第8話「歌う風、逆位相」
朝の空気は薄く甘く、しかし砂時計の首のように狭かった。
ノエルは机の上の紙束を指で整え、一番上に昨夜の題を置く――〈歌う風〉。
深層の呼気が、一定の拍で上がったり下がったりする。白い粒は綿毛ではなく、小さな骨組みに育ち、浮いては消え、消えては浮いた。歌うのは風だが、譜面にするのは人間の役目だ。
板の前に立つ。ミィナ、ルカ、露店の母、見習いたち、荷の親方、墓地の掃除人。今日は早い時間から王都の幟がいない。
「“歌う風”は、響き合うものに集まります」ノエルは短く言った。「よくない響き合いは“湧き”を強くし、よい響き合いは“逃がし”を強くする。今日は“逆位相”を使う」
ルカが顎を上げる。「鐘で?」
「鐘“だけ”では足りない。溝の水音、矢印に付ける薄い鈴、露店のパン焼き台の“パンッ”という蓋の音。音は地図の上の“細い線”。重ねれば面になる」
ノエルは粉チョークで簡単な譜面図を描く。
〈地の拍:ドォ……ドォ……(低・長)〉
〈人の拍:トン・トン(中・短)〉
〈逆位相合図:カン(高・短・半打×2)〉
「風の“ドォ”に、人の“トン”を半拍ずらして置く。ぶつけず、絡ませず、食い違わせる。これで“吸い込み”が弱まる」
ミィナが鐘の柄を肩に担いで笑う。「鍛冶の槌も混ぜていい?」
「槌は“トン”。最小限で。欲張ると、音は喧嘩する」
午前、まず装備を作る。
矢印の先に麻紐で薄鈴を一つずつ結び、風でほんの少しだけ鳴るように調整。露店のパン焼き台には、蓋を叩くための小木片を一本ずつ置く。二重線の溝には、流速を少し変えるための小さな欠け板を三枚。
欠け板は“音の障子”だ。水のリズムを半拍だけ遅らせる。
ノエルは耳で試し、指で微調整し、紙の余白に小さく書く。
《紙上変更:0/運用のみ(鈴×11/欠け板×3/蓋木片×6)》
昼前、風門がひと呼吸ぶん深く吸い、白い骨組みが三つ、ふわりと浮いた。
ミィナが半打を二度、短く鳴らす。
溝の欠け板が“チャプ”と答え、矢印の鈴が“り”と微かに震え、パンの蓋が“パンッ”と控えめに鳴る。
深層の“ドォ”に、人の“トン”が半拍ずれて重なり、風は自分の腹を抱いて笑いそこねたみたいに、すこしだけ弱る。
白い骨組みは、空白の四角の外に落ちた。湧きにはならない。呼吸の逃がし。
「……効いたな」親方が低く言う。
「効きすぎてもいけない」ノエルは指で空気の厚みを測る。「逃がしすぎると、足元が軽くなって、人が“浮いた気”を起こす。浮いた気は事故に化ける」
ルカが短く笑う。「気分と地図が連動してるの、慣れるまで変な感じだ」
と、その時。王都の幟が遠くに揺れた。
先頭に立つのはエセル――ではなく、昨日の“文官A”と、見慣れない婦人。薄灰の外套、目の温度は低く、計算の匂いがする。
「王都監察室副官、エセル・グラフ代理――ではありません」婦人は名乗った。「王都財務院・評定補、メルタ・シェア」
代理では“ない”。つまり、別路線。
メルタは手帳を持ち、ノエルに向かって無表情に言う。「“協定票”の運用は把握した。次に、通行印との“二重取り”回避の設計を検討したい」
ミィナが鐘の柄で地面を軽く叩く。「二重取りをやめれば早い」
「やめない」メルタは即答する。「だから、設計で回避する」
ルカが目だけで笑って、ノエルを見た。「設計好きが増えた」
ノエルは紙を一枚、板に貼る。
〈“二重取り”回避案〉
A:時間分離――通行印は“搬出時のみ”、協定は“退避時のみ”
B:場所分離――通行印は“王都路のみにて”、協定は“空白周縁のみ”
C:関数分離――通行印は“荷重量関数”、協定は“角度先導権関数”
メルタがBに指を置く。「場所で分ける。王都は“路”を持つ。あなたたちは“場”を持つ」
「“場”は拍を持ち、“路”は距離を持つ」ノエルは頷く。「異種の所有なら、喧嘩しない」
「合意」メルタは手帳に短く記す。「ただし、表示を明確に。王都路には“王都路”の札。空白周縁には“協定帯”の札」
ミィナが口を尖らせる。「札だらけは嫌だね」
「札は少なく、大きく、正直に」ノエルは言う。「“笑うくらい大きく”が目安」
合意が形になりかけた頃、地の底がふいに跳ねた。
風門の拍が、半拍ずれた。
呼吸が歌い、歌が踊り、踊りが崩れる。
ノエルの背骨に、冷たい線が一本走った。「半打!」
ミィナが鳴らし、皆が“耳”になる。
欠け板が少し狂い、溝の音が早くなる。パンの蓋の“パンッ”が一つ、焦って前に出た。
“逆位相”は、成功の直後に失敗したがる。
ノエルは短く息を吸い、指で矢印の鈴をつまんで音を殺し、パンの蓋を押さえ、欠け板を足先で半分だけ戻す。
“ドォ”と“トン”が、もう一度だけ、食い違いの位置に戻る。
白い骨組みが二つ、空白の外で折れて消える。
群衆の息が戻り、拍が揃う。
メルタが低く言った。「“成功の直後に失敗したがる”――いい言葉」
「経験則です。線は、続けて引くほど乱れる」
「財務も同じ。黒字の翌日に浪費が出る。では、設計の次――“証拠”」
彼女は手帳を閉じ、ノエルに身を寄せる。「あなた、王都に“注釈付き図”を出すつもりね。図が先、文は後……その順は、財務院でも嫌われる。けれど、監察は好む」
「監察は、横の線を見ますから」
「そう。だから、あなたは危険で、有用。……“注釈”の書き方、教える」
メルタは板の端に小さく書く。
《注1:紙上変更と運用変更の区別(定義を先/例示は三つだけ)》
《注2:公開帳簿の“用途”を名詞でなく動詞で――「×土嚢袋」「◯土嚢を置く」》
《注3:負けの欄は“名詞+兆候”で。断定しない》
ノエルは短く笑った。「あなたも設計好きだ」
「財務とは設計。数字で引く線は、消しにくい」
午後、場所分離の“札”を作った。
王都路の入口に〈王都路〉、空白周縁に〈協定帯〉。冗談みたいに大きく、笑うくらい簡潔に。
通行印の屋台は王都路にだけ立てられる。協定金の読み上げは協定帯の内側で行う。
“二重取り”の芽は、一旦、抜けた。
板の今日の欄に書く。
《“二重取り”回避:場所分離(路/場)→合意形成:財務院補メルタ立会》
《運用:逆位相(鈴×矢印/欠け板×溝/蓋音×露店)→逃がし成功》
《紙上変更:0(終日)/注釈準備:進行》
負けの欄は、二行。
《逆位相の“成功後の乱れ”を拾い損ねかける兆候/音の“前のめり”》
《札の“過多化”の芽:視界疲労→読まれない札は暴力化》
ミィナが「暴力化」に線を引いた。「読まれない正しさは暴力――好き」
「好きな言い回しほど危ない。飾らない」
夕刻。協定票の読み上げ。
ミィナが声を張る。「本日、協定金◇◇。用途――欠け板の替え×2、鈴の予備×6、パン蓋の小片×3。動詞で言うよ――『欠け板を替える』『鈴を結び替える』『蓋を叩く』。以上、動詞」
笑いと拍手。
王都路の端では通行印の購買列が短く整い、協定帯では子どもが鈴の音に耳を傾けて半拍ずれる練習をしている。
メルタが短く拍手してから立ち去る。幟の赤は今日は見えない。財務は色で誤魔化さない。
夜。
ノエルは“注釈付き図”の素案を清書した。
図が先、文は後。
・〈地図〉――赤青緑/空白/王都路・協定帯/風門
・〈注1〉紙上変更と運用変更の境界
・〈注2〉公開帳簿の書き方(動詞)
・〈注3〉負けの欄の記法(兆候)
・〈注4〉“逆位相”の手順(半打×2→欠け板→鈴→蓋→三打)
・〈注5〉“神聖化しない”空白の扱い(時間指定/詰所→撤去)
端に、小さく書き足す。
《注0:この図は“所有”ではなく“運用”の説明。所有権は図面ではなく拍に帰属する》
窓の外で、白い骨組みが一つ、長く漂って、ふっと弾けた。
音が、前より高い。
ノエルは耳で拾い、紙の端に短い譜を足す。
《深層の音程↑:明日“位相差”が早まる可能性》
《対策:矢印鈴の取り付け位置を一段低く/欠け板を一枚減らす/蓋音を間引く》
線は薄く、責任は深く。
刃は両側にある。
それでも、拍は村に根づきつつある。
ノエルは鉛筆を耳に挟み直し、灯りを落とす前に、紙の隅へもう一行。
《明日:地図条例を“文”に落とす(図→注→文の順)》
消灯の瞬間、扉が軽く叩かれた。
開けると、エセルが立っていた。外套は雨の匂い、目の温度は低いが、今夜はわずかに柔らかい。
「来ないはずだったんじゃ?」ミィナが苦笑する。
「来ないのが味方のしるし。でも、今夜は“味方の証拠”が要る」
エセルは薄い書簡を出した。パルド局長の印影の上に、別の印影――監察室長。
「“注釈付き図”を受理する。条件は一つ――『地図に描けることしか行政しない』の文面を、王都の文法に翻訳して添えること」
ノエルは紙を受け取り、静かに頷いた。「図が先、文は後。文は“注釈”。その順は譲らない」
「譲らなくていい。あなたの順番で通すための“文の形”を、私が用意する」
エセルの口元が、風のない笑いになった。「明日、あなたは“図で書く”。私は“文で通す”。二重取りじゃない、二刀流」
ミィナが鐘を指で弾く。「二刀流はうちの趣味だよ」
ルカが短く笑い、白い骨組みが遠くでひとつ弾ける。
拍は揃っている。揃っているうちに、通す。
夜更け。
ノエルは机に座り、最初の文の一行だけを書いた。
《第一条 行政は、地図に描けることのみ行う。描けぬことは、行わぬ。》
それ以上は書かない。図が先だ。
鉛筆を置き、目を閉じる。
明日の題は決まっている。
〈条例を図で書く〉
図で書いた条例は、踏まれて、読まれて、汚されて、また拭かれる。
その往復運動を、“歌う風”に合わせればいい。半打、半打、三打。逆位相で。
ノエルは心の中で、鈴を一度だけ鳴らした。いい音だ。次は、図で法を通す。