所、人が来ればその気配は何よりも目立つ。
ましてや成一の直感は同年代の人間のそれとは比べ物にならないほど鋭敏にして敏感、同時に気配を隠す・絶つ術など身に付けてはいないだろう人間の気配を読み取るなど集中を発揮させるまでもない。
なんともなしに左を向く。
視線の先にいたのは女生徒。
小柄で、茶髪。しかしその色は上から重ねたものというより、元から黒が薄いためであるように見える。そのくらいには自然な栗色。
そして成一はその女生徒の顔には見覚えがあった。
「…結城?」
クラスメイト。
名前は確か、結城紅葉。
確か、と絶対の自信があるわけでもないのは、成一が他者に無関心であり、同時に接触を避けるように生活しているのが一つ。
もう一つは、件の結城紅葉の存在感の無さによるもの。
話をしたことがない…というのならまだしも、成一はそもそも彼女の声すら聞いたことが無い。
視界に映る時、彼女は大抵一人でいるか、お節介な他の女生徒に囲まれて困ったように笑っているか、だった筈。
しかもその光景すら曖昧に思えるほど気配が希薄なのである。
そう、気配が希薄。
人の気配には敏感な成一であるから、人間の持つ空気や気配は一人一人微妙に違うことを知っている。
それは感じ方や匂いの違いだけでなく、小ささ大きさ、重さ軽さという差異も存在する。
そこに当て嵌めるなら、結城紅葉の気配は栗鼠の如く小さく軽い。
数人の集りに紛れれば「そこにいる」と示さなければ気が付かないほどである。
とはいえこうも寂れた場所であるから、そんな人の気配でも現れれば嫌でも目立つ。
相手も成一の視線に気付いたようで、ビクリと体を震わせると顔を伏せて俯いてしまった。
成一は、相手に聞こえないように小さく溜息を吐いた。
恐らく彼女はこの場所に何らかの用事があったが、ここに俺が存在していたために固まってしまっている…成一はそう予想した。
成一は地元ではそれなりに有名であり、同時に悪名もそれなりに知れ渡っている。
そしてその詳細は知らずとも、葛原成一が「そういう生徒である」という話は必ず伝わっている。聞いた人間が望もうと望むまいと、噂話というものは知らず知らず耳に入っているものである。
見るからに気の弱そうな彼女のこと、不良の類には免疫も無いだろう。
もう一度、小さく溜息を…今度は少しだけ長く吐いた。
弁当は既に食べ終わり、後は紙パックの緑茶を飲み干すだけ。ならばこの場に留まることもない。
弁当箱を包むと緑茶のストローを咥えながら立ち上がり、先ほどから石にでもなったかのごとく俯いて固まりっぱなしの彼女に背を向けてこの場から立ち去るべく歩き出す。
場の空気が動く、その気配がする。
チラと後ろを見れば、彼女は驚いたような表情で背中を見つめている。
固まったままならどうしようかと考えていたが、これなら心配するまでもない。
そのままこの時間の停滞したような場所を去り、授業が終る頃には彼女のことも忘れている。
そうなるだろうと思っていた。
「……っ」
何か、聞こえたろうか。
それは虫の声にすら劣る囁きで、そもそも本当に声がしたかどうかすら疑わしい。
しかし成一は背後の気配が微妙に変化しているのを感じていた。
振り返る。
結城紅葉はまた俯いていた。
しかしその体は震えており、何か無い物を振り絞っているように感じられた。
「……っ」
また何か聞こえた気がする。
聞き取れないのは相変わらずだが、その瞬間に結城の体が強張ったのは見て取れた。
つまり、彼女は俺のことを呼び止めている、ということなのだろうか。
学年が上がってから一月、彼女と接点を持ったことは一度もないのだが、何の用があるというのだろう。
それともただのメッセンジャーか。だとすれば絶望的に人選を誤っている。
「……っ」
また何か以下略。
もし俺が気付かずに立ち去っていたらどうするのだろう。そもそも俺が立ち止まって振り返っていることに気付いていないようだ。
このままでは埒が明かない。
成一は、今度は周囲に聞こえるほど大きく溜息を吐いた。
そのまま生まれたての小鹿のように震えている彼女へと近付いていく。
「…あのっ」
目の前まで近付いたが気付かない。
そして、ここまで近付けば彼女が何を言っていたかも確認できた。
どう対応したものかと一瞬だけ迷い、一瞬後にはシンプルに行こうと結論を出した。
「おい」
「はいぃぃぃっ!」
普通に声をかけただけで凄まじい反応があった。
彼女は文字通り飛び上がった。それも両足揃えて伸ばしたままで器用に。
一秒もかからず地面に降りた彼女は、目を見開いて成一の顔を見上げながら物乞いする鯉のように口をパクパクと開閉している。
驚いたのは分かるが普通のリアクションはできないのか
直ぐに話を切り出そうかと考え、このままではまともに応対してもらえるのか不安になる。
冗談でも混ぜて緊張を解すか…とも考えるが、先の反応を思い返し即時却下。冗談を本気にしかねない。
ならばこれは…と考えが広がり始めようとした時点で何時もは他人との接触を避けている自分が、目の前の少女と必死にコミュニケーションを取ろうとしていることに気が付き、苦笑する。
何とも可笑しい話だ。
そしてそんな成一の雰囲気の変化を悟ったのか、目の前の少女は正気に戻っている。
成一を見つめるその瞳は、少しの安心と多くの脅えの色を含んでいる。
「俺に、何か用でも?」
これをチャンス…だとも思わず、成一は普通に話しかけた。
会話をするには自然な空気になったと無意識に判断したのかもしれない。
「え…あ、あの…えっと」
ビクリと体を震わせたが、先のようなオーバーなリアクションは無い。
言葉に詰まっているのはそういう性分だからだろう。
「…」
俯いて黙り込んでしまった。
しかし脅えや戸惑いからの沈黙ではなく、言葉を選んでいるからの沈黙なのだろうと成一は判断する。
緊張の雰囲気は伝わってくるが、恐怖などは感じられない。
一分ほど時間が経っただろうか、結城は決意の表情で顔を上げた。
「あの…葛原、くん」
「ああ」
何か用件を伝えるだけでこの表情。彼女は不器用なのかもしれない。
そんな時期が自分にもあったと、成一は父が存命だった頃の自分を少しだけ思い出す。
「昨日…じゃなくて。昨夜は、何処にいたの?」
「へ?」
昨夜、何処に?
自分でも間抜けな面をしているのが分かるが、しかしその質問はあまりに突拍子も無かった。
何故彼女がそんなことを気にするのだ。
第一昨夜は何事も…。
「あれ?」
何事も無かった、のだろうか。
そもそも昨夜自分が何をしていたのか全く思い出せない。
学校を出て、街へ向かって、ゲーセンで少し遊んで、それから…。
それからが、何も無い。
何時家に帰って。
何時飯を食べて。
何時風呂に入って。
何時布団の中に入った?
気が付けば、布団の中で朝日を顔に受けていたのではなかったか。
そう、昨夜街の中を歩いていたという過去から記憶が断線している。
「…思い出せないの?」
心配そうに結城が尋ねてくる。
しかし、その表情は心配などというレベルではない深刻な色で染められていた。
「いやちょっと待て、昨日は…街で…その後、夢ん中で」
夢?
そういえば、夢を見たのだったか。
夢、夢、夢、思い出せない、夢。
全部が全部忘れたわけではないだろうが、肝心なところは思い出せない。
何故だ。街の中を歩いていて、その後どうした。
街の中?
「俺、夢の中で街を…」
夢の中で街の中を歩いていた気がする。
唐突に、夢を見たという事実と昨夜街の中を歩いていた事実が繋がった。
夢の中で歩いた街の風景が現実味を増し、同時に昨夜の街の風景の現実感が薄れた。
まさか昨日の放課後の記憶は夢だったか?
「違う、あれは、本当に…」
夢とは全てが荒唐無稽で奔放なものではない。
夢は時に過去の事実、未来のビジョンを映し出す。それは現実すら凌駕するような現実味に溢れている。
しかしその現実味は外面だけの空洞。目が覚めてしまえばその存在、それに対する記憶の軽さから「あれは夢だ」ったと簡単に判断されてしまう。
夢と現実にはあった・なかっただけでなく、感覚自体に決定的な差があるのだ。
そして成一の頭の中には学校から出て行く足の感覚、ゲームセンターで時間を潰していたときの指の感覚、空しさに腹を立てながら店を後にした心中の感覚が現実の重さを伴って脳内に残っている。勿論得体の知れない扉を開けた時の違和感も――
扉?
「あ…あぁ…」
記憶が爆発する。
夢。昨夜の夢が、急激に重さを伴っていく。
扉月星夜音爆異打痛炎人――
断片がグルグルと頭の中を駆け巡る。
それ故に詳細な光景は甦らず、益々成一を混乱させていく。
頭痛がする。頭痛がしない。
頭が痛い。頭が痛くない。
だってアレは現実。だってアレは夢。
現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実夢現実。
「ッ…おい、結城!」
何故、お前は、そんなことを。
現実と夢の境目、記憶の逆流に苦しむ成一はその逃避手段として結城紅葉の存在を思い出す。
彼女こそがこの混乱の原因。彼女の問いかけこそが原因。
ならば彼女は何かを知っている。筈なのだ。
自分では現実と夢の境目を判断できない。ならば、彼女は。彼女ならば。
「え…」
しかし、彼女は既にこの場にはいなかった。
残っているのは僅かに届く昼休みの喧騒と小さく控えめな足跡のみ。
立ち去るなら立ち去るで何か気配の変化を感じても…そう考えるが、他人の気配を察することができるほど余裕のある状態ではなかったことを思い出す。
同時に、先ほどまであれほど頭の中を圧迫していた記憶の暴走が収まっていることに気が付く。
断片は既に頭の中に無い。何が起こったか、大まかにも思い出すことができない。
それでも覚えていることが一つだけ。
「扉」
何処かの路地裏にあった淡く、そして妖しく光る扉。
そこに何かがある。そこで何かがあった。
あまりに非現実的な馬鹿げた話。しかし、その扉を潜ったという記憶には現実の重さがあった。
…今日も扉は存在しているのだろうか。
チャイムの音が鳴り響く。
気が付けば昼休みは終わり、次の授業までの五分の準備時間へと入る。
「…急ご」
この通りが校舎からさほど離れていないと言ってもゆっくりもしていられない。
直ぐには無理でも、問いたださなければならない。
結城、お前は何を知っている?