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世界を移動したという認識は、相変わらず唯奈には殆ど無かった。なんといっても呪文を唱えて真紀と二人ブロックを踏んだところで、よくある異世界転生や転移のような派手な演出は一切なかったのだから。一回目の時からそうである。正直、いくら見慣れない転入生がいて見慣れない先生がいるかといって、半信半疑であったのは事実だ。
それでも真紀に誘われるまま二回目を実行したのは――不安や疑心より、圧倒的に好奇心が勝ったからに他ならない。少しでもこの退屈な世界から脱却してみたい、面白いものを味わってみたい――小学生の夢見る女子がそう思うのは、極々自然な流れであったことだろう。
「はぁぁ……」
翌日の通学班にて、唯奈より先にエレベーターホールで待っていた水依は、随分と暗い顔をして座り込んでいた。
「ど、どうしたの水依ちゃん。頭痛そうな顔して」
唯奈が心配して声をかけると、水依は彼女らしからぬ暗い顔で、実際頭痛くてかなわんねん、と言った。
「お小遣い減らされるかもしれへん、うち」
「え、なんで!?」
「ただでさえ父さんの給料減ってるのに、大幅な増税でさらに家計がやばいからーって。そら、わかっとるけどな、ウチがそんな裕福やないのは。せやけどなぁ、毎月五百円はさすがにきついねん……」
「あちゃ……ん?増税?」
増税、と聞いて思い出したのは、消費税が10パーセントになったアレである。世俗に疎い唯奈もそれくらいは理解している。何が軽減税率で何が還元で――なんてのは全く理解していなかったが。普段買ってるオシャレ雑誌やお菓子代が上がって非常に迷惑しているのは事実なのである。
ただ、“大幅な増税”という印象ではない。首を傾げている唯奈を見て理解できていないことを察したのか、水依はやや渋い顔を上げて言った。
「唯奈ちゃん唯奈ちゃん。いくらベンキョー苦手やからって、こういうことはちゃんと知っておかなあかんで。ネットニュースでもなんでもええから見とかんと。消費税が先月から30%になったやろ?」
「さっ……!?」
ちょっと待て、と流石にフリーズする唯奈である。10%だったのが、一気に30%?一体何がどうしてそんなことになったのか。
「国民労働平和党とかゆー、よくわからん宗教団体の政党が与党になってしもうてから、この国の政策はなんや迷走しとるかんなあ。消費税の使い道もようわからんことになっとるし、なんであんな党を与党にしてもうたんやろ……って、これはあんま大きな声で言うたらあかんやつやけど。あそこの宗教の信者はんがどこにいて、誰が聞いとるかもわからんしなぁ」
何だそれは、と絶句する他ない。国民労働平和党、なんてよくわからない党の名前など聞いたこともない。ニュースなどチラ見しかしない唯奈でも、自分達の国の今の総理大臣の名前と政権を取っている与党の名前くらいは言うことができる。そんな名前の政党等、野党にも存在していなかったはずである。多分だけれど。
しかしも、宗教を掲げた党が政治を握っているなんて。いや、宗教を信じることそのものが悪いとまでは言わないが、確か政治と宗教はバラバラで考えなければいけない――みたいな法律かルールかなにかがあったはずではなかったのか。いや、そんなものなくてもだ。一般の日本人が、そんな良くわからない政党を支持しているというのがまず信じがたいことである。
――ど、どういうこと……?
異世界転移した結果、そんなわけのわからない政党がある世界に来てしまった――そういうことなんだろうか。流石にそれは不安だし、非常に困るというものだ。水依の家のことも可哀想であるし、自分も明日からお小遣いが減らされる結果になってしまうかもしれない。
とりあえず、他の変化も確かめなければ。唯奈は不安を抱きながら時間を待ち、通学班のみんなと共に学校に出発したのである。
この時はまだ、不安より苛立ちが大きかったかもしれない。自分達が望んだのはあくまで“今よりもっと素敵な世界”だあったはずなのに、と。
***
学校に向かうまでの道にも、いくつも異変が散見された。一番は、国民労働平和党!と書かれたポスターがやたらめったらと貼り出され、駅前でもビラを配っている謎の紫服の集団が発生していたことである。その幹部らしき豪奢な服の人が、台座に乗って何やら演説しているのも見かけた。その周辺には人々が蟻のごとく集り、その熱狂ぶりはアイドルもかくやと言った有り様である。
見知ったはずの町が、明らかに見知らぬものに変わってしまっている。
明らかに前の世界より、何かが大きく崩れてしまっている。
戸惑いながら学校に行った唯奈は、真紀がまたしてもがっくりと項垂れている姿に遭遇することになった。しかも、どうやら唯奈が動揺しているのと全く違う理由で、である。
「こんなことってないよぉ……」
どうやら彼女は、謎の政党も増税も完全に度外視であるらしい。
「世界を移ったら都筑先生が独身になってくれるかと思ったら……奥さんに赤ちゃんが出来たって……悪化したぁぁ……」
「朝イチで最初に気にしたことはそれなんかい」
「そりゃそうでしょ!そのために異世界転移試したんだからさぁ!」
歪み無さすぎだろ、と少々ドン引く唯奈である。確かにまあ、彼女としては何よりもそれを気にして転移したのだろうけれど。それよりもっとヤバイものがいくらでもあっただろ!とツッコミたいところである。
というかこの様子だと、本気で周囲の異変に気づいていないのかもしれない。
「そんなこと言ってる場合じゃないよ真紀ー!この世界ちょっとおかしいよー!」
唯奈は説明する。ヤバげな宗教団体がこの国を乗っ取ろうとしているっぽいこと。消費税が30%になってしまったこと。そのせいで一部の家族は大変困っているらしいこと――などなど。
すると、さすがの真紀も状況にやや危機感を覚えたのか、真面目な顔になって言う。
「……確かにそれはちょっと危ないかもね。確かにそんな政党なかったはずだし」
「でしょ?だからさ……」
「まあ、望んだ世界に来れなかったからドンマイってことで、次の世界にさっさと移っちゃえば良くない?あたしらがこんなわけの分からんモードな世界に永住する必要はないでしょ?」
「あ……」
それはまあ、間違いなく事実であるし、極めて合理的な意見なのだが。
唯奈は流石に少し躊躇いを覚えてしまう。――今回の世界も、望んで選んだわけではなかった。次に飛んだ世界がまた困ったことになっていたら、一体どうすればいいというのだろうか。
「唯奈が考えてることはわかるよ?不安なんだよね?」
でもさぁ、と真紀は呑気である。
「望んだ世界じゃなかったら、またテレポートすればいいだけじゃん。あたし達が行きたいところに行けるまで、繰り返せばいいってだけでしょ?」
「そ、それはそうだけど……」
「決まり!あたしも都筑先生が他の女と寝て赤ちゃん作ってる世界なんてごめんだもーん。意見は合致してるでしょ?というわけで、今日もよろしくね」
「う、うん……」
それで本当にいいのだろうか。唯奈は段々と足元から這い上がってくるものを感じ始めていた。思い出すのは、聖也の忠告だ。
『俺がお前らの前に現れたのは、ブロックの封印が終わるまでお前らを見張る必要があると思ったからだ。……確かにテレポートブロックで移動できる距離は短い。一度や二度移動したところで、自分達が生きてきた世界とさほど変わらない世界にしか飛べないだろうさ。けど、それも積み重ねれば結果は変わってくる。どんな酷い世界に行っちまうことになるのか、わかったもんじゃない。……前にもいたんだよ。好奇心に負けて、結局自分の身を滅ぼした馬鹿野郎どもがな』
自分達はこれで良かったのだろうか。
既にもう、取り返しのつかない間違いを犯しているのではないのか。
『もう二度と、テレポートブロックは使うな。あれは誰にもコントロールできねえ。イチかバチか、好きな世界に行けるかもしれないなんて二度と考えるんじゃねーぞ』
沸き上がった嫌な予感を、唯奈は無理矢理に振り払う。
結局その日――当の聖也が学校に登校してくることは、なかった。