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第9話「条例を図で書く」

 朝の光は薄く、紙の白の上に曖昧な影を落とした。

 ノエルは机の上の紙束を整え、一番上に大判の羊皮紙を置く。上端に、墨で短く題を書く。

〈地図条例・図面第一号〉


 図で法を書く。紙の隅っこで鉛筆が小さく笑った気がした。法はふつう文でできている。だから文は、ときに読み手の背骨を眠らせる。図は違う。目でつかまえ、足で踏ませ、生活の筋肉に筋を通す。

 ノエルは最初の線を薄く引いた。赤・青・緑の三色の幹、その外側に空白の四角、その端に小さく〈王都路〉と〈協定帯〉。さらに、紙の右側に欄外のような細い帯をつける。そこが“注釈”の棚になる。図が本文、注釈が脚注、文はそのまた注釈――順番は、守る。


 広場に板を立て、図面第一号を掲げる。集まったのは、もう数えるのをやめたくなるだけの顔だ。ミィナ、ルカ、露店の母、見習い、親方、墓地の掃除人、王都財務のメルタ、そして外套の襟を立てたエセル。幟は今朝は少ない。代わりに、好奇心が多い。


「条例は“図で本文、文は注釈”。今日は三条だけ描きます」

 ノエルは粉チョークで、図の左端に大きな記号を描いた。四角の中に、目立つ“目”の絵。

「第一条――見えるところだけ、やる」

 四角の外は薄灰で塗り、そこに小さく×印を並べる。

「地図に描けること、掲示できること、誰もが読めること、それだけが行政になります。描いていない“善意の抜け道”は、今日から“やらない”に変わる」

 ミィナが腕を組んでうなずく。「うちの炉は“見えない指示”で火力上がらないからね」


 次。ノエルは空白の四角の角をわざと欠けさせ、その欠けた部分に小さな時計と鈴の絵を添えた。

「第二条――空白は二段」

 欠けた角に〈半打×3で開閉〉と注釈を添え、さらに〈詰所運用は時間指定→撤去必須〉と小さく書く。

 ルカが笑う。「法律に“半打”って書いたの、世界初だろ」

「だいたい、世界初はやった者勝ちだ」ノエルは薄く、悪い顔をした。


 三つ目。赤・青・緑の線の側に、小さな人影のアイコンを点々と置き、足跡を短く描く。

「第三条――所有権は拍に帰属」

「拍?」露店の母が首を傾げる。

「今日ここで鳴っている“村の歩幅”です。運用の所有は、この足跡にある。紙の原本ではない。だから写しを差し出しても、運用は渡らない」

 メルタが無表情のまま短くメモする。「“所有=運用=拍”。良い。監査向けに文では『運用の帰属は公衆の可視的合意に置く』にしましょう」

「訳が上手い人は、世界を二度つくるね」ノエルは礼を言う代わりに笑った。


 図面に“踏む欄”を設ける。羊皮紙の下半分に、灰で薄く四角を区切り、〈ここに足を置く〉と書く。

「読んだら、踏んでください」

 ミィナが靴底を拭いてから、最初の一歩をそっと置いた。跡がつく。見習いが続き、露店の母が笑いながら踵だけを押し、ルカは静かに土を落としてから足を置く。

 足跡は署名だ。字より嘘がつきにくい。匂いと重さまで写る。


 エセルが袖をつまみ、図面の“注釈棚”に文を走り書く。

《第一条:本文=図。注釈=文。文は図の従。》

《第二条:二段目は鐘三打の時間空白/半打は“耳を澄ませ”》

《第三条:“運用の所有”は“公開の合意(足跡)”に属する》

 文はあくまで注釈。注釈が本文を乗っ取らないように、字を小さくするのがコツだ。法の字が大きいほど、人は読まなくなる。大きいべきは、絵と矢印だ。


 ひと通りの説明が終わる頃、王都の幟が二本、空気の端で揺れた。今日は派手でも重くもない、仕事着の幟だ。パルド局長の顔はない。代わりに、局の法務官が二人。肩の力が、紙の角みたいに硬い。

「“条例”の提出を求める」

 ノエルは図面を指差した。「提出は可能です。が、ここに掲示されているものが本文です。王都には“写し”と“注釈”を送る。順番はこの通り」

 法務官は図面の“踏む欄”を見て、顔をわずかに歪めた。「署名は文で行うものだ」

「ここでは、足で行う。文字に嘘をつく手は器用だが、足は不器用で正直だから」


 空気が一瞬だけ固くなる。固い空気は、音がよく通らない。だからノエルは、わざと音を作る。

「“読了の足打ち”いきます。半打」

 ミィナの鐘が短く鳴る。足がひとつ、ふたつ、三つと、順に置かれ、羊皮紙の下半分が土の文様になっていく。

 法務官の片方が小さく息を呑んだ。息を呑むのも拍だ。拍に巻き込まれた人は、案外まともなことを言いだす。

「……写しと注釈を受理する。が、王都路との整合性を確認したい」

 メルタが一歩出る。「場所分離で合意済み。王都は“路”、こちらは“場”。札も作った」

 王都と辺境が、図の上でやっと同じ言葉を持った。たいていの喧嘩は、名詞が違うだけで起きる。


 午後は“図での通し稽古”になった。

 第一条の運用――見えるところだけ、やる。ノエルはわざと図面の外に一つ“善意の机”を置かせる。札には〈迷子相談所〉。善い。正しい。だが、描いていない。

 半打。

 机は空白の外へ一歩引っ越す。図に“迷子ピン”を追加、掲示の端に小さく絵を描き、注釈で〈一定時間開設〉。描かれた瞬間に、それは行政化し、合意の中に入る。

 善意は、拾って収納しないと腐る。条例は、冷蔵庫と同じだ。


 第二条の運用――空白は二段。

 空白角に、またもや「物を置きたい病」が出る。今日は、王都の法務官が持ってきた“通達箱”が、角に吸い寄せられた。

 半打。

 ミィナが箱を軽く持ち上げ、協定帯の端に“王都路”と重ならないように置き、札を立てる。〈通達:読むだけ。印押しは王都路で〉。

 文と押印の導線を分けると、箱はただの文になる。印が文を暴力に変えるからだ。印は嫌いじゃないが、場所を選ぶ。


 第三条の運用――拍に帰属。

 ノエルは図面の端に、**“読み上げの拍”**を描き足す。時計と口の絵。

「数字の読み上げは、鍛冶」

 ミィナが帳簿を掲げる。「本日、協定金◇◇。用途――『欠け板を替える』『鈴を結び替える』『灯りを磨く』。動詞で読む」

 動詞は未来に向く。名詞は倉庫に眠る。

 エセルが注釈に追記する。

《読み上げ=拍の可視化/可視化された拍=所有の証跡》

 法務官の一人が、とうとう図面の“踏む欄”に足を置いた。靴底に王都の灰がついていて、跡がくっきり残った。悪くない。


 通し稽古の最中、風が、歌いそこねた。

 “歌う風”の拍が、妙に速い半拍だけ前に出たのだ。

 ノエルの耳が紙より先に反応する。「半打×2!」

 鐘。鈴。溝の欠け板。パンの蓋。

 音が一瞬、喧嘩した。

「欠け板を一枚、外す」

 ノエルの声が薄く、しかし遠くへ飛ぶ。ルカが走り、親方が板を抜く。水が、いつもの呼吸に戻る。

 風の“ドォ”に、人の“トン”が半拍ずれで戻る。

 白い骨組みが、空白の外で弾けた。

 法務官のもう一人が、図面から目を離して空を見た。これは、文で書きにくい。だから、今日、図で書く。


「第四条を足します」ノエルはその場で新しい欄を描いた。

 矢印、鈴、欠け板、蓋、それに半打の記号。

「第四条――“音は運用”」

 注釈棚に、エセルが走り書きする。

《音の設定は“変更”に含めない。紙上はゼロのまま、現場の“耳”で合意する》

 メルタが小さく頷く。「“音の税率”を文にすると揉める。図で運用、賛成」


 夕刻。

 図面第一号の“踏む欄”は、びっしりと足跡で埋まった。大人の踵、子どものつま先、泥の多い靴、きれいに拭かれた靴、王都の灰。

 ノエルは端に、負けの欄を忘れず書く。

《負:札の過多化の兆候→“読む札”と“見る札”を分ける必要》

《負:空白角に“通達箱”が寄る癖→明日は“箱の居場所”を図示》

 勝ちの欄は短く。

《勝:図面第一号、踏んで合意/王都写し受理予定》


 そのとき、風の向こうから、聞き覚えのある足音が近づいた。

 パルド局長だった。幟は持たない。代わりに、手に細長い筒を一本。

 局長は図面の前で立ち止まり、欠け角と“踏む欄”を、順に見た。

「足で法を押すのは野蛮だな」

「手で押す印も、昔は野蛮でしたよ」ノエルは肩をすくめる。「慣れの問題です」

 局長は筒を軽く叩き、栓を抜いた。取り出したのは、王都式の“清書用写図紙”。とても白い。

「写しを取る」

「どうぞ。注釈付きで」

 局長は白い紙の端を、ほんのわずかに嫌そうに曲げた。「注釈は、後でいい」

「注釈が先です。図が本文ですから」

 間合いが一拍、止まった。

 ミィナの鐘が、ほんの半打だけ低く鳴る。“耳を澄ませ”の合図。

 局長はかすかに顔をしかめ、しかし、紙を引っ込めなかった。

 エセルが一歩、前に出る。「監察室は“図を本文とする”形式を受理する。財務も立会済み」

 メルタが短く頷く。「動詞の帳簿も受理する」

 局長の肩が、ほんの髪一筋だけ落ちた。

「……写す。だが、王都路の整備権は王都にある。それは譲らん」

「譲りません。こちらは場を持つ。路と場で、喧嘩しない」

 合意とも、停戦ともつかない言葉が、夕暮れに置かれた。法に“余白”が要るのと同じで、合意にも“曖昧の帯”が要る。固すぎる合意は、翌日割れる。


 夜。

 ノエルは図面第一号の写しを三部作り、注釈を添えた。

 注1:本文=図/文は注釈

 注2:空白二段(半打・三打の運用)

 注3:所有=運用=拍(足跡署名)

 注4:音は運用(紙上変更に数えない)

 注5:場所分離(王都路/協定帯)

 末尾に、細い字で最も大切な一文を置く。

《この図は所有されない。運用される。運用は“見える拍”のもの》


 窓の外。

 白い骨組みが、いつもより高く、そして長く漂った。歌う風の音程が、わずかに上がる。

 ノエルは耳で拾い、紙の端に短い譜を足す。

《明日:王都路の“音”が混じる予感→路の石畳に欠け板は禁止/代わりに“砂利の細帯”で位相ずらし》

 図面第二号の題も、決まっていく。

〈箱の居場所/読む札・見る札/路の音、場の音〉


 灯りを落とす前、ノエルは鉛筆の芯を指で整え、紙の隅に小さく笑って書いた。

《法は踏まれて強くなる。汚れて拭かれて、やっと法になる》

 刃は相変わらず両側にある。だが、今日引いた線は薄く、責任は深かった。拍は、揃っている。

 さあ、明日は“箱”を図で居場所に入れる。王都は箱が好きだ。なら、置き場を用意すればいい。

 ノエルは心の中で半打を一度鳴らし、眠りに落ちた。風はまだ、歌の続きを練習している。

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