表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

11/15

第11話「寝息という基準線」

 朝、風はやわらかく、鍛冶の炉は気まずそうに小さく息をしていた。

 ノエルは図面第三号の上端に短く題を書く。

〈住宅区画の静音設計――寝息=拍〉


 戦も税も音を連れてくる。暮らしは音を棲み分けて初めて“休む”。昨日、白い骨組みの風が二重で漂った。高い骨は昼の拍、低い骨は夜の拍――なら、夜の拍に人の寝息を合わせてしまえば、地図は夜でも“地図でいられる”。


「今日は“眠りの地図”を引きます」

 板の前に、赤子を抱いた母親、夜勤明けの見張り、パン屋の親父、鍛冶の見習い、墓地の掃除人が集まった。ミィナは腕を組み、ルカはあくびをひとつだけ噛み殺した。エセルとメルタは今日は後列だ。前に出るべき日ではないことを知っている顔。


 ノエルはまず、音の等高線を描く。昼の“トン/カン/サラ/チャプ/り”とは別に、夜の地図では“すー”“こつ”“ぱた”が主役だ。

 粉チョークで薄く波線を重ねる。

〈すー〉:寝息。住宅の心臓。

〈こつ〉:夜警の杖。安全の印だが、濃すぎると恐怖の影になる。

〈ぱた〉:布や扉の開閉。生活の余韻。

「この三つで夜の拍を作る。昼に鳴っていた鈴は夜は黙る。夜の札は“見る札だけ”、読む札は寝かせる」


 材料は三層にする。布→土→木。

 布は窓の内側に垂らす“夜幕”。土は家の周りに敷く“寝土”。木は通路の“踏木”。

「布で高い音を消し、土で中音を飲ませ、木で低い振動を切る。ろ過の順番は必ず“高→中→低”。逆にすると、音は怒る」


 まずは夜幕から。

 露店の母が古い天幕を持ってくる。色は薄い灰、重さは子ども一人ぶんの昼寝。ミィナが裾に鉛の糸を縫い込み、風にひらつかないように“拍留め”をつける。

 ノエルは「見る札」を窓の内側に小さく貼った。目を閉じた顔に、短い線が三本――〈すー×3〉。

「読む札は貼らない。読むと目が冴える」


 次に寝土。

 墓地の掃除人が乾いた土を選び、細かい砂と混ぜる。家々の縁に“肩幅+一手”の帯で撒く。

「寝土は靴底を柔らかくする“夜の砂利”。足音が“さら”に変わる。ただし厚すぎると転ぶ。二指の深さが限度」


 最後に踏木。

 親方が薄板を削り、ルカが角を丸める。幅は足の半分、間隔は一人分の呼吸――寝息三拍に一枚。

「木は音の“間”を刻む。間が揃うと、夜警の“こつ”も揃う。揃った“こつ”は、怖くない」


 午前の作業の合間、ノエルは図の端に夜の導線を描き加えた。

 赤は細く、青は太く、緑は点線に変わる。赤=夜の急患導線、青=生活の静脈、緑=荷は夜は基本止める。

 青の太い導線には“影の橋”を重ね、灯りは背の低い**行灯あんどん**だけ。高い灯りは影を硬くし、噂と警戒を育てる。


「夜警はどう歩く?」とルカ。

「逆位相を少しだけ。昼は“ドォ←→トン”、夜は“すー←→こつ”。夜警の“こつ”を住民の“すー”から半拍ずらす。こつ・…こつ・…」

 ルカは杖を軽く叩き、半拍遅らせた。確かに、心が跳ねない。

「やりすぎると眠るから、三軒ごとに拍を外す」


 昼過ぎ、最初のテスト。

 赤子のいる家から順に、寝息の基準線を採る。ノエルは扉の外で耳を当て、短い“すー”を紙に写し、各家の“寝息譜”を作る。

 露店の母が笑う。「寝息で地図を引くなんて、物好きだね」

「寝息は気圧計より正確ですよ。家の安心が崩れると、最初に乱れる」


 “ぱた”が耳に刺さったのは、パン屋の角だった。

 扉が軽すぎる。夜幕を下ろすたび、ぱたが“パタ!”に跳ねる。

 ノエルは蝶番ちょうつがいの角度を一度だけ変え、踏木の間隔を“寝息四拍に一枚”へ一段広げた。

「開閉の拍を寝息に寄せる。音が“挨拶”になる」

 パン屋の親父が扉を試す。ぱたは、ぱたのまま沈んだ。

「音があくびになった」と親父は目を細めた。


 鍛冶場が難所だった。

 炉は低いごごごを夜にも漏らす。愛おしいが、赤子の“すー”と喧嘩する。

 ミィナが腕を組み、ノエルが図に夜の“呼吸弁”を描く。

「炉の下に“土の肺”を入れる。廃砂に水を霧にして落とし、熱を一段やわらげる。木の格子でふたをして、夜は空気の流れを上から横へ変える」

 親方が眉を上げる。「火が不機嫌にならないか」

「夜の間だけ。“寝る炉”にする。朝に半打で起こす」

 ミィナが舌打ちめいて笑った。「炉に寝かしつけ。悪くない」


 準備が整い、陽は傾く。

 夜幕が降り、寝土が濡れた月光を飲み、踏木が細く呼吸を刻む。

 ノエルは板の隅に小さく貼った。

〈夜の約束〉

・読む札は眠る

・見る札は低い位置

・夜警の“こつ”は半拍ずらす

・赤は細く、緑は止める

・半打=耳/三打=開閉

 読む字は短い。長いと目が冴える。


 試夜ためよ

 ミィナが半打を一度鳴らし、村が耳になる。

 夜警が杖をこつ・…こつ・…とつき、寝土がさらと寄り添い、踏木が**…と“間”を吸い、夜幕の向こうからすー**が揃って聞こえる。

 ノエルは端から端まで歩き、地図の“黒”を指で撫でる。黒=静けさ。

 地図は静けさでも塗れる。音のない線は、最も濃い線だ。


 静寂の真ん中、割れた休符が一つ。

 寝息が速い家が一軒あった。若い夫婦と赤子の家。

 ノエルは扉の外から囁く。「怖い夢?」

 中から、父親の低い声。「いえ……盗み聞きがいる気がして」

 ルカの気配が、影の中で細く伸びた。「夜の盗りは“静けさ”を好む。試夜は餌にもなる」

 ノエルは頷き、図面に**“死角デッドアングルの斜線”を一本加える。

 昼の地図で隠れた影が、夜の地図では濃くなる**。

「死角は音で殺す。灯りで追うな。音で“そこにある”と知らせる」


 逆位相のちいさな罠を置く。

 踏木の“間”を二枚ぶんだけ“ずらし”、その上に薄鈴を布越しに一つ。

 夜警の“こつ”が半拍遅れて、ずれた“間”へ入る瞬間、鈴がりと一度だけ震える。

 鳴るのは、そこを踏んだ人間だけだ。

「音の“鏡”」とノエルは言う。「ここにいるを本人だけに聞かせる。驚いた音は、盗りの足を重くする」


 十分、二十分。

 りが、一度だけ、小さく鳴った。

 ルカの影が音に吸い込まれ、戻る足の図の上でこつが一度だけ強く、短く鳴った。

 声は上げない。拍だけが伝わる。

 やがて、夜の端でぱたが一度、弱く閉じ、半打が短く鳴った。

 ミィナが戻ってくる。肩に紐、紐の先に少年。昼間、投函箱に手を伸ばした顔。

 目は眠い罪悪感で潤んでいる。

「“静かな道”は、行きやすくて、帰りにくい」ノエルは静かに言った。「帰りの足を作る。戻る足の図を見て、踏木に従って帰る」

 少年は頷き、踏木の“間”を数え、**こつ・…こつ・…**の後ろで歩いた。

 罪を“逮捕”で固めない。拍で解く。夜の地図のやり方だ。


 試夜は成功した。

 ノエルは“今日の欄”に短く記す。

《夜の地図:布→土→木の三層/夜幕・寝土・踏木》

《夜の拍:すー/こつ・…こつ・…/ぱた→挨拶化》

《逆位相:夜警半拍ズラし/鈴の“布越し”鏡》

《赤=急患細導線/緑=停止/青=太導線+影の橋》

《成果:寝息の揃い↑/盗り一名“戻る足”で帰還》

《負:鍛冶炉の“ごごご”→土の肺で軽減/翌朝半打必須》

《負:読取箱の“夜の暴力”→夜は閉じる/朝の要約一行へ》


 読み上げは、今夜はしない。数字は眠る。

 代わりに、足跡を押す。

 踏む欄に、寝間着の裾を少しだけ持ち上げたまま、父親母親、見張り、パン屋、見習い、墓地の掃除人が、裸足に近い靴でそっと足を置く。

 足跡は字より静かに残る。


 片付けの最中、エセルが低く言った。「“死角を音で殺す”、監察に好かれるやり方。怪我が減る。……明日、盗賊の“群れ”が来るかもしれない。夜の静けさを逆手に取る大人たち」

 ルカが短刀の鞘口を指で叩く。「一人ずつの足は読める。群れの足は拍を持つ。なら、読める」

 メルタが注釈に一行足す。

《夜の帳簿:左=動詞(寝かす)/中=拍(“すー”の本数)/右=数量(夜幕/踏木)》

 数字は明日読む。今日は寝かせる。


 宿に戻る前、ノエルは図の端に小さく書いた。

〈夜の約束――“法は踏まれて強くなる。眠られて、さらに強くなる”〉

 窓の外、白い骨組みの風は低く、長く、すーに寄り添って漂っている。

 鉛筆を耳に挟み、半打を胸の内で一度鳴らす。

 明日は、死角の総点検だ。夜の地図を踏み、群れの足に“間”を食べさせ、一拍で網を落とす。

 拍は揃っている。揃っているうちに、夜の刃を鞘に戻す地図を引こう。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ