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第7話「風門の封緘」

 朝、空はちぎれたパンの中身みたいに白く柔らかかった。

 ノエルは机の上の四枚の紙を指で整え、一番上に新しい紙を置いた。題は短い――〈風門の封緘〉。

 “風門”は見えない蝶番だ。深層の呼気が地表へ抜ける最短路。昨日の“地下の譜”で浮かび上がった破線は、共同墓地の青と交差し、空白の四角の縁をかすめ、ダンジョン口の踊り場で細く震えていた。


 板を立てると、三十ばかりの顔が並んだ。ミィナ、ルカ、露店の母、荷の親方、見習いたち、墓地の掃除人。王都の幟はまだ見えない。

「紙上の変更は、今日は一本だけ使います」ノエルは先に言った。「狙い一本。“封じる”のではなく、“緩めて封じる”」

 ルカが首を傾げる。「封じるのに、緩める?」

「蓋をきつく締めると、別の場所が破裂する。封緘は“逃がしながら閉める”のが基本。三つやります。角度、匂い、温度」


 まず角度。

 ノエルは板に簡単な図を描き、赤導線の膝を半歩だけ外に押し出した。踊り場の曲率がゆるむ。

「風は曲線に弱い。直線で抜けると強いが、ゆるい曲面で“迷う”。迷わせます」

 次に匂い。

 露店の母が持ってきた干し香草の束を、空白の四角の外縁に薄く擦り付ける。甘くも苦くもない、乾いた匂い。

「匂いは風の絵具。濃すぎると“口”になる。薄く、帯に」

 最後に温度。

 ミィナが鍛冶場から持ってきた薄い鉄板を、溝の上に“橋”のように渡す。昼の陽で温まると“上へ行きたい空気”の筋ができ、風門の芯を上に引っ張る。

「温度差は、見えない矢印。言うことをよく聞く」


 準備の最中、王都の幟が土埃の向こうに立った。昨日ほど派手ではないが、布の赤は血の記憶を呼びやすい色だ。

 パルド局長は来ていない。代わりに、文官風の若い男が前に出る。背筋はまっすぐ、目の温度は低い。「通行印の“定額化”を本日より実施する」

 ミィナが鐘の柄を軽く鳴らして笑う。「昨日は“任意”って言ってなかったっけ」

 男は無視した。「地図の写しは?」

 ノエルは紙の束の上に手を置いた。「写しは提出できます。ただし、運用の所有権はここにあります」

 男の口角がわずかに動く。「所有権とは、力のことだ。ならば、力を示してみせろ」


 示す予定は、最初からある。

 風が、底からひとつ吸い込まれた。低い吸気音。ノエルは半打を指示し、ミィナの鐘が短く鳴る。広場の呼吸が“耳”に切り替わる。

「角度」ノエルは赤導線の膝を足で撫でる。ルカが矢印を半歩だけ外へ蹴り、踊り場の曲面が“緩む”。

「匂い」露店の母が布の端で香草を撫で、甘くない帯が風門の縁に沿って薄くのびる。

「温度」鉄板の上に陽が差す。空白の四角が、ぬるい上昇の“芯”になる。

 地面の下で、呼気が一度つまづき、曲率に足を取られ、匂いに踊らされ、温度に引き上げられた。

 ダンジョンの口から飛び出しかけた白い粒は、空白の上でふっと浮力を失い、四角の外側へ滑り落ちる。湧きではない。呼吸の“逃がし”。

 文官の男は言葉を失い、群衆は息を吐く。その吐息がもう一段、上昇の筋に加担した。


 だが、設計者の耳は別の場所で“割れた休符”を拾う。

 ――墓地の青。

 青の底で、風門を緩めた余波が、小さな渦をつくりはじめた。匂いが静かすぎる。静かすぎる匂いは、時に口だ。

 ノエルは紙上変更の一本を切った。羊皮紙の端に細いハッチング――〈匂い抜きの裂け目〉を墓地裏の茂みに沿って引く。

「“抜け道”を作る。紙上変更、一本」

 現場では、ルカが素早く小枝を折り、角度を作り、ミィナが布を一本だけほどいて“影の細い帯”を増やす。露店の母が香草を二度、軽く揺らす。

 墓地裏の青が、息をした。小さな渦は、ほどけた。


「紙の変更は、一日三回まで、だろう?」文官が勝ち誇った顔で言う。

「一本目です」ノエルは短く返す。「狙い一本。残り二本は、事故と保険」

「事故?」

「たいてい、来ます」


 予告通り、来た。

 午後の陽がいちばん強い時刻、鍛冶場の裏の緑導線で、荷車の車輪が泥に噛み込み、横倒しになった。見習いが叫び、炉の温度が落ちる音がした。

 ノエルは二本目――保険一本を切り、緑導線の“膝”に細い破線を足す。〈仮の回し路〉。

 現場では、親方が短く怒鳴り、見習いが土嚢を二つ蹴って溝を橋にし、ルカが矢印を“嘘多め”に置く。

 荷は流れを取り戻し、炉の呼吸が戻る。

 ノエルは板に書く。《変更:2/残り:1(事故)》

 文官の男が鼻を鳴らす。「残り一本。慎重に」

「もちろん」


 慎重に、という助言は正しい。

 だが、事故もまた正確だ。

 夕刻前、王都の別働隊が“通行印の売捌き”で露店帯に無理やり屋台を差し込んだ。空白の四角から二歩。

 群衆のざわめきが、初めて“怒り”の帯に傾いた。

 ミィナが鐘を肩に担いだまま、男たちへ歩み寄る。「そこは“何もしない”帯の縁。やめな」

「販売は行政の職務だ」

「行政は“地図に描けることしかしない”。ここには何も描いてない」

 口論になれば、拍が乱れる。乱れは湧きを育てる。

 ノエルは三本目――事故の一本を切る決断をした。紙の空白の四角の、欠けた角に小さな符号を加える。〈臨時詰所〉。

「空白の“二段目”を一時、詰め物にする。角だけだ」

 ルカが即座に木箱を運び、札を立てる。〈臨時詰所(17時まで)〉。

 空白は“全部ではなく、一部”が埋まり、群衆の怒りが“向かうべき角”を得て薄まる。

 ミィナが半打を鳴らす。皆の耳が“合図”へ戻り、売捌きの男たちは、角が“詰所”になったのを見て、動きの理由を失った。

 文官の男がキッとノエルを見る。「空白を埋めるとは、矛盾している」

「空白は“神聖化しない”。必要なら壊す。必要が去ったら、戻す」

 ノエルは角の札に小さく追記した。〈※17:00に撤去〉

 文官は返す言葉を探し、見つからず、唇を噛んだ。


 日が傾き、影が長くなる。

 協定票の読み上げの時間になると、人だかりは自然に四角の“空いている三辺”に弧を作った。角の詰所は時計の針のように17時で役目を終え、札は外される。空白は元の欠けを見せ、息をする。

 ミィナが帳簿を読み上げる。「本日、協定金◇◇。用途――鉄板の留め具×6、香草束×3、土嚢袋×8。臨時詰所の木箱は寄付」

 拍手。数字はつよい。

 文官はなおも幟の陰で粘ったが、群衆の拍に飲まれ、やがて幟を巻いた。


 夜。

 ノエルは“今日の欄”を埋める。

《風門:角度+匂い+温度→逃がしながら封じる 成功》

《紙上変更:3/狙1(墓地裏の匂い抜き)/保1(緑の仮回し路)/事1(空白角の臨時詰所・時間制)》

《被害:なし/炉温一時低下→回復》

《王都:通行印“定額化”通達→運用で緩衝/文官A:記録済》

 負けの欄には、一行だけ。

《空白の“神聖化”の芽:一時詰所で拍手→翌日以降も“角に何か置きたい”欲求の予感》

 ミィナが覗き込み、ペンの尻で「神聖化」に二重線を引いた。「ここ、太くね」

「太くしとく。太くしとかないと、太くなる」

 ルカが笑う。「言葉の迷路だな」


 宿へ戻ると、窓の外の闇に白い粒が、一つ、二つ、ゆっくり浮かんだ。昨日よりも形がある。綿毛というより、小さな“骨組み”。

 ノエルは窓を開け、耳で聴き、指で空気の角度を撫でた。

 深層の呼気は、いま“楽器”になりかけている。風門を緩めたせいで、音程が少しだけ整い、一定の拍で上がったり下がったりしている。

「……歌う気か」

 彼は新しい紙を一枚引き寄せ、題だけを置いた。

〈歌う風〉

 地図は予告状であり、契約書であり、遺書になりうる――その癖の一文が、今夜は“楽譜”に近く聞こえた。


 灯りを消す前、机の端に明日の小さなメモを追加する。

《“歌う風”の拾い方:耳→影→矢印→鐘(半打×2→三打)》

《空白:詰所の“記憶”を洗う。欠け角の掃き清め/匂いは無香》

《王都対応:写し提出用“注釈付き図”の準備。図が先、文は後》


 鉛筆を耳に挟み直し、目を閉じる。

 線は今日も薄く引けた。責任は、昨日より深く沈んだ。

 刃は両側にある。

 それでも、明日も勝てるところから勝つ。風が歌うなら、こちらも合いの手を覚えよう。鐘は三度、そして半分。拍は、もう村のものだ。

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