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そういえば、と唐突に唯奈は思う。
自分達はここ数日、連日でテレポートブロックを踏んでいる。そのために、わざわざ夕方までこっそり居残り、先生達の眼を盗んで西階段下のブロックのところまで行くということを繰り返しているのだが。
数日連続で行っているというのに、未だ一度も失敗していないのである。先生に見つかって見咎められたこともなければ、居残り現場を他の生徒の見られて訝しまれるということもない。まるで、誰かに誘われるように、導かれてでもいるように成功している――飛んだ先が、望んだ世界でないことを除けば。
今更だが、なんだか気味悪さをも感じてしまう。確かにテレポートブロックを試してみると決めたのは自分達だったし、面白いものや不思議な世界を追求し続けてきたのも自分達の意志だけれど。なんだかそれが、自分達の考えと信じているだけの――誰かに操られた結果であるような気さえしてきてしまって、突然言い知れぬ不安にかられたのである。
――ああ、それとも私。……この期に及んでまだ、誰かに責任転嫁したいのかな。こうなったのは、自分のせいじゃなくて……誰かが、それこそ異世界転移のカミサマとやらが私達を操ってそうした結果なんだ、って。
本当は、聖也に言われるまでもなくわかっていたのだ。
現実は、ライトノベルのようにはいかないと。死んだところで、前世の記憶を持ったまま素敵な魔法の世界に転生することなどできないし、ちょと不思議な体験をしたところで都合よくチートな能力のギフトなんてものを貰えるはずもない。十人中十人が振り向いてくれるような美少女にもなれなければ、どんな人をも奴隷にできるスキルだの、異世界でも役立つような特別な技能だのを与えられるということもない。
そう、そんなことあるわけないと知っていたからこそ――何でも思い通りになる、理想通りの世界の存在に憧れていたのだ。
自分がそうなれるかもしれない、努力なんて面倒なことしなくても最高の自分を手に入れられるかもしれない、変われるかもしれないなんて――そんな都合が良すぎることなど、あるはずもなかったというのに。
――一方通行なのはわかってた。でも、多分どこかで……都合よく帰る道が見つかるはずだって、信じてたとこはあったと思う。もしくは、帰り道なんかなくたって平気なくらい、素敵なところに行けるはずだって。
そう思いたかった。思ってしまいたかったのだ。
それほどまでに唯奈にとっては、自分という存在も自分を取り巻く世界も――刺激の一つもない、平凡で地味で、退屈なものでしかなかったのだから。
夕焼けが差し込む廊下を、無言で真紀と共に歩いていく。彼女は、何を思っているのだろう。聖也の言葉は、少なからず彼女を動揺させたはずだった。厳しい事を言われたし、もっと女の子に優しくしてくれたってと思わないこともなかったけれど。紛れもない、正論であるのは間違いのないことだったのだから。
「……あのさ、真紀」
自分達はまた、テレポートブロックのあるところに向かっている。この世界から、新しい世界に移動するため。前とは違う呪文を試してみるために。
「あの、そのね……真紀……」
その前に、話すべきことはきっとあるはずである。しかしその第一声が決まらず、唯奈は口ごもってしまう。真紀の大きな背中が、ぴたりと動きを止めた。そして。
「……現実って、ホントつまんないよね」
彼女は振り返らずに、そう言った。
「努力しろって、みんなしてるって、そう言う人がいるのはわかってんだよ。あたしだってさ……聖也が言ってることは間違ってないって、本当は知ってる。変わりたいって願うなら、自分自身や世界を変えたいなら、本当は自分で適応するなり変わるなり……勇気出して、踏み出さないといけないってことくらいは」
「真紀……」
「でもさあ。……あたし、特別な人間なんかじゃないんだもん。少女漫画の強かなヒロインちゃんでもないし、少年漫画の鬼メンタルなヒーローでもないんだよ。普通の、小学生なんだよ。……チートなスキルもなけりゃ……心だってそんな、強くなんかないんだ。努力しろって言われたって、具体的にどうすりゃいいの?だし。……それで報われなかったら、誰か責任取ってくれるのって思っちゃうし。……あんたにさ、この間言った通り。あたしは、あんたと違って……性格、超ブスだからさ。でもってサイテーなのわかってんのに、自分でそのサイテーをどうにかする努力もできない臆病者だしさあ……」
『あたしは、そういうゴーマンで腹立つ女の自分が心底嫌いになったわけ。……そういう自分じゃない、別の何かになりたいのに、その努力とか放棄しておまじないやら不思議体験やら異世界やらにすがろうとしてるわけ。サイテーでしょ?軽蔑してくれても全然いーよ』
彼女がテレポートブロックを最初に踏んだ日――言っていた言葉を思い出した。あの時、真紀は何も言うことができなかったのを少しだけ後悔している。真紀は本当は、誰より自分が嫌いで、自力で変わらなければいけないのにきっかけも掴めなくて――足掻いて足掻いて、今に至る一人であったのだろう。そして、それはどこまでも普通の女の子で、なんらおかしなことではないのである。最低であることを理解しているだけ、唯奈よりはマシであるのに違いないのだから。
聖也の言っている言葉は、正しい。
努力もしないで、他人の力とか都合の良いカミサマや不思議なものに縋って世界や己を変えようなんて。そんなの、本当はとても卑怯で、情けない行為に違いない。他力本願、ご都合主義、それ以外の何であるというのだろう。
けれど、そういうものに一切頼らずに生きていけるほど強い人間が、この世界に一体どれだけの数いるというのか。何が起きても自分の責任だと考えて、重い荷物も背負って歩ける人間なんてそうそう多いものではない。そもそもそんな風に強い人間ばかりなら――あんなにも、異世界に夢を抱いて憧れる人や、物語が増える筈はないのだから。
誰もが彼のように、己の人生や己の行動全てに責任感を持って、一生懸命に生きていけるわけではない。むしろ、そんなことなどできない人間が大半ではないだろうか。
「……真紀は、普通だよ。私と同じ、だよ。臆病なんかじゃない。それが……普通の人間だって、思うよ」
唯奈は絞り出すように、言葉を紡いだ。
「誰だって、都合の悪いものから眼を背けたいし……怖いものから簡単に逃げる方法があるなら、それに縋りたいって思う。普通だよ、それが。……ただちょっと、私達が後先を、考えられてなかったってだけで。一回や二回なら大丈夫とか、甘く見てたんだって思う。こんなにすぐ、悪い方向に全部が変わっちゃうなんて思ってなかった。想像力が足りてなかったのは、反省しないといけなかったんだと思う」
「想像力、か。……それが足りてたら、今頃もう少し違う世界にいたのかね、あたしらは」
「あるいは。……異世界転移なんか考えないで、ちゃんと自分達の……最初の世界を、もうちょっと頑張って生きようって思えてたのかもね」
「…………」
聖也が何に、一番怒ったのかなどわかっている。
逃げ道がいつまでも用意されているなどと、思ってはいけない。何故ならテレポートブロックの存在に頼れない大多数の者達は、都合の良いカミサマや創造主なんてものが存在しないことを理解している者達は、どう足掻いても自分達の力だけで未来を切り開いていくしかないのだから。そこがどれほど理不尽で、納得がいかない世界であったとしてもだ。
本来なれば、そこがどんな場所でも受け入れて、全力で生きて戦うのが人間で。それを怠って、自滅して、不満だらけの自分達に彼が怒りを感じるのは、至極当然と言えば当然なのである。
同時に。本来ならば、きちんと叱ってくれた彼に礼を言うべきであったのだろう、自分達は。
それがきちんと出来るほど、唯奈と真紀が大人などではなかったというだけで。
「……次の世界に、行くんだよね?新しい呪文を試して」
尋ねれば、真紀は振り返り――それしかないから、と頷いた。
「わかってるよ。いくら呪文を変えたって、元来た道をそのまま戻れるわけじゃない。もっと、やばい世界に行っちゃうだけなのかもしれない。……でもやっぱり、この世界は望んだ場所じゃないって……どうしても思っちゃうんだ。あたしらが今まで生きてきた世界でもなければ、理想の世界でもない。どう言われたってこんな世界で、頑張っていける自信なんかないもん……」
「次が、もっともっと危ない世界だったりしたら?……あいつが言うように、あと何回繰り返せるかはわからないよ。それこそ、テレポートブロックが存在しない世界に飛んじゃう可能性もあるでしょ?」
「そうだね。……それでも、さ。あんたもここにいるんだから……気持ちは同じ、でしょ?」
そう告げる真紀の眼には、確かな罪悪感が。卑怯でごめんね、と――そう言われている気がした。ああ、一人で決める勇気がないからこそ、唯奈に背中を押して欲しかったのかと理解する。
きっと。唯奈が逆の立場でも、そうしたことだろう。むしろ唯奈こそ、真紀が言うからと彼女を利用して異世界転移を肯定し参加してきたようなものである。彼女がやりたいと言うから、彼女の意志だから、友達だから仕方ない。心のどこかで、真紀の存在を言い訳に使っていたのは、否定しようもない事実だ。
――大丈夫。……卑怯なのは、お互い様だよ。わかってるから、ちゃんと。
だから、せめて今だけは。彼女にどこかで責任転嫁していた分くらい、自分で背負う勇気を持ちたいと、そう思うのである。
「うん、そうだね。……この世界は、さすがにダメだよね」
もし、次の世界も悲惨なものだったなら。
その時、自分達がどうするべきか、また考えよう。それでも選択の余地があるだけ、自分達はまだ幸せなのである。
そしてどれほど互いに頼りないとしても、まだ二人で運命を共有出来る限りは。
「うん。……ありがとね、唯奈」
彼女は本当は、ごめんなさいと言いたかったのかもしれなかった。二人はそっと手を繋ぎ、四回目の異世界転移を、実行したのである。