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第1話「追放測量士、辺境に笑う」

 王都測量局の門は、いつもより青かった。雨上がりの石畳が空を盗み、門扉の鉄の縁が薄く錆びている。

 辞令は一枚。文言は簡潔で、判子だけがやたら大きい。――協調性を欠く。よって解雇。

 協調性とは、地図の上で線を曲げることではない。ノエルは紙を二つ折りにし、靴紐を結び直してから、背後に残るため息や笑い声を風と同じ種類の音に分類した。正確だが、進路を変えるほどの力はない。


 荷馬車に揺られて七日。膝の上に広げたのは、白地の羊皮紙だ。何も描かれていない地図ほど、設計者の血を速くするものはない。

 王都の北で途切れかけた街道の先に、噂の辺境ダンジョンがある。そこは“湧く”。魔物も金も、問題も。誰も制御できず、誰も長続きしない。

 だからこそ、笑えた。混沌は、設計者にとって祝福だ。


 村の輪郭が見えた頃、荷馬車は泥に脚を取られ、車輪は泣き出した。丘の斜面には、濁った水が薄い網目模様をつくって流れている。

 ダンジョン前――噂通りの混沌だった。討伐帰りの冒険者が血の匂いを撒き散らしながら荷車と交錯し、露店の天幕は風を読み違えて入口の正面に口を開ける。樽が転び、叫ぶ声と笑う声が混じり、どこにも“拍”がない。

 ノエルは笑った。「勝てる」


 村の広場に掲げられたギルド板には、依頼札のほかに「苦情」がびっしり。盗難、転倒、喧嘩、食中毒、行列、渋滞。どれも“線”で直る。

 屋根の下、酒と煤の匂いの混ざる受付で、ノエルは名を名乗った。

「ノエル。測量士です。職を探してます」

 受付台に肘をついた女性が、じろりと睨む。小柄だが目が働いている。髪には煤、腰には金槌。

「ミィナ。鍛冶兼ギルド受付。――測量? ここ、地図なんて読める人間、ほとんどいないよ」

「読むから、描くんです」

「描いても、魔物は止まらない」

「人が止まれば、魔物も止まります。動線を分ければ、事故は減る」


 ノエルは背負い袋から筒を取り出し、広場の隅に膝をついた。羊皮紙に、村とダンジョン入口の概略を鉛筆で取る。人の流れ、荷車の轍、露店の並び、泥の溜まり。五分で粗い地図が立ち上がる。

 赤の鉛筆を走らせる。――戦線。討伐から戻る冒険者の導線だ。

 青を引く。――生活路。井戸と家々を結び、露店帯へ穏やかに吸い込む曲線。

 緑を引く。――荷。鍛冶、倉庫、精錬小屋、干し場へ直行する一本。

 赤と青の間に、角の丸い四角を三つ描いた。「休憩ポケット」。小さく十字を入れたピンは「簡易診療」。

 青の左右に、細い二本線を加える。――排水。線の両側に“土嚢”の記号を置き、下流に矢印を伸ばす。

 露店の帯は破線で区切り、入口正面の風下を避けるよう配置をずらす。


「なにそれ。塗り絵?」背後で声がした。振り向くと、傷だらけの少年が立っている。肩から下げる小刀、視線だけが大人だ。

「地図。線を引く練習です」

「きみ、王都の人?」

「元・王都測量局」

 少年は鼻で笑いかけて、笑うのをやめた。「……嘘ついてないな。俺、ルカ。元案内。今は無職」

「なら、案内して。線の通りに歩いてみたい」


 ギルド板の前に、ノエルは模造紙サイズに拡大した図を貼った。

「赤は戦線。青は生活。緑は荷。三色で分けます。赤は血が出るので、青と交わらないように。青の両側に二重線――排水の溝。雨が来ても露店が沈まない。緑は右に回して鍛冶へ。露店は入口正面を避け、風下から半歩ずらす。休憩ポケットは三箇所。血を洗う簡易水場を併設」

 人々の顔に半信半疑の色が灯る。ミィナは腕を組んだまま、じっと図を飲み込み、短く言った。

「……やってみよう。失敗したら、その地図燃やすからね」


 午後いっぱいで、村は少しだけ線に従った。赤線沿いの荷車が鉄の棒で仕切られ、青の曲線に沿って露店が入り口から半歩ずれる。ミィナが仲間の鍛冶見習いと、ドラム缶を切って即席の洗い場を作る。少年ルカは、泥の溜まる窪地に土嚢を積む。

 陽は傾き、討伐隊が戻る時刻。

 最初の一団が赤の導線を辿って現れ、休憩ポケットで片膝をついた。水で血を洗い流す。血の匂いが減るだけで、周りの魔物の寄り付きが目に見えて鈍る。荷車は緑の導線をまっすぐ鍛冶へ向かい、青の生活路は井戸から露店へ、流れるように人を運ぶ。

 怒鳴り声が減った。転ぶ者がいない。

 ノエルは一歩下がって、風の向きを測った。露店の布が膨らむ角度と、煙の立ち上がり。違いは、ある。

「嘘だろ」誰かがぽつりと漏らす。

 ミィナが口を尖らせ、目だけ笑った。「……あんた、使えるかもしれないね」


 夜。酒場の壁に、昼の地図が貼られたままになっている。獣脂のランプが揺れ、木の机の傷が古い地形のように見える。

 ルカがノエルの向かいに腰を下ろした。

「地図に描いたら、現実が変わるのか?」

「正確には、現実が“地図に合わせて”くれるだけ。線に、世界が癖をつけられる。水は溝に沿い、人は矢印に従い、荷は近い方へ落ちる。ぼくらは“癖の設計”をしてる」

「同じに聞こえる」

「似ているが、違う。違いが大きい。だからこそ、線の引き方に責任が生まれる」

 ルカはジョッキを傾け、じっとノエルの手元を見た。節だらけの指、鉛筆の黒。

「責任ね。ここは、責任って言葉がよく死ぬ場所だ」


 戸を薄く叩く音。ミィナが顔だけ出して言う。

「明日の朝、雨来るよ。排水の二重線、ちゃんと効くか見せてもらう」

「溝は“音”でわかる。雨脚が強いほど、正解はうるさくなる」

「うるさい正解、か。気に入った」


 夜半、ノエルは宿の狭い部屋で、昼間の図を清書した。赤青緑の三本の幹から、細い枝が伸びる。枝先に、未だないもののピクトを小さく描く。――灯り、乾燥台、荷解き台、子ども向けの待機所。

 鉛筆を止め、黒の細い線で紙の隅に短い文を足す。

《地図は、予告状であり、契約書であり、遺書になりうる》

 誰に見せるでもない癖の一文だ。

 雨の匂いが窓の隙間から入り、遠くで犬が吠える。眠りに落ちる直前、耳が勝手に村の“拍”を拾った。――まだ散っている。明日は揃える。


 朝。予告通りの雨が来た。

 空は低く、雲が山肌に引っかかっている。最初の一滴が二重線の溝に打ち、指で弦を弾いたような澄んだ音を立てた。やがて数を増し、溝は小川になり、露店の足元は水を飲まずに済む。

「音がいい」ミィナが言った。

「狙い通り。溝が歌えば、露店は沈まない」

 老人が杖で地面を突いた。「こんな即席で変わるもんかねぇ」

「即席だから、変わるんです。泥は待ってくれない」

 ミィナが老人の脇で笑った。「あんた、誰より泥を信じてる顔してるよ」


 昼前、雨が小降りになった頃、赤線の向こうで怒鳴り声がした。

「どけ! 王都の徴税隊通るぞ!」

 飾り羽根のついた帽子、無駄に磨かれた胸当て。四輪の徴税車を先頭に、王都からの列が赤線を逆走してくる。

 ミィナの顔から色が引いた。

「また来やがった。雨のたびに来るんだ。濡れた荷と靴で生活路に突っ込んで、露店を潰して、税だけ持っていく」

 ノエルは地図を見た。赤、青、緑。税隊の鼻先は赤線の上。

「赤は戦線。王都の税は、戦争の匂いがするね」

「言って聞く相手じゃない」

「言わないよ。線で話す」


 ノエルは、赤線の途中に小さなアイコンを描き足した。四角い枠に、門の記号。――検問。

 ミィナが目を細める。「門なんてない」

「描けば、置ける。置けば、流れが変わる」

 雨に濡れた木板を二枚、ルカと運ぶ。赤線の上に斜めにかけ、車輪止めの楔を打ち込む。両側に“休憩ポケット”の表示を掲げ、丸桶を三つ並べた。――“血洗い場”。

 徴税隊は、半ば惰性でそこに止まった。門に見える物の前では、人は止まる。習性だ。

「ここで洗ってください」ノエルは笑顔で桶を指す。

「我らは税を取り立てに来たのであって、洗いに来たのではない!」

「血の匂いは誘引です。赤線に血を残すと、魔物が寄る。税車が襲われる」

 隊長の顔に、想定していなかった種類の恐怖がよぎる。彼らは強いが、魔物は規格外だ。

「洗え。手短にだ」

 桶の水が赤くなる。赤線は純化され、青線に匂いが流れ込まなくなる。徴税隊は不機嫌なまま、赤線の導きに従って村を斜めに横断し、緑の荷路に膨らみかけた鼻先を、木板の角度に押し返されて、結局赤線のまま通り過ぎた。

 露店が無事に昼を迎える。

 ミィナが口の端を上げる。「……門なんてないのにね」

「ある。“見えるように”置いた」


 午後、雨が止む頃、ギルドにささやかな列ができていた。

「苦情の取り下げ」と書かれた札が、二枚、三枚。転倒なし。泥の流入なし。喧嘩――ゼロ。

 ミィナがノエルに小袋を投げた。「成功報酬。安いけど、ここではこれが相場」

 ノエルは袋の口を結び、笑った。「相場は、線で上がる」

「強気だね」

「線は強気で引くものです」


 夕刻。雨水が溝から抜け、空気が乾いていく。

 ルカがノエルの横に並んだ。「俺、また案内する。線の先、見たい」

「助かる。明日は“湧出点”を封じる。逃げ道を潰す検問ピンの入れ方を教えるよ」

「ピン?」

「地図に刺す、小さな意志」


 その夜、ノエルはまた清書をした。地図の余白に、今日の“変わったこと”を小さく記す。

《転倒ゼロ/露店沈下ゼロ/徴税隊の逆走制御成功》

 端に、細い字で付け足す。

《次:湧出点の抑止。検問ピン×4。赤1・緑2・青0》

 窓の外、雨の滴が最後の音を立て、止まる。

 ノエルは鉛筆を置き、掌を開いて眺めた。薄い黒が指先についている。線を引くたび、責任が一本、皮膚の中に飲み込まれていく感じがする。

 地図は紙ではない。地図は、世界の癖を固定するための、忘備録だ。

 明日は、もう少しだけ、世界に良い癖を刻む。


 朝の前の薄闇で、ノエルはふと目を開けた。遠く、地下から空気が抜けるような音がした。ダンジョンが息をする音。

 彼は起き上がり、羊皮紙の端を指でなぞった。

 ――線は武器だ。けれど、刃はいつも両側にある。

 それでも、引く。人が人らしく歩ける道のために。

 ノエルは小さく笑い、鉛筆を耳に挟んだ。

 勝てる。まだ、ここは勝てる。明日も。ここから先も。

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