第12話「死角の総点検」
朝の空は粉を振ったみたいに白く、鍛冶の炉は“寝起き”の機嫌で小さく咳をした。
ノエルは図面第四号の上端に題を書く。
〈死角の総点検――群れの足に“間”を食べさせる〉
夜の試運転は成功したが、静けさは甘い毒にもなる。静けさは、狩る側の呼吸も整えるからだ。エセルが昨夜漏らした「群れの盗り」が本当に来るなら、彼らは拍で動く。拍は読める。なら、崩せる。
「午前は“死角の採譜”、午後に“間の罠”を敷きます」
板の前には、夜勤明けの見張り、パン屋、見習い、露店の母、墓地の掃除人、そして半分だけ眠い顔のルカ。ミィナは炉の“半打起こし”を終えて合流した。
図の端に、ノエルは細い斜線のパッチワークを描く。死角は二種類――「形の死角」と「拍の死角」。
「壁や箱で生まれる“形”の影は目で潰せる。だが“拍”の死角――音の流れが痩せる穴は、耳でしか拾えない。今日は耳で穴を針金みたいに探し、見る札で“そこにある”を貼る」
まず、形の死角の列挙。
押印箱の背中、投函箱の欠け角の内側、読取箱の覗き窓の影、王都路と協定帯の境目の“柔らかい隙間”、空白角の“欠け”の外周。
ノエルは欠け角を指で叩く。「空白は神聖化しない。だからこそ、信仰の身代わりを置かない。“聖像”や“お守り”の札は禁止。代わりに“戻る足”だけ貼る」
ミィナが頷く。「『信仰は炉を温めない』って親方の口癖、ここでも効く」
次、拍の死角。
溝の“チャプ”が急に痩せる地点、踏木の“間”が伸びすぎる縁、夜幕の裾の風の抜け道、行灯の影の濃淡の境目。
ノエルは耳で拾い、紙に短い符を置く。
《…… (薄)》《・(点の静寂)》《∥(拍の折れ)》
「“点の静寂”は危険だ。連続した静けさは安心だが、点で切れる静けさは覗き目がいる合図」
午前の班分け。
A班(ルカ先導):王都路際の死角採譜。
B班(ミィナ先導):鍛冶・倉庫裏の“形の死角”の削り。
C班(露店の母先導):協定帯と影の帯の“拍の死角”の札貼り。
ノエルは各班に見る札を配る。足跡が“折り返して自分に戻る”図、矢印を“裏返してこちらを向く”図、鈴の絵に×を付け“今は鳴らない”を示す図。
「今日は“鳴らなさ”も表示する。沈黙の札を増やす」
A班が戻った。ルカが地図に印を打つ。「王都路の端、砂利の細帯の“はじめ”と“おわり”に点の静寂。踏む前と後で、皆、息を止める癖がついてる」
「“始まり”と“終わり”は人間を詩人にする。無意識に句読点を打つからね」ノエルは笑って、細帯の端に見る札〈歩み続ける足〉を貼る。足跡が“間”を跨ぐ図。
「そこで立ち止まらないを視界に入れる。拍を切らせない」
B班は鍛冶裏。ミィナが木槌で箱の角を落とし、見習いが“張りのある布”で影のエッジを丸めた。「形の死角は角を緩めればだいたい死ぬ」
ノエルは図に〈角を丸める=拍の連続〉と注釈を足す。
C班は協定帯。露店の母が布の端を一枚だけ長く垂らしていた。「影の帯が線になりすぎると、そこが“通り道”だと誤解させちゃう。だから影に“節”を入れた」
影が等間隔で薄く厚くを繰り返す。節は音の親戚だ。
ノエルは頷き、影の節に見る札〈戻る足〉を挟む。「節に“帰り”を覚えさせる」
採譜の間、ノエルは紙上変更の枠をじりじりにらんでいた。今日は“狙い一本”を必ず使う。相手は群れだ。群れには網が要る。網は紙の外で編めるが、結び目だけは紙の上で指定する。
正午。地の底で二重の骨が擦れた。昼の高い骨と夜の低い骨が、一瞬だけ同じ高さに重なる。
ノエルは半打を一つ。「午後は“逆位相の網”を敷く。音の間引きと踏木のずらしで、群れに“自分の足跡を踏ませる”」
ルカが目を細める。「追跡じゃなく“自己追跡”。気味が悪くて、速い連中ほど引っかかる」
「鏡を見せるのが手っ取り早い」
午後。音の間引きから始める。
矢印の薄鈴を三つに一つだけ残し、残りは布越しの鈴にする。溝の欠け板は二枚を撤去、一枚は半分だけ角度を変えて“チャプ”を遅拍に。パンの蓋は要所のみ、露店の母に合図を任せる。
「喋りすぎる合唱は弱い。今日は少人数・小声で勝つ」
次に踏木のずらし。
昨日は「寝息三拍に一枚」だったが、協定帯の外周に**“逆間”を作る。二拍→四拍→三拍と不規則**。ただし、目では気づかれない程度。踏木の木目を変え、見る札で“足の向き”を指す。
「群れの足は、規則を食べて進む。規則を崩すと、自分の規則に縫い戻そうとして戻る。そこで戻る足に落ちる」
そして結び目。
ノエルは紙上変更の一本を切り、地図の端に小さなハッチングの輪を四つ描いた。〈耳の結び目〉。
「“耳の結び目”は、網の結節。半打×1→三打で締まる。紙上変更:一本」
現場では、結び目の地点に低い行灯を置き、下に薄鈴を布越しに吊るす。音は滅多に鳴らない。鳴るときは拍が乱れた瞬間だけだ。
夕刻前。風が甘くなった。
白い骨組みが四つ、同時に浮いて、同時に沈んだ。揃っている。
群れの足音は、地面の下でまず揃う。
ノエルは半打を一つ、さらに半打を一つ。皆の耳が開く。
“こつ・…こつ・…”――夜警のそれではない、“軽くて均一”な群れのこつが、影の帯の向こうに並んだ。
十……いや、十二。
ルカが短く息を吸い、そのまま吐き出す。「来た」
網が張られ、歌う風は沈黙へと向きを変える。
最初の三人が協定帯へ足を入れ、二拍の踏木に乗り、四拍で少し乱れ、三拍で自分の足跡と重なって――耳の結び目がりと一度だけ鳴った。
群れの二列目が間に足を落とし、矢印の鈴は鳴らない。布越しの鈴だけが、本人にだけ微かな嘲笑を返す。
戻る。
彼らは、無意識に戻る足の図を踏み、自分の影を追いかけるように迂回した。
空白角は閉じていない。だが、二段目の空白――鐘三打の時間空白は、まだ鳴っていない。
ノエルは半打。
群れの拍がずれた。
足の速い者はずれを嫌う。先頭が切れる。
ミィナが静かに前へ出て、“こつ”を半拍遅らせる。夜警のままの、しかし昼の明るさで。
踏木の“逆間”に、二人が膝を落とし、りが二度。
声は上げない。拍だけが村の網になる。
王都路の端で、押印箱の列が一瞬立ち止まりかけた。点の静寂が顔を上げる。
ノエルは見る札〈歩み続ける足〉を指差し、口の形で「歩け」とだけ伝える。列は距離で進み続ける。路は王都のもの、拍は場のもの。混ぜない。
群れのうち、四人が戻る足に絡め取られた。
残りが“影の節”を抜け、投函箱の陰へ寄る。影の胃袋に向かう動き。
露店の母が影の節を一段薄くし、見る札を一枚だけ逆さに貼る。足跡が“その場で回れ右”を示す図。
耳の結び目が三度、ばらばらに鳴った。
ばらばらは、怖い。
群れは、群れをやめはじめる。個になると、夜の地図は優しい。
ルカが個の後ろにこつを置き、見習いが前に間を置く。
王都の法務官が遠巻きに見ていた。書けない種類の運用。図でしか通らないやつ。
やがて、群れは群れを諦めた。
四人は戻る足で帰路に乗り、三人は投函箱に短い紙を入れてから去った。〈仕事を探す〉と、動詞で。
残りは二人。
一人は空白角の欠けた欠片に目をつけた。
ノエルは低く言う。「空白、二段目、準備」
鐘は鳴らさない。二段目は、鳴る前の合意でも立ち上がる。
欠け角に“詰所”の記憶がちらついた。甘い毒だ。
ノエルは欠け角の砂利をひと掴みだけ払って、何もしないの顔を磨き出す。
“何もしない”は、強い。
男は何もできず、足の行き場所を失って歩み去る。
最後の一人は、路へ逃げた。距離の世界。
そこは王都の順番だ。
法務官が前へ出て、冷たく短く言う。「押すのは路。押してから来い」
男は一拍だけ迷い――そして、押さなかった。路は重い。押さない者には重いままだ。
静寂。
ミィナが半打を一度。村の耳が閉じ、夜の試運転の余韻だけが残る。
ノエルは板の“今日の欄”を埋める。
《死角:形=角落とし/拍=点の静寂→見る札(歩み続ける足)》
《網:音の間引き(鈴1/3/欠け板撤去×2/遅拍×1)+踏木の逆間(二→四→三)》
《結び目:耳の結び目×4(紙上変更:1/半打→三打で締まる)》
《成果:群れ12→四“戻る足”、三“投函”、四“退去”、一“路で停止”》
《負:砂利細帯の端で句読点化→“歩み続ける”札で暫定》
《負:“詰所の記憶”の甘さ→欠け角の素洗い/“何もしない”の顔を維持》
読み上げは簡潔に。今日は動詞+拍+数。
ミィナ:「角を丸める/午後一/4箇所」「鈴を布で包む/半打後/8」「欠け板を外す/半打×2/2」「踏木をずらす/三打前/一周」「耳の結び目を締める/三打/4」
拍手は小さく、しかし揃う。夜は数字を眠らせると決めたが、今日は“戦果の読み合わせ”として最低限だけ読んだ。数字は、拍が守った。
王都側の二人が近寄る。法務官と、メルタ。
法務官は短く言った。「“群れ”の対処、文にしづらい。写しには『図面による運用』とだけ書く。監察はそれを通すのか?」
エセルがいつの間にか背後にいて、目だけで笑う。「通す。負けの欄を忘れずに」
メルタは注釈棚にさらりと書く。
《注:集団事案は“図の本文/文の注釈”で。文は『図参照』で短く》
《注:沈黙の札=“鳴らない合図”の表示。過剰掲示に注意》
ノエルは頷き、負けの欄にさらに一行足す。
《負:“沈黙の札”過多の芽→“読む札”の要約一行で置き換え》
夜。
図面第四号の写しを三部作り、注釈を添える。
注1:死角=形/拍の二分
注2:網=音の間引き+踏木の逆間
注3:結び目=耳の結び目(半打→三打で締結)
注4:沈黙の札(“鳴らない”を表示)
注5:空白は“何もしない”の顔を磨いて維持(詰所記憶の脱臭)
末尾に、また細字。
《群れは距離で来て拍で崩れる。崩す手段は“図”で、残す証跡は“拍”で》
窓の外、白い骨組みが今日は一本だけ長く伸び、遠くの山の肩で折れた。
ノエルは耳で拾い、紙の端に短い譜を置く。
《明日:王都路の“肩”の手前で音が跳ねる→路の肩=石畳の段差の小修正/“砂利の細帯”を肩より前で終える》
そして、もう一行。
《法務の清書:図面第一・第二・第三・第四――写し提出。同時に“見学路”を設定》
見学が増える。見学は拍を乱す。それでも見せる。見える運用が、この地図の根元だ。
ミィナが扉をノックし、片手で“こつ”を二度。半拍ずれている。夜の拍に優しいこつだ。
「明日、子どもの待機所を作ろう。夜だけじゃなく、昼の“間”にも居場所が要る」
「“間”の教育。いいね」
ルカが窓枠に肘を置き、目を細めた。「群れはまた来る」
「来る。来たら、また間を食べさせる」
灯りを落とす前、ノエルは紙の隅にいつもの癖の一文を足した。
《地図は、予告状であり、契約書であり、遺書になりうる》
今日はそこにもう一文、細く添える。
《そして、網にもなる。網は、破るためでなく、戻すために張る》
拍は揃っている。明日は路と場の肩を整え、見学路に**“見る札だけの街”**を一時作る。
半打を胸の内で一度鳴らし、ノエルは眠りへ落ちた。静けさは働いている。