第一打目:メルヘンと気違いは紙一重(プロローグ:起点編)
戦い始めたのは何時からだっただろう。
俺の親父―既に死んでいる―が習得していた空手、のような格闘技。
確かに特徴や基本は空手のソレだったが、細かい部分には差異があったと思う。
というか空手と銘打っている癖に他の格闘技の技術を平気で取り入れてあるという時点で厳密に「空手」と呼ぶことは出来ないと思うのだが、それでも親父は空手と言い張った。
「強者の基本は空手だ」とは親父の口癖だったか。
俺は小さい頃から親父にそんな空手モドキを叩き込まれた。
体や技術だけではなく、しっかりと武術を修める者の心も。
強いからこそ、力の使い道は選ばねばならない…その言葉も今は遠い。
幼い頃の精神教養は無駄に終わり、俺は自身と世間の正義の為に他者を叩きのめす凶者となっていたのだから。
その扉を潜ったとき、まず感じたのは違和感。
それはあまりに不思議な感覚で、言葉に出来るようなしっかりとしたものではなくて…「扉を潜った」という事実が体に刻み込まれているのに、その感覚を頭が理解することができない。
気持ち良いわけでも気持ち悪いわけでもない、ただただ何かが変だという認識だけが広がっていく。
次に感じたのも違和感。
しかしその違和感はただただ抽象的で不可解なだけのさっきのものとは違う、周囲を見渡してみて感じた、今度は体ではなく頭が明確に感じ取った。
路地裏にあった妙ちくりんな扉を潜った先はやっぱり路地裏。扉を潜る前から見えていた光景。
しかし同じだったのは形だけ。
路地裏を作り出しているビルの群れに光が無い。
ゲームセンターを出たのが19時にも満たない時間で、この場所に至るまでそこまで時間は経っていないのだから…少なくとも19時前か19時過ぎか、少なくとも都会の光であるビルの照明が落ちるような時間ではない。
それが一つや二つなら納得できたかもしれないが、この路地裏から見えるビル全て光を失っている。
そして次に気が付くのはビルの光と共に闇を削っていたカーライトが目に入らないこと。疑問を抱いて路地裏を飛び出すと、今の時間が日付が変わった深い夜であるかのように車の姿を見かけない。
目が慣れれば次は耳。光と共に喧騒すら失われている。
けれどこの異常な光景に「闇」を感じないのは何故か…そう思ったところで空を見上げ、凍りついた。
月がある。月だ、あれは月。「あれら」は月だ。
月が五つに増えていた。
「…スモールグール?」
増えたモノに対する感想としてはかなりズレたものだとは思うが率直にそう思った。
そして五つの月は成一の見知った月とはまた違うものだった。
五つの月はそれぞれ異なる色をしており、赤、青、緑、茶の月が一つだけ大きな銀色に輝く月を囲っている…しかも普段見ている月のサイズとは違い、まるで大気圏の内側に存在するかのごとく月が大きく見える。
ここまでカラフルなら月であると判断する前に別の光源か何かと勘違いもしそうだと考えたが、目を凝らさずとも無数の歪なクレーターに覆われた表面が確認でき、それが五つの光源を「月である」と判断させる。
そして五つの月に目が慣れれば、今度は空全体を眺める。
都会の夜空は黒く濁っている筈なのに、今の夜空はまるで月という宝石を使ったアクセサリーを装飾するかのように、写真でも見たことが無いほどの星の海で輝いている。
地上の光は無く、ただ天の光が夜を照らす。
「…凄いな」
成一自身「もっと気の利いた感想は出てこなかったか」と後悔するくらいにシンプルな言葉。
しかしこれほど美しい光景を成一は見たことが無い。己が目でも、テレビや雑誌の複製でも。
幻想的と評することすら陳腐に考えられてしまうようなその光景に、確かに心を奪われている。
その扉はひたすら怪しかった。
逃亡中の殺人犯くらいしか好んで通りそうも無いような薄暗く薄汚い路地裏に立っている。
何故かぼんやりと青白い光を放っている。
極め付けは、注視しなければ分からないほどだが…僅かながら浮いている。
勿論成一はこの光景を夢だと疑った。二年前から感じている過去からの抑圧も、一年前から感じている現実からの圧迫も、先のゲームセンターで思い出したかつての感覚も、それらの確かに感じていた感覚すら朧気になってしまうほどに現実感の無いシュールな場面。
しかし、不思議と扉の放つ光に魅かれる。
直ぐに魅かれる理由が現実逃避だと気付き自己嫌悪、それでも扉に魅かれる自分を止めることが出来ない。
夢なら自分の意思でどうにかできることじゃない、そう思えば一人歩きする自分の心にも少し納得できる。
金色のドアノブを掴む。金属のドアノブ特有の冷たい感覚は無い。
ドアノブを掴んだ手を時計回りに捻る。抵抗は無い。
押すか引くか一瞬だけ迷い引く。キィ、と付いてもいない蝶番が軋む音が聞こえる。
そして開かれた扉の向こうには………裏路地が見える。
だが何故か落胆は無かった。
「扉を潜れば分かる」
何が分かるのかは分からない。しかし不思議な確信があった。
いっそのこと、この扉が異世界への入り口あってくれればいい…そうとまで考える。
未だに成一はこの一連の出来事を夢だと疑っておらず、この夢での行動を現実逃避と開き直っている成一に思考のリミッターは存在しない。考えるまま望むままに行動するだけ。
だが扉を潜った時の違和感が、夢と信じ鈍っていた成一の五感を覚醒させる。
そして判断する…この扉は、現実のものだった。現実のものであってしまった。
だがほんの数分前のそんな思考も今の成一の頭の中には存在しない。
何時もと違う街と空の風景を、ゆっくりとした歩みで楽しんでいる。
葛原成一は変革を望んでいる。過去と決別するために、現実に打ち勝つために。
しかし「望んでいる」というだけであって本来最も必要である筈の本人の努力がそこには存在しない。
成一の望む変革とは「努力せざるを得ない状況」になってくれること。
自分の心情や状況に関係なくそうせざるを得ない拘束力を発生させてくれる変化。余計なことを考える暇の存在しない何もかもが行動と衝動で埋まってくれる日常への渇望。
閉塞された状況から抜け出すには相応のエネルギーが必要であり、今の成一には決定的に欠けている部分。だからこそ成一は変わってくれることを望みながらもその場から動けないでいる。
しかし天は自ら助くる者を助く。歩かない者の周囲の風景はそう簡単に変わるものではない。
そしてこの異界の風景は成一に変革を促すような性質のものではなかった。
しかし常に心と頭と内臓を蝕む過去と現実からの抑圧を忘れることができる、それくらいにはエネルギーがあった。
あまりに非現実的なこの状況に、成一は感動を覚えている。
暫く歩いて気が付いたことが一つ。
ここには人の気配が全く無い。
かつての成一は一歩間違えれば命の奪い合いになってしまうような殺し合い手前の喧嘩など日常茶飯事であり、そういった状況では五感だけでなく第六感とも言える直感という不確かなものでさえ総動員しなければ無事には帰れない。
結果として成一は静動問わずモノの気配に非常に敏感になった。
その感覚を持ってしても人の存在を感じ取ることが出来ない。
本当に遅い時間帯ならばそれもあるかもしれない、しかしここは「人の居た形跡」すら感じ取ることが出来ない。それは直感や感受性の類で感じ取るものではなく、目に見える確実な光景として認識される。
天から降り注ぐ光だけではここまではいかない。
道路も、歩道も、ビルも、木も、何もかもが生まれたてのような美しさを保っている。
きっと誰も触れていない、触れないようにしなければこんな状態は維持できない。
人が作った領域でありながら人の関与が見て取れない、これもまた異界故か。
しかし成一の中では既にここが異界であろうがなかろうが、夢であろうが現実であろうが関係なくなっている。
ここが一体何なのか、そもそもここから抜け出すことができるのか、それすら頭に無い。
時間が許す限りこの世界に抱かれていたかった。
轟音。
鈍く地の底から這い上がってくるような不気味な振動と甲高い何かが割れるような振動。
その二つの波形から成一はその轟音を爆発音だと判断する。
「爆発音?」
あっさりと辿り着いた自分の結論へ新たに疑問符が貼り付けられる。
何故爆発が。そもそもまだ爆発音だと決まったわけでもない。
少なくともこの場には感じられないが、他の場所には人がいるのだろうか。
火の無いところに煙は立たないという。ならば何も無いところに音はしないというものだろう。
この異界は、ただそうあることだけで成一にとっては十分な世界だった。
だが何かあるというのならば見てみたい。この異界のことをもっと知りたい。
最早成一の頭の中には現実や日頃の抑圧など影も形も無い。
再び轟音。
今度は腹の下まで良く響く。さきほどよりも音源は近い。
爆発が…その原因が、動いている?
それは生き物なのだろうか。
だとすれば、こんな世界に住まうのはどんな生き物なのか。
人か、そうではないのか。
衝動に駆られるまま足は音のした方向へと向けられる。
それが自身の望む変革に近いものであると成一は気が付かなかった。
無残だった。地面は砕かれビルには穴が開き電柱は折れていた。
それが爆発であったかどうかは分からないが、そのくらいでないとここまでの破壊は不可能だろう。
バチと音を立てる電線にビクリとしながらも、成一の目と感覚は音源を捜す。
人の居ない場所の電線に何故電気が走っているのかまでは頭が回らないのは、それほど成一の頭の中が熱くなっている証拠である。
しかしこの惨状は何だ、まるで戦争が起こったようではないか。
如何に自分が変革を望んでいるとしても戦争が起こってほしい、とまでは思っていない。
重要なのは「まるで戦争でも起こったかのような破壊痕がこの異界に存在する」という事実。
『何か』ある。『ここ』には絶対に『何か』があって『誰か』がいる!
正体も何も分からないから『何か』『誰か』と抽象的な表現をするしかない。
理解できないものが近くにあるかもしれないということが…嬉しくて溜まらない。
そうやって興奮が最高潮に達しようという時だった。
成一は弾かれたように上空を見上げた。扉を潜った時のような違和感を、空に感じた。
異界の夜空は相変わらず五つの月と星の海が美しい。美しいが、成一の視線は一瞬で夜空から銀色の月に浮かぶ黒い影へと移る。
真っ黒な、太陽の黒点のように見えたのはそれも一瞬。どれだけ綺麗でも夜を削りきるにはあまりに淡い星月の輝きは、月を背に空を飛ぶ人間を黒で覆い隠すには至らない。
そう人間だ。人間が飛んでいる。
流石に遠く、顔は愚か性別すらも判断は出来ないが人間であることは分かる。
…何となくそのシルエットが普通ではないようにも見えるが。
怪しい扉の向こうには月が五つ。星の海。人の気配は無く、汚れが無い。
そんな世界で存在した人型―まだ人であるとは分からないから―は空を飛んでいる。
益々異界という名称が似合ってきたではないか。
如何に非科学非常識に触れ続けたとはいえ新たに出現した非常識に対してあまりに落ち着いた自分の反応に、成一は頭の片隅で「自分の頭は壊れているのかもしれない」と疑い始めている。
影がほんの少し動いた。チラリと人型がこちらを見た気がする。
動揺した。自分ではなく、空に舞う影が。
先ほどと変わらずこちらからは相手の顔も性別も分からないが、影の挙動は明らかに動揺し混乱した者のそれだった。
やはりこの世界に人は存在せず、その世界に人が紛れ込んだという現実を確認して混乱している…といったところだろうか。ならばあの影は人型であって人ではないということなのだろうか。
そしてあの人型が先ほどからの爆発音、そしてこの破壊痕を生み出した本人なのだろうか。
轟音。
今度は何かを挟んだような間接的な振動ではなく、足元が覚束なくなるほどの…否、三半規管を激しく揺らすこの振動は確かに音。だがバランスごとこちらの体を持って行こうとするこの振動は音ではなく、単純な「衝撃」である。
何故ここまで断言できるのか、それは今回は音源がハッキリしているから。
音の壁にぶつかったかのような凄まじい音に耳鳴りが続いて、頭の中が否応無くかき回される。
しかし後頭部や側頭部を殴られるよりはマシだと体を向ける。再び違和感を感じた、その方向へ。
その違和感は扉を潜った時、空飛ぶ人型を見つけたときとは比にならない。
違和感の主は熊の体、鶏の頭、そして巨大な猿の腕を持った異形だった。
見た目からして違和感…というレベルではない疑問を感じるだろうが、成一の頭の中を占めるのは目の前の異形に対してザラつき粟立つ自分の精神状態。
何故あんなものが存在している。
見た目が異常だからではない。理性ではなく本能があの異形を否定している。
あんな、ものは、存在、しては、いけない。
熊鶏猿と目が合った。一瞬で精神だけでなく肌まで粟立った。
ニ秒ほどでこちらの姿を確認した熊鶏猿は姿勢を低くこちらへと走ってくる。ヤベぇ速ぇ。
息を吐く暇も無く熊鶏猿が腕を振り上げ、届く筈も無い距離から右腕をフルスイング――
「畜生忘れんじゃねぇよ!!」
思わず叫びながら体を仰向けに倒す。相手の腕の異常な長さと太さは最初に確認済みだった。
明らかに体の大きさとバランスの合っていない長大な右腕は、ただ力任せに振るうだけでスピードも威力も出ない筈の無駄な攻撃を信じられないような速さで繰り出し、咄嗟に倒れこんでその一撃を回避しよう試みた成一の前髪数本と周囲の空気を巻き込んで今まで聞いたことの無いような出鱈目な風切り音を生み出し、その勢いに振り回されてバランスを失ったらしい熊鶏猿がマヌケにも地面に転がった。
巨腕が己の目の前を通り過ぎていった後、全ての動きがスローに感じられる。
もう何十秒も経過しているように感じられるのに未だに倒れこんだ自分の背中が地面に辿り着かない。
まともに喰らえば死んでいたかもしれない…そんなことを考えた途端、下半身の筋肉と涙腺が緩む。
それを感じ取った瞬間に背中が地面にぶち当たる感触、そこから走る痛み――後頭部が地面と衝突する寸前に両手を地面に叩きつけ、肩を支点に勢いそのまま頭を両腕の間に潜らせるように体ごと回転、そのままバック転の如く両足を地面へ着けた。
地に足が着いても勢いは死にきらず重心が安定せず転びかけるがなんとかバランスを取る。
畜生チビりかけた。
永遠にも感じられた一連の動きだが実際に経過した時間は一瞬、成一が体勢を整えても熊鶏猿は未だに地面へと転がったまま。
一瞬安堵しかけるが相手の初弾を避けただけ、事態は好転してはいない。
相手のスピードと間合いを考慮、逃亡は不可能。
ならば死中に活。打倒できずともダメージを与えれば、或いは。
相手の正体は分からないが生物であることに変わりは無い筈。ならばやれないことは無い。
成一は覚悟を決めると左足と左手を前に中段の構えを取る。
これがグローブ付きの試合ならばボクシングでよく見るガードを上げたオーソドックスな構えを取るが、裸拳相手の喧嘩をすることが多かった成一は正面から止めるガードよりも横からいなす、もしくは避ける受けを重点的に使っていた。
それに熊鶏猿のあの異常な腕…ガチガチに固めても、まともに腕で受ければ両腕共に粉々になるだろう。
ようやく立ち上がろうとする熊鶏猿。尻目に呼吸を整える成一。
二回の深呼吸で恐怖と興奮で硬直しかけていた筋肉がほぐれる。体の全感覚が目の前の異形へと集中する。
如何に力が強かろうと相手は一匹、集中すれば――!
なんとか立ち上がった…立ち上がりかけた熊鶏猿。攻め込むには絶好の機。
前傾した姿勢、全速力で相手の懐に飛び込む。
熊鶏猿が猛スピードで向かってくる成一の姿を確認した頃には、既に間合いの中。
その腕は長大過ぎる故にリーチが長く、リーチが長過ぎる故に接近戦には弱い。
互いの足と足がぶつかろうとするほどに近く、強く踏み込む左足。それを支点に回る足首、膝、腰、肩、それより先の手は強く固められた左拳。
迎撃…を行なうには近すぎる。それを認識した時、成一は回転する独楽。
しかし回転し切る前に凶器と化した拳が、鈍い音と共に熊鶏猿の左脇腹に突き刺さった。
成一の拳に返ってきたのはなんとも言えない感覚。
固いような柔いような、少なくとも今まで叩いてきたどんな人間の腹とも違うということだけ分かる。
そして今重要なのは曖昧な感覚に付いてではなく、僅かでも動きの止まった相手のこと。
そう、相手の動きが止まっている…程度は分からないが、効いている。
機。逃がせない。
突き刺さった左拳を腕ごと引き、今度は右。
ボディブローが有効打となるほどの近距離では中段突きや上段蹴りなどのある程度距離が必要な技を放つことはできない。故にかつての百戦にて培った練磨の状況判断能力はこの場で最も有効な打撃を判断し、実行する。
踏み込んだ左足が踵を支点に半転、そのまま左足に全体重を預けるかのごとく低く自らの体を落とし……右腕だけが高く、縦に振り下ろすような大振りの一撃の姿勢となっている。
相手が人間ならば顎先を捕らえるようにショートアッパーを撃っているところだが、生憎相手の顔には叩き易そうな顎は存在しない。ならば顔面を潰してやればいい…さっきのボディが効いているのならば、直撃すれば距離を稼ぐ程度の隙は生まれt
衝撃痺俺の体浮いて何が起こって――
突然訪れた『何か』によって頭の中がゴチャゴチャと落ち着かず、考えを整理する前に背中が強かに何かに叩きつけられた。
また衝撃。一瞬で全身を駆け抜ける稲妻か電流のような痛み。
一瞬とは言えどあまりの痛みの大きさに意識が飛び、視界が白く染まる。
だがそれも一瞬。しかし一瞬の痛みが治まれば鈍い錘のような痛みが背中から伝わってくる。
痛い痛い痛い痛い痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛畜生。
叩きつけられたのがビルの壁で、指一本も動かすのに難儀するくらいのダメージを負っていると確認したのと同時。痛みでぶれる視界の先に腕を押し出すように振り切った姿勢の熊鶏猿が見える。
確かにあの場で長大な腕を持つ相手にまともな攻撃など望めなかったろう。故にこの場合は押し出すようにして距離を取るのがベストと言えなくも無いだろうがこんな結果は出鱈目で反則。
第一押すにしても距離が無ければ100%力を出し切れないのは同じ筈。なのにこの結果。
異界にいた異形は、異界の異形らしく異常な力を持っていた。
結局ボディは効いていなかったのか。それともさっきのは苦し紛れの一撃だったのか。
少なくとも、こちらの姿を確認してゆっくりと迫ってくる相手の姿からは何も読み取れない。
相手が人間なら痩せ我慢か本当に効いてないかの判断には自信があったのだが。
そう、自信があった。
指程度は動かせるようになったが、未だに足先がこちらの命令に反応すらしない状況では逃げることなど叶わない。そして相手に『その気』があろうとなかろうと、あの巨大な腕の一撃をまともに食えば骨ごとミンチ肉60数キログラムの出来上がり、というわけだ。
俺は、多分、死ぬ。
なのに、何も感じない。
「あぁ死ぬのか」と漠然と感じるだけで、胃に少しだけ重さを感じるだけで、他には何も無い。
寧ろ、さっきは何を必死になっていたんだろうと言う思考すら浮かんでくる。
おかしいな。俺はもっと何事にも執着する性分じゃなかったっけ――?
それも昔のことだ。
己の問いに己で答えた時、そういうことだったかと納得した。
今の俺には生きることに執着する理由すらないことに。
今更二年前に失くした自分の欠片がどれだけ大きいものだったかを思い知った。
最後の最後に、こんなに良い景色を見れたんなら上出来か。
成一は空を見上げ思う。
宝石みたいな五つの月と夜の黒を削る数多の星の空。
なんとなく、生まれ変われるならあの空の中のどれか一つになりたい、そう思った。
熊鶏猿が地面を蹴る音が聞こえる。
視線を上から前へ戻すと、異形がトンでもないスピードでこちらに向かってくるのが見えた。
目を閉じようかとも思ったが、どうせなら最後まで異常な連中のことを見つめていようかと思いが勝った。
これが俺の見る最後の景色。異形の異様な腕だ。
熊鶏猿はまたも距離感の狂いそうになるようなところから腕を振りかぶった。
そうして、異形の異様な腕が異常なスピードで俺の顔面を――
爆発した。
何が爆発って目の前が爆発した。
俺の顔が爆発したかと思ったがじゃあなんで俺は生きてるんだ。
同時に巻き起こった爆発音は服から周囲のビルから何もかも揺るがせるような大轟音だった筈なのに、振動する鼓膜に痛みや不快感は無く、まるで最高のヴァイオリンで最高の音楽を奏でる最高の演奏者の……途中まで考えてあまりに似合わない喩えを止めた。
とにかく不思議な音。大き過ぎる音なのに何も阻害しない。
しかしそんな音の余韻に浸る暇も無く、今度は間違いなく不快な金切り声が聞こえる。
耳を塞ぎたかったが、今の自分は腕を上げることすらままならない状態であることを思い出した。
金切り声の主は――熊鶏猿だ。
何故突然爆発した?
考えを巡らせようとして、上に違和感を感じた。
それは、月を背景に空を飛んでいた人型の気配。
そしてその違和感が移動するのを感じ…目の前に人が降り立った。
違和感も、目の前に移動した。
目の前の人型は…少女の形をした人型の姿に成一は絶句した。
「フリフリヒラヒラとあまり露骨なわけじゃないけど鮮やか艶やかじゃないけどメルヘンメルヒェンでその色彩はなんだろう綺麗なんだけどそれを着るっていうのは勇気とかのレベルじゃなくて羞恥心あるのないのどっちなの寧ろお前世間体とか周りの目とか気にしたことあるのっつかその手にした装飾棒は一体何かしらステッキかステッキなのか畜生め」
混乱しているのは自覚している。
空を飛んでいたのは少女。
その姿は、子供の時分にテレビの中で目にした魔法を使う女の子。
目の前の人型は、それとまるきり同じ空気と衣装を纏っていた。
夜空が輝く異界。
爆発で起きた火で燃え盛る異形。
金切り声が響き続ける中、目の前で怒っているのは異常。である。