<5>
二十五分休みだけでは、聖也を尋問しきることも、真紀とちゃんと話し合うこともできなかった。というか、その次の時間が理科で移動教室であることをすっかり忘れていた唯奈と真紀もあれなのだけれど。ギリギリになって慌ててそちらに駆け込むことになってしまったので、結局もやもやした気持ちを抱えたまま午前中を過ごすことになってしまった。
まず一番の大前提は。あの胡散臭い聖也とやらの言葉を、一体どこまで信じるか、ということである。
――正直、この状況で実は異世界転移に成功してました、と言われてもさあ。
黒板に文字を書いていく先生の背中を見ながら、唯奈はシャーペンをカチカチ鳴らしつつ考える。
――信じるの、ちょっと厳しいというか。だってねえ?桜美聖也が転入してきたこと以外、変化らしい変化なんてちょっとしかないしさあ。
いや、全く無かったわけではないのである。今、唯奈の手元には授業の冒頭で返却された漢字小テストの答案がある。それは、唯奈が受けた記憶のないテストだった。そして漢字が非常に苦手であるという自負があるのに、今そこにあるテスト用紙にはバツが一つもついていないときた。受けた覚えのないテストを十点満点で返されて、先生に拍手されてしまったのである。
複雑な反面、心の底から安堵したのも事実だった。よくわからないが、これで当面苦手な漢字テストを受けずに済む。そして、母親にお叱りを受けずに済むのである。唯奈が苦手なテストで満点を取ったともなれば、むしろ喜んでおこずかいをアップしてくれる可能性さえあるだろう。現状、いいこと尽くしであるのは間違いない。些細なことではあるが、これも異世界転移の影響と言われれば全く筋が通らないことはないのだった。
ただ、やっぱり――想像していた異世界ってこんなのじゃない、とは思ってしまうというだけで。
もっと派手な、それこそ此処とは全く違う異世界に行ってみたいという気持ちも、抑えきれないというわけで。
――信じられないけど。……もしそうなら、あのテレポートブロックってのは凄い存在ってことだよね。……何回も試せば、それだけ元いた世界より遠い場所に行けるってこと……なんだよね。つまり、私達がずっと憧れてた、剣と魔法の世界に行くことだって夢じゃないはずなんだ……。
ただ、聖也が言っていた言葉は引っかかる。
腹は立ったが、正論であったのは間違いないのだから。
『お前ら、気づいてたんだろうが。テレポートブロックの噂に、異世界から帰ってくる方法が含まれてないってこと。……好きな異世界まで行けたら、それで満足だと思って多のか?今まで自分達が過ごしてきた世界を捨てて?本当に二度と帰れなくてもよかった、未練がなかったとでも言うつもりかよ?』
――テレポートブロックを使って異世界に渡ったら、もう二度と元の世界には戻れないのかもしれない……。
既に、自分達は元いた世界とは別の世界にいる、ということになっている。あまり実感は湧いていないけれど、聖也の言葉を信じるならそういうことなのだろう。そして、元いた世界に戻る方法は、ない。別に、正直今は良いことしか起こってないし、別世界に来たというより少し良いイベントが増えたくらいの認識でしかないので、全く不安も何もあったものではないのだけれど。
むしろ、もう一度踏んだら今度は何が起きるのだろう――その方が気になってしまう、というのが本心ではあるのだけれど。
――次に渡った異世界では、今よりもっと良いことが起きるかもしれないよね……?今度は小テストじゃなくて、もっと大きなテストで満点取れるかもしれないし……お母さんに褒められるようなこととか、何かで表彰されるとか、そういうことが起きるのかも……。
こんなささやかな変化しか基本ないというのなら。逆に悪い方向に働いても、きっと大したものではないのだろう。彼は、テレポートブロックで移動できる距離は微々たるものだと言っていた。なら、あと一回や二回踏んだところで、そうそう悪い結果にはならないのではないか。
むしろ、それで良い結果になるかもしれないのに、試さない方がずっと勿体無いのでは、ないか。
――……まあ、あと一回くらいやってみたって。別に、バチ当たるとかないよね?あの聖也に気づかれないようにこっそりやればきっとバレないよね?
とりあえず、今日の昼休みに真紀と相談してから決めよう、と決める。
彼女に反対されたならやめることにしよう。賛成したらやることにしよう。――そういう逃げ道を作ってしまうあたり、自分は卑怯なのかもしれなかったけれど。
***
その昼休み。お昼ご飯を食べた後、真紀のところに言った唯奈は――その真紀が、ぼーっとした顔で校庭を見つめていることに気がついた。
「真紀ー?相談したいことがあるんだけど……って何してるの?」
「あー……唯奈ぁ……」
彼女は熱に浮かれたような目で、校庭の方をふらふらと指差した。何があるんだろう、と思ってみたが――此処は一階ではないわけで、校庭で遊んでいる子供達さえ豆粒のようにしか見えないのである。当然、彼女が何を指しているのかなどさっぱりわかるはずもない。
「なになに?誰かいたの?何か見えたの?」
尋ねれば、真紀は文字通り――目はうるうる、頬はバラ色、という少女漫画に出てきそうな乙女の顔をして唯奈に告げたのである。
「さっき、体育の授業やってて。で、校庭で、六年生が体育やってたんだけど。……超イケメンがいた……イケメンの先生……」
「はあ?」
「あんな先生うちの学校にいなかったはず……ああ、異世界転移万歳。超好み。あたしの好み。好みが服着て歩いてた……爽やかイケメン教師万歳……うぼあ……」
「ちょっと何言ってるのかわかりませんけど……!?」
明らかに熱に浮かされた様子の真紀からどうにか話を聞けば、どうやら彼女は授業中からずっと上の空の状態で、外の体育の授業ばかりを見ていたらしい。そういえば、真紀の視力は両目とも2.0近いんだった、と思い出す唯奈である。どうやら、異世界転移した影響で、先生にも見慣れない顔がいたらしいのだ。それも、唯奈好みの、マツ●ュン似な先生が。
「あの先生に関して、LINEで情報収集したんだけど」
「おい授業中」
「うっさいわい。返事があるってことは他の子もLINEやってたってことでしょーが。……で、衝撃の事実発覚。あの先生は何年も前からこの学校にいる先生で、名前は都筑亮平先生。でもって……既婚。この間寿退社した松田先生が奥さんなんだってえ……」
はああああ、と、この世の終わりのように真紀は机に突っ伏した。正直、いくらイケメンと言われてもその先生は目の前にいないし、先生に本気で一目惚れしてしまうのは相当まずいと言わざるをえないのだが(そもそもこっちは小学生だし)。ぶっちゃけ、真紀の場合は珍しいことでもなんでもなかった。本気の恋かどうかはともかく、とにかくこの少女はイケメンという存在に弱いのである。特に大ファンである某アイドルに似ているともなれば尚更だ。
この調子では今日、肝心な話をすることなどできないか。唯奈がやや呆れ気味にそう思った時だった。
「唯奈!」
がばり!と突然顔を上げて、彼女は言った。
「あたしは諦めきれん!この恋だけは断じて!」
ああ、これは嫌な予感。いや、自分にとってはある意味僥倖なのだろうか。引きつった笑みで、どした?と応える唯奈。
「異世界転移、する!もしかしたら都筑先生に女がいない世界に転移できるかもしれん!」
わかりきっていたものの、まさかそういう理由で決意しようとは。唯奈としては、曖昧に笑うことしかできないのだった。
***
廊下はしん、と静まり返っている。授業中だから当然だ。僅かに漏れ聞こえるのは、授業を教える先生達の声ばかり。西校舎の階段下に今、人影はない。そう、聖也以外には誰ひとり。
――この世界じゃ、そんなおおっぴらな魔法使えないけど。それでもまあ、授業から抜けたことを気づかれないようにするくらいならできるしな。
聖也はゆっくりと、件のテレポートブロックに近づいていく。まるで血塗られたように、一枚だけ赤いタイルは。聖也の目には、僅かながらぼんやりと光って見えているのである。普通の人間には見ることのできない、魔力の気配。そっとしゃがみこんで手で触れてみれば、僅かにぬくもりを感じ取ることもできる。
「……困ったな」
はあ、と深くため息をついた。このタイルを置き土産していった魔女は、よほど遊び好きだったと見える。あるいは、何かの実験をしようとして飽きてしまい、このタイルだけを放置してどこかに行ってしまったのだろうか。いずれにせよ、傍迷惑に違いなかった。そのおかげで、世界のルールを脅かすようなとんでもない事態になりつつあるのだから。
普通の人間は、世界と世界を行き来するような真似などできていいはずがないのである。
魔女や魔術師がそれを許されているのは、異世界を渡るにおいて守るべきルールを熟知されているからであり、まったく常識の異なる世界でも自衛できるだけの強靭な魔力と精神力を持ち合わせているからに他ならない。
全ての人間は、己が産まれた世界で最も力を発揮できるように作られている。別の世界に渡れば渡るほどその本来の力は落ち、遠ざかれば遠ざかるほど強く削がれていくものなのだ。西欧風異世界に飛んでチートする、なんてこと、現実では到底不可能だと自分達だけは知っているのである。
――人の願いを集めて具現化してしまうタイル、なんて。よりにもよって、子供達が集まる学校なんかに設置しなくたっていいじゃねえか。くそ、願いが溜まりすぎて、これ封印にかなり時間がかかるぞ……?
このブロックは、異世界に渡るために作られたもの、ではなかった。
しかし、このブロックを見て誰かが「あれを踏むと別の世界に飛べそう」と言い出し、それがいつの間にか七不思議として定着してしまったことで本当にその力を持つようになってしまった経緯があるのである。
魔女本人も、この一枚のブロックがどんな力を持つかなど全く予想していなかったのだろう。だからこそ、良い暇つぶしになると思ったのかもしれないが。
――……嫌な予感がするなあ。これ封印している間に、絶対またやらかす奴が出るじゃねえか。俺も忙しいから、ずっと見張ってるわけにはいかねーってのに。
まあ、それもそれで運命か。心のどこかで、そう達観している自分がいるのも事実だけれど。
――どう転ぶのかねえ、あの子達は。……俺には関係ないことだけどさ。