双竜の自切
「あ、尾雲」
初夏の日差しが未だ眩しく照りつける放課後。
冷房の効いた相談室の窓越しに、わたしは――先立喜多莉は空に描かれた白線を眺めていた。
巨竜が羽ばたくたび、翼端に生じる渦で空気が急激に冷やされ、凝結した水蒸気が白い尾を曳く。
竜自体の希少性と数分で空に溶け消える性質が相まって、見た者には幸運が訪れると子供の頃は誰しもが純粋に信じていた。
「近くに巣があるのかな。あ、そうだ」
わたしはトートバッグから端末を取り出し、記念に一枚収める。
都会の学区では滅多に見られない光景。他の訪問先の子達への良い土産話になると思った、その時だった。
コン。コン。コン。
均等な間を置いて、ノックされる相談室の扉。
わたしは背を伸ばし、圧迫感がない程度にブラウスの襟を正した。
「はい。どうぞ~」
「失礼します」
ガラッ、と、開かれる引き戸。
軽い会釈と共に、紺のブレザーを着た女生徒が入室する。
「こんにちは。喜多莉先生」
「やっ。後藤さん。来てくれてありがとう。とりあえず適当に座ってよ」
わたしは右手で椅子を指し「どうぞ」と着席を促す。
テーブルの上に置かれた、個包装のクッキーやチョコレートが詰まった丸い菓子鉢を、そっ、と少女の前へ滑らせた。
「今日はカフェオレと紅茶があるけど、どっちがいい?」
「じゃあ……カフェオレをお願いします」
「了解っ。ちょっと待っててね」
相談室に備え付けられた小型冷蔵庫から、朝方に入れた未開封のペットボトルを取り出す。
学校備品の紙コップに注ぎ、テーブルに運んだ。
「いただきます」
黒いセミロングの彼女は、ぺこりと頭を下げると両手で覆うようにコップを持ち、少しずつ口に運んだ。
「ごめんねぇ。放課後に呼び出しちゃって。他の生徒がいる時間にするにはちょっとデリケートな話でさ」
「大丈夫です。先生と話すの楽しいから」
「あはっ。嬉しいこと言ってくれるじゃないの。褒めたってこれ以上お菓子のグレードは上がんないよ~」
わたしは、少女の向かいの席に座る。
待つ合間に進めていた事務書類をひとまず脇へ置こうと、広げた紙をまとめた時だった。
少女の――後藤浮希さんの視線がテーブルに置いた端末の液晶画面に落ちる。
「喜多莉先生、その写真……」
「ん? ああ、さっき、ここから見えたの。立派な尾雲だよね」
わたしは、後藤さんが手に取りやすいように端末の向きを回した。
後藤さんは、指で画面を拡大し、雲の切れ端をじっと観察する。
「これ、双竜ですね」
「え、分かるの!?」
「雲が僅かに螺旋形を帯びています。大きく広がった翼の羽ばたきで発生した時の特徴です。双竜は細い首に対して胴が膨らんでいるため、飛び立つのに大きな揚力を生み出す巨翼が必要ですから。……あと、微かにですが尾雲が波打ってますよね」
「う~ん? そう言われると少し……」
「左右の翼の羽ばたきに規則性がない証拠です。双竜じゃないとこの形状は生まれません。体の主導権が曖昧だから少しだけブレるんです。ほら、頭が二つもあるから」
「へぇ」
「どっちかの頭に主導権を委ねれば動きのちぐはぐさも無くなって、もっと早く、長い距離を飛べるんですが、もう片方の首が譲らないんですよね」
後藤さんは饒舌に語りながら、左右それぞれの手で双竜の頭を模してジェスチャーする。
わたしは、ただただ感心した。
「凄いねっ。後藤さん。博士みたい。勉強が得意なのは知ってたけど、びっくりしちゃった! 竜のこと好きなの?」
「子供の頃に本で読んだのを覚えていただけです。別に……大したことありませんよ。こんな話、喜多莉先生ぐらいしか聞いてくれませんし」
後藤さんは、照れくさそうに肩を縮こまらせる。
「あの、ところで話ってなんでしょうか?」
「あ、そうだったね」
今日の訪問の主目的を思い出し、わたしは改めて座り直した。
はしたなくない程度に背中を丸め、顔の高さを後藤さんの目線に近づける。
顔色を窺おうとはしない。人の表情は本人が思っている以上に物を語る。感情を覗き見ようとする時、その気配はなんとなくでも相手に伝わった。特に感受性の高い子は、試されていると感じてしまい、萎縮し、心を閉ざしてしまう可能性もあった。
後藤さんとは、週に一度の訪問相談室でやり取りをして一年ほどの関係性。
こちらの想像以上に慕ってくれてはいるが、人と人の繋がりは一本の紐。どれだけ固く結んだところで、言葉の刃先が触れればいともたやすく切れる。
スクールカウンセラーとして、生徒の心に不用意に踏み込むのは避けなければならない。
わたしはできる限り自然な仕草で、けれども不穏な兆候は見落とさないよう気は張りつつ、慎重に話を切り出した。
「後藤さん、まだ"前世診断"受けてないよね」
ぴくん。黒く澄んだ瞳孔が小さく揺れる。
コップの中の水面に波紋が生まれた。
後藤さんは、胸前に垂れ下がった髪を手でかき分ける。
黒髪の裏側、赤く変色した肌に、爪先を突き立てようとした指を、わたしは腕を掴んで止めた。
「跡になるよ」
ハッと開いた瞳と目が合う。
わたしは、隣の席に掛けたトートバッグから、チューブタイプの保湿クリームを取り出し、手渡した。
「ごめんなさい。つい……癖で」
「ん、わかる。わたしも子供の頃よく怒られてた。でも、最近乾燥してきたし、気をつけよ?」
後藤さんは、こくんと頷くと、遠慮がちにチューブを絞り、手のひらに乗せたクリームの小山を首に塗り込んだ。
「多分、学校から催促されたんですよね。診断を受けてないの私だけだから。ごめんなさい……。私のわがままで喜多莉先生のお手を煩わしてしまって」
「わたしのことはいいの。伝えて欲しいって言われたのは事実だけど、焦らなくていいんだよ。タイミングは本人の自由だから」
「けど、卒業までには受けないと駄目なんですよね?」
後藤さんの問いかけに、わたしは無言で頷く。
少し悩んだが、生徒に嘘は伝えられなかった。
――高度に発展した科学技術は、脳の最大の神秘。すなわち、魂の解析を可能にした。
輪廻転生が立証された世界で、人は前世で犯した罪を、魂の穢れとして観測する。
世界主要国家は、己の魂の穢れを知覚するよう成人年齢に達する自国民に通達。"前世診断"の受診を義務付けた。
「準近代史の授業はもう受けてるよね?」
「はい。人の罪深さを自覚してなかった旧民は、世界規模の大戦を三度も引き起こしてしまったと。テロや環境汚染も酷かったと聞いています」
「まるで映画やゲームの中みたいな話だよね。当時の人達は誰も自分の前世を知らなかった。心の痛みを知らなかったから、他人を憎んだり、騙すことに全く抵抗がなかったの。ようは悪いことをしちゃいけないってストッパーが緩かったんだよね」
魂の循環が公になって、世界の平均犯罪率は二割ほど減少した。
人は生まれながらにして罪を背負った存在である。
前世で善行を働いた者は来世で報われ、逆に悪行を働いた者は相応の重荷を背負う。前世の存在が明らかになり、元々、宗教的な思想として広く浸透していた、所謂『因果応報』が確たる支持を得た。
前世で犯した罪を知り、悔やみ、来世の自分のために贖罪を行う。大多数の人間がそのように慎ましく生きれば、誰も罪を犯さない、大きな争いのない平和な世界が現実のものとなる。――現在の社会システムを創造した偉人の言葉だ。
平和を拒む人間など、まずいない。故に、前世診断を拒絶する世論の声は少なかった。
脳研究の発展と医療技術の向上によりリスクなど殆どないが、一応は脳の記憶領域に干渉するため、脳が発達段階にある14歳未満の受診は法で禁じられている。それでも、この国では98.6%の子供が解禁年度に受診するのが一般的だった。
後藤さんのような子供は少数。だから、集団でも浮いてしまう。
「怖いよね。でも、必要なものだってことは理解はして欲しいな。前世を知ることはきっと後藤さんのためにもなるから」
怯える子供に、教科書通りの定型文を殆どそのまま語る、そんな自分をほんの少しでも情けなく思わなかったかと言うと嘘になる。
仕方のないことだから。
皆に迷惑がかかるから。
だから、分かって?
寄り添っている風で、諭すように、わたしは都合のいい言葉を続けた。
「先生は」
「ん?」
「喜多莉先生の時は、どうだったんですか? 怖くはなかったですか?」
「う~ん。1%も抵抗がなかったかって言われるとそんなことはなかったよ。でも、クラスの友達が受け始めてすぐに受けたかな」
「仲間外れにされるのが怖かったからですか?」
「うん。ごめんね。情けない理由で」
「あ、いえ……! そんなつもりじゃ……」
「ふふっ、特別悪いことはなかったと思うよ。クラスのいじめっ子は大人しくなったし、授業中騒いでた子達も静かになった。でも、皆がロボットみたいな真面目ちゃんになったってわけでもなくて、友達とは普通に遊んだり、ふざけあったりしたよ。後藤さんのクラスメイトにも人にしつこく意地悪してくる子はいないでしょう?」
「……昔と比べて平和になったとは思います。浮いてる私のことをわざわざ揶揄ったりはしませんし。ただ、少し息苦しいとは思います」
「……そっか」
受けて良かったとは言わない。言えない。
事実、目に見える不利益など、一つもなかった。自分も他人も急に大人びて、分別がついた。それだけのこと。
――ただ、その変わりようが不自然で、少しだけ気味が悪かった。たった、それだけの個人的な感情で、この非の打ち所がない世界を否定できるほど、わたしは強い自我を持てない。
でも、それでも、目の前で思い悩む少女の味方になってあげたいと、無責任には思ってしまう。
蝉の鳴き声が騒々しく響き、なかなか答えを示せない。わたしの沈黙を埋めてくれる。
わたしは少し考えた後、迷いを呑み込んで、口を開いた。
「――前世のわたしはね。自殺したんだって」
「え」
「そういう診断結果が出たってだけで殆ど記憶はないんだけどね。でも、実感はあるんだ。こう見えて、わたしの魂って結構罪深いんだよ」
後藤さんは今日一番に目を泳がせる。
周りの空気が一瞬にして凍り付いたように、口を開いて固まった。
魂の輪廻は科学的に証明された。
魂の穢れは、健全な命の循環によってのみ濾過される。そのサイクルを断ち切る自死は輪廻に反する大罪とされていた。
前世の罪がいかなるものであろうと、今生では裁かれない。けれど、後ろめたさから己の罪を公表する者はいない。罪が重たければなおのこと。愛し合う恋人や家族同士でさえも互いの罪を詮索すること自体タブー視されている。
それでもわたしは告白した。心臓が破裂しそうなほど激しく脈打つ。頬の筋肉が麻痺したように感覚がなくて、ちゃんと涼しい顔を作れているか不安だった。
「どう、して……」
「わっ、ごめんごめん。びっくりさせちゃったよね。驚かせたかったわけじゃないの」
わたしは大きく手を振って、後藤さんを、そして、自分自身を落ち着かせる。
慌てふためく拍子で身体を揺らした時、視線の端は窓の外を捉えた。とうに空に立ち消えた尾雲の影が思い浮かぶ。
「そうだ……竜」
「え?」
「後藤さんの方が詳しいと思うけど。竜の魂って水みたいに澄んだ色をしてるんだって」
「……聞いたことはあります」
未だ空に力強く残る、尾雲を指さす。
白く伸びる雲。その先にいるであろう、本物の竜の姿を想像した。
「初めて自分の魂の罪を知った頃、罪悪感で潰れてしまいそうだった。そんな時に竜の魂のことを知ったの」
高名な学者曰く、数世紀を超えて生きる竜は、そもそも穢れという概念が存在しないらしい。
もちろん、竜だって命ある生き物だ。
獲物を狩ることもあるし、縄張りを巡って争うこともある。
人間の尺度で見れば、決して善なる存在という訳でもない。
人並の知能を持つとされているが、彼らの魂に罪は観測されなかった。
長寿ゆえに他の生物と魂のサイクルが違うから。はたまた、最も神に近しい生物だから。
いくつかの所説はあるけれど、未だ、推察の域を超えていない。
「わたしはさ、この世界で竜が一番自由だからだと思うんだ。醜い人間と違って、自分の魂がどれだけ綺麗かなんて気にしてないんだと思う」
「……」
「だって、最初から穢れてないんだから」
人は何かを得るために生きている。竜はただ生きるために生きている。そんな竜を縛るものなどない。
竜の生き方が、昔のわたしには酷く眩しかった。
「初めは羨ましかった。でも、すぐに諦めがついた。『ああ、そっか、わたしはアレにはなれない』って」
わたしは尾雲の切れ端に手を伸ばす。握った拳は当たり前に空を掴んだ。
竜になりたい。そう望んだ時、既にわたしの魂は自由ではなかった。
誰も知らない、あの日の小さな絶望が、わたしを本当の意味で大人にした。
「完全な魂の浄化を目指すのが、国の定めた輪廻転生の理念なんだけどさ。わたしはね、そんなの不可能だと思ってる。人である以上、穢れのない魂なんてきっと存在しないから」
正しい道を示すべき教員として失格の発言。
それでも、わたしは言葉を続ける。ほんの少しでも後藤さんの心の重荷を軽くしてあげたかったから。
「後藤さんの魂がどんな罪を背負ったとしても、後藤さんは後藤さん。今ここにいるあなたが、何を考えて、何を選ぶのか。それが一番大事だと思うよ」
言葉にしてしまえば、ひどく当たり前のことだった。
前世診断が始まってから、何度も何度も繰り返されてきた綺麗な理屈。
人は過去ではなく、今を生きる存在である。
罪は受け継ぐものではなく、乗り越えるもの。
誰もが口にする正論。
でも、その正論を本当に信じられている人間が、果たしてどれだけいるのだろう。
「……先生は」
後藤さんが、ぽつりと呟く。
「自分の前世を知ってからも、普通に生きられたんですか?」
「……」
一瞬、返事に詰まった。
わたしはすぐに笑顔を作る。
「うん、大丈夫だったよ」
そう言えばいい。
嘘はついていない。
教師として、相談員として、それがきっと正しい答えだった。
「わかりました。ありがとうございます」
後藤さんは、顔を上げる。
彼女の眼差しは、少しだけ哀しそうだったが、真っすぐと何かを決意したような力強い目をしていた。
「あ、そうだ。今の話って、わたし達だけの秘密だよ。分かってるとは思うけど、前世の記憶って普通の個人情報より重いからねっ」
「わかっています。誰にも言いません。あの……今日はもういいですか?」
「うん? あ、もうこんな時間か。ごめんね。時間取らせちゃって。ああは言ったけど、焦らなくていいからね」
「はい。カフェオレ、ごちそうさまでした」
頭を下げ、後藤さんは相談室を後にする。
わたしの頼りない言葉が、ほんの少しでも彼女の助けになれたら良い。
そう、祈りながら、わたしはどこか寂しそうな背中を見送った。
次に、後藤さんと会ったのは翌週の訪問日。
日が暮れ、校舎の人気が薄くなってきた頃、今日はもう誰も来ないと思い、戸締りの用意を始めようとした時だった。
コン。コン。コン。
聞き覚えのあるリズムで相談室の扉が叩かれる。
「失礼します。先生」
「後藤さん? どうしたの。こんな遅い時間に……」
「これを」
後藤さんは、入室すると、挨拶も半端に、白封筒を胸に押し付けてきた。
のりでびっちりと閉じられた未開封の封筒。表面を見ると医療法人のロゴマークと名前、『診断報告書在中』と記載されていた。
数年前に見覚えのある封筒を見て、その中身が何なのか、私はなんとなく察する。
「後藤さん、もしかして……」
「中、見てください」
「はいっ!? いやいやいやいや、ダメだよ! 言ったでしょ。前世の情報は個人情報なんだって! 迂闊に人に教えちゃ――」
「先生ならいいです。秘密を教えてくれたので」
「あれは、やむなくというか……。あんなの気にしなくて大丈夫だから! わたし達の立場上の問題もあるし……!」
「見て欲しいんです。お願いします」
「ちょっと!?」
後藤さんは、わたしの手首を握りしめて、押し返す手を拒否する。
普段の大人しい彼女からは想像できないほど必死な力。
懇願するように頭も下げて、頼み込んだ。
――どうしても、どうしても見て欲しい。そんな想いが眩しいほどに心を打つ。もし、ここで拒絶したら彼女の大切な何かが壊れてしまう。そう、感じるほどに。
スクールカウンセラーとしての直感が『彼女を救え』と、わたしに訴えてきた。
「……わかった」
殆ど観念した思いで、後藤さんをなだめ、指を離すように諭す。
相談室の棚に置かれた用具箱からハサミを取り、後藤さんが見守る前で刃先を滑らせ、封筒の口を開く。
「開けてないけど。自分で結果を見てないの?」
「大丈夫です。なんとなく分かりますから」
混乱していた、わたしは、その言葉の意味が分からないまま、書類を取り出した。
『後藤浮希様 診断結果』そう、片面に書かれた二つ折りの冊子。ページの隙間に指を挟み、おそるおそる開いていく。
初めの主項目――魂の穢れの数値が記載された測定結果に、わたしは目を通した。
「え……」
呆気に取られた声が飛び出したのは、予想外の罪の重さに驚いたからじゃない。むしろ、逆だった。穢れの項目を詳細化した魂の構成情報、その横に記入されていた結果には、限りなく低い数値が並んでいた。
初めは測定機器の故障を疑ったが、全ての項目で計測に失敗したという天文学的な不自然さが、それを否定する。
この結果を鵜吞みにするのであれば、後藤さんの前世の魂は、殆ど罪を抱えてないと言ってもいい。
「知っていますか? 輪廻の時、穢れのない魂は濾過されないんですよ。普通は濾される記憶もほぼそのまま受け継ぐんです」
「後藤、さん?」
「『竜は自分の魂の穢れを気にしない』と、仰っていましたよね。その通りです。竜は罪を自覚できない。分からないから魂が穢れることもない。気持ち悪いくらいに純粋な生き物なんです。――だから、人間として生まれ変わった時、私はこのどうしようもないまでの胸の苦しみに絶望しました」
後藤さんは、赤く変色した首の肌に爪を立てる。掻き毟った指先に血が滲んだ。
雰囲気が変わる。まるで別人のように。
気づけば、わたしは、彼女の顔色を窺っていた。
「自切って知ってますよね? ヤモリやトカゲ。あと、タコやカニもそうですか。動物が生きるために自分の体の一部を切り捨てる生存本能のことです。竜も似たようなことをするんですよ」
「なにを、言ってるの?」
「私は双竜でした。片割れを切り捨てた卑怯者の竜です」
後藤さんは、さらに言葉を続ける。
瞬間、足元に穴が開いたように、わたしの脚の感覚が消えた。立っているのに体が奈落に落ちていく。
「まだ、人の世界が荒れていた頃の話です。密猟者の凶弾が私達を襲いました。片割れは私を庇って首を撃たれました」
「っぁ……」
首が、熱い。
もうとっくに日差しは引いたというのに、焼けた石を素肌に押し当てられたような逃げ場のない痛みが滲む。
「当たり所が悪かったんでしょうね。気道を潰されて、片割れは助かる見込みがありませんでした。さらに、体に残留した鉛の弾が溶け、
傷口から壊死していきました」
「くっ……!」
地面に広がる血だまりの記憶。
体に開けられた孔から、力が、熱が抜けていく。
「竜だった私に医学の知識なんてありません。ですが、本能的に理解したんだと思います。このまま左の首を放置すれば全身に壊死が進行し、腐り果てて死ぬと。だから、私は切り捨てました。自分だけが生き残るために、生まれた時からずっと隣にいた片割れを、まだ少し息があるわたしの首に歯を突き立て、噛み千切りました。何の躊躇いも、迷いもなく」
「ぐぅぅ、っ!」
潰れる肉。砕かれる骨の音。
首が、燃え滾るように熱い。
胴と頭がちゃんと繋がっているか、首を抱えて確かめる。
己の前世を告白した時よりもずっと痛々しく心臓が脈を打つ。
この記憶は、魂の底から呼び起こされるようなこの記憶は――
「もう、分かりますよね。喜多莉先生……いいえ、ヒダリ」
「ミギ……?」
自然と口からこぼれた、覚えのない名前。名前に頓着なんてない。ただ、お互いを識別するために付けた単なる呼称。
後藤さんと誰かの面影が重なる。
「どうして、こんなことになってしまったんでしょうね」
後藤さんは哀しげな目で呟く。
「いつから、知っていたの? わたし達がそうだって……」
「確信を持ったのは前世の話を聞かせて貰った時です。でも、初めて先生を見た時からなんとなく感じてはいました」
「……」
「魂の波長が合った……。なんて言うのは聞こえが良いですかね? 私は初めから前世の記憶を覚えていたから、周りの人達と関わるのが怖くて、でも、先生だけとは不思議と気軽に話せたんです」
後藤さんと出会ってからのこれまでの時間を思い返す。
わたしも、後藤さんと話す時は、他の生徒と話す時よりも心が通じ合っている気がした。
きっと、元は一つの生き物だったから、そう考えれば不思議と納得がいく。
「先生と過ごす時間は幸せでした。切り離した体の一部が戻ってきたみたいで……。あの時だけ、私は自由になれた」
「前世診断をためらっていたのは、わたしとの関係が変わってしまうと思ったから?」
「……赦されたくなかったんです。天寿を全うした竜の魂に穢れが無いことは知っていました。この罪悪感は私が人になった今世で手にしたものっ。痛くて、胸が張り裂けそうなほど苦しいけれど、でも、この痛みがあったから先生と繋がれた。これはもう私の一部なんですっ。例え、システムでも『あなたの魂に罪はありません』なんて言われたくなかった!」
悲鳴のような慟哭が相談室の窓を震わせる。
後藤さんのどうしようもない怒りと悲しみが伝わってきた。
人は罪を背負うことを恐れる。その重圧が苦しいものだと理解しているから罪を忌避する。
だが、罪を受け入れ、贖罪に尽くそうとする人間にとって罪は救済でもあった。
己の存在理由を真っ向から否定される。体の一部を取り上げられるような苦しみ。既に似たような苦痛を経験しているからこそ、後藤さんは前世診断を畏れた。
「毎日です……。毎日、夢で見るんです……! 私の歯が筋肉の隙間を抜けて芯を裂く感触が! 鱗が剥がれていく痛みが! 飛び散る血の匂いも! 体の主導権が解けていく感触も! ぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ……! 何も思わず、平気であんなことをしてのうのうと生きた私が赦されて良いわけがないっ……!」
黒い瞳を泣き腫らして、後藤さんは叫ぶ。
この苦しみだけは決して癒せない。仮に、わたしがどれだけ優秀なスクールカウンセラーだったとしても絶対に。そう、痛感する。
存在しないはずの罪を彼女は背負っているのだから。
後藤さんと違い、わたしには双竜だった頃の記憶はない。今も断片的な光景が蘇っただけで実感はない。
それでも感覚で、わたし達は元は一つの生き物だったと理解する。
わたしは私によって命を断たれた。わたしは自死したと輪廻は判断し、穢れた魂の烙印を押された。
それが、わたしの前世の罪の真実。
後藤さんは、その事実を知って絶望した。
「あなたを食い千切った私に罪がなくて、私を庇って死んだあなたに罪がある……。そんなの、そんなのっておかしいじゃないですかぁ……」
後藤さんは、膝から崩れ落ちる。翼をもがれた竜が地に堕ちるように、その音は重く響く。
嗚咽を漏らす黒髪の頭、床に落ちた肩が小さく震えている。
わたしは、教師としてすぐに手を伸ばすことができなかった。
どうすればいいか分からなかった。
彼女を責めればいいのか、慰めればいいのか。
ずっと自分自身を騙し続けてきたわたしは、私を救う答えを持ち合わせていなかった。
「……ごめんね。後藤さん」
謝罪の言葉が口をつく。一体、何に対しての謝罪なのか自分でも分からない。
あなたの苦しみに気づけなかったこと?
力になれなかったこと?
救いたい。なんて思いあがってしまったこと?
「ごめん。ごめんなさい……」
涙が溢れ出す。
倒れるように脚が崩れ、わたしは床に手を付いた。
うずくまる私を抱き寄せ、震える左肩に頭を埋める。
「ひたり、せんせいっ……!」
「ごめんね、うきさん……っ」
わたし達は、お互いの罪の重さに潰れ、一緒に泣いた
あなたはきっと救われることを望んでないだろうけど、それでも、わたしはあなたを切り捨てたくはなかった。
「……ごめんなさい。わざわざ送ってもらって」
「いいの。もうこんな時間でしょう?」
端に闇が掛かった夕焼けの下、人のまばらな河川敷をわたし達は並んで歩く。
お互いの瞼の下には、泣き腫らした跡がくっきりと残っていた。
取り敢えず、一緒に帰ったものの。
今のわたし達の関係が、結局、どう落ち着いたのか形容できず、気まずい空気が流れた。
永い沈黙に耐えられなくなったのか、浮希さんは首に手を伸ばす。
「その首を掻く癖」
「はい? あぁ、ごめんなさい。また――」
「わたしも子供の頃、よく掻いていた。浮希さんとは反対の右肩を。まだ小さくて、なんで痒かったのかずっと分からなかったけど、きっと違和感があったんだと思う」
「そう、ですか」
浮希さんの手が静かに降りる。
今思えば、前世を知った頃を境に痒みはひいた。
罪に怯えてなかった時のわたしは、ずっと片割れを求めていた。
今になって気が付いても何の救いにもならないけれど。
「これから、どうしますか。喜多莉先生」
「喜多莉でいいよ。あなたの前ではわたしはもう先生にはなれない」
「……そうですか」
もう導くことができない。あなたはわたしなのだから。
相談員自体を辞める気はない。浮希さんだけが特例だ。
今の自分が何者かも分かってないのに、自分自身を導くなんて矛盾している。でも、見捨てる気はない。
竜だった頃は、生きるために切り離した。回りまわって、それが浮希さんを苦しめた。だから、見捨てない。もう、同じ過ちは繰り返さないために。
浮希さんも納得したように、半分呆れたように頷く。
「それで、結局どうするんですか。喜多莉さん」
改めて、聞かれた問いに、わたしは脚を止めて答えた。
「前世も、来世も、罪だって分からない。でも、あなたと一緒に罪を背負いたい」
罪を畏れる世界で罪に向き合う。それがどれほど過酷な道なのか、想像もつかない。
きっと、乗り越えた先にわたしの関係を表す答えがあると信じて、進む。
わたし達の頭上を尾雲が通り抜ける。
罪深い二人のせめてもの幸運を祈るように、儚い白線はどこまでも続いていった。




