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生きる事にはそれ独自の価値がある

 若い人に「自殺したい」と言われたら、私は止める事にしている。シオランが言っていたと思うが、自殺というのは現代人にとって最後の切り札なので、そう簡単に札を切る必要はないだろう。

 

 とはいえ、現代の「生きる事は素晴らしい」という価値観が私は嫌いだ。そうした考え方はエゴイズムを肯定する近代思想の劣化版だと私は考えている。だらだらと生きるよりも、すべき事をして死んだ方が遥かに良い。何もせずに長寿を保った人と、自分のすべき事をして夭折した人間なら、後者の方がずっと素晴らしいと私は考えている。

 

 ただ、そうした考え方とは別に、生きる事にはそれ自体独特の価値があると私は考えている。それについて少し説明してみよう。

 

 ドストエフスキー「罪と罰」という作品の主人公は「若者」のラスコーリニコフである。この青年は極めて鋭敏な頭脳を持った人物だと設定されている。様々な事について計略を巡らし、自己の正義を信じ、犯罪を行う。

 

 ところが、ラスコーリニコフは実際に自分のした事が、頭の中で考えていた事と「違う」のを発見する。それは彼の無意識にのしかかる重い罪障意識として現れる。

 

 ところで、頭の中で考えていた事と、現実が「違う」という事は、どのように言葉で表現すればいいだろうか? 私は無理だと思っている。

 

 私は若い頃、考えていた。私より遥かに賢い賢者らは人生の秘密を解き、その完璧な解を握っているのだ、と。そんな風に考えて読書に励んできた。

 

 ところが時間が経つと、そんなものは「ない」とわかってきた。人生全体を紐解くひとつの解などありはしない。

 

 …が、問題は、この「方程式などはありはしない」という言葉そのものもまた、ひとつの方程式として現れてきてしまうという事だ。それが言葉として、概念として現れている以上、やはり人生というよくわからないものを言葉という概念で割り切れるような印象を与えかねない。

 

 「全てのものは割り切れない」という言葉もまた「割り切れない」という観念で全てのものを割り切ろうとする観念操作に過ぎない。

 

 それでは一体どうすればいいだろうか。…別に。どうする事もない。ただ生きていく他ない。

 

 生きるという事は言葉で言い表せないものだ。だが、それ故に、そこから無限の言葉が生まれてくる。

 

 もう亡くなった私の友人は、国語の感想文が大の苦手だった。彼が文章を書く時は「僕は朝起きて、朝食を食べて、カバンを持って学校に行きました」といった無味乾燥な事実を書き連ねるのが常だった。彼は理系で、言葉の取り扱いが苦手だった。

 

 ところでこの言葉「朝起きて、朝食を食べて、カバンを持って学校に行きました」といった言語表現は果たして本当に彼の"朝"の実態を現しているだろうか?

 

 事実としては、もちろんそれで問題はない。しかしそこで豊かな事象が起こっていると考える事もできる。

 

 「太陽は日毎新しい」とヘラクレイトスは言った。朝起きて学校に行く、といっても、微妙に空の色は変わっている。雲の形は変わっている。

 

 また彼自身の起きる時の動作も違うし、朝食のメニューも変わっているかもしれない。コーヒーの温度も色も微妙に違うだろう。朝食を出してくれる母親の機嫌も違うかもしれない。学校に行くまでに彼が見る風景も彼の動作も、ひとつとして同じものはないだろう。

 

 また、彼が朝に織りなす歩行するという動作、あるいはまわりを見るという動作ひとつとっても、そこに生物と人類の進化の歴史の蓄積があって、はじめて可能な行為である。それらは生物学的に興味深い現象だろう。

 

 もちろんこれら無限の変化は、いくらでも深くする事ができる。だが、言葉という観念、物差しに頼って世界を見ていると、朝の登校の風景からはせいぜい一行の言葉しか生まれてこない。しかし現実は言葉ではない。現実は言葉よりも遥かに豊かなものを含んでいる。

 

 私もそうだが、若い頃には頭脳明敏な者ほど頭にたくさんの観念を詰め込んで、世界を解読しようとする。また、解読したような気がする。

 

 そうした人物からすると、世界を生きる意味はもうないような気がする。世界は灰色の観念で包まれている。世界も人生ももうすっかりわかってしまった。もうやる事はない。後は死ぬだけだ。そう絶望して自殺を望む人間もいるかもしれない。

 

 だが、こうした若者の観念に逆らって世界は動いていく。自らの生も流動していく。そしてこれらは自らの観念が裏切られるという経験として、彼の中に蓄積されていく。

 

 ドストエフスキーが、若年の主人公を的確に描く事ができるようになったのは、彼が若年でなくなった頃だった。

 

 ドストエフスキーが自らの若年期を対象化できるようになるまでいかなる犠牲を払ったかは想像を絶する。

 

 我々は「罪と罰」を読んで「このラスコーリニコフとかいう奴は自分の事を賢いと思っているがただの人殺しじゃないか」と考えるのは容易い。しかしそう考えている人間がラスコーリニコフと同様に世界を簡単な観念で理解可能だと信じているという事は容易に気づき難い。

 

 そういうわけで、私は、生きる事にはそれ自体、独特の価値があると思っている。人はその体験の質や種類についておそらく問うだろう。そしてそれは社会的な範疇において良しとされた経験でなければならない、そのように言うだろう。

 

 私が言わんとする生それ自体の価値とはそういうものではない。それはむしろ時間的実在とでもいうものだ。当たり前の事が決して当たり前ではない、と気づく事だ。

 

 生そのものに他人から見て何の価値がなかろうと、あろうと、そこには言語化を許さないそれ独特の意味がある。どれだけ愚かな人間も、豊かな生命と自然の時間的厚みの刻印を受けてそこに存在している。そこには何がしかの意味がある。

 

 だがこうした生の価値は、人生をわかりやすい方程式で一括りに解いてしまおうと舌なめずりしている若者には決して満足できるものではないだろう。

 

 しかし、そうした生は言葉にできないところにその所在がある為に、言語表現そのものの多くの無限性をはらむ事になる。言葉ではないものが根拠になっている為に、言葉はそこから無限に派生できるのだ。

 

 そんな風に私は生きる事にはそれ自体独特の価値があると考えている。だから若年の人間には自殺は進めない。人生はおそらく、彼が考えているものとは違った形で存在しており、それを体験する事自体は、決して無意味ではないと私は思うからだ。



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― 新着の感想 ―
非常に厳粛かつ、 深遠なテーマのエッセイでした。 「生きていること、そのものに価値がある」 と、ぼくも常々感じています。 いっそ死んでしまいたい、 消えてなくなってしまいたい・・・ こんなつ…
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