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唯奈の家はマンションであり、同じマンションの子供達と通学班を組んでいる。朝いつもと同じ時間にエレベーターホールに降りてきた唯奈の顔を見て、顔なじみの班長の六年生、小川水依はいろいろ察したらしかった。
「どうしたん唯ちゃん。今日はえろう不機嫌やなあ」
ちなみに、水依は何も関西人というわけではない。わけではないのだが、親戚に関西人がいて一緒に話しているうちに関西弁に憧れ、うっかり真似をするようになったのだという。関西弁で話すとフレンドリーで楽しい気がするから!というのが本音らしい。
ちょっとオバチャンっぽい気質もあっていて非常に似合ってはいる。まあ、その関西人の親戚の前で披露すると、えらく叱られる結果にはなるらしいのだが。エセ関西弁というのを、本場の関西人が嫌うというのは有名な話である。
「うー……わかる?ご機嫌ナナメわかっちゃう?」
「わかるわかる。でもって、唯ちゃんがオカルト好きっていうのもよう知っとるからな。また何かおまじないでも失敗したんちゃうかなーって予想はしとるで!」
「なんでそんなピンポイントで当てちゃうかなあ、水依ちゃんは……」
全くその通りだった。昨日、あれだけ先生の目を盗んでこっそり学校に残り、実行した異世界転移の実験。テレポートブロックに乗っかって呪文を唱えたというのに、結局何も起こらなかったのである。呪文は間違えていないはずだった。ちゃんと調べて、ゆっくり確認しながら読んだのだから間違いない。
結局あれだけ期待したのに、唯奈と真紀は異世界に行き損ねたのである。ガッカリとしか言い様がない。まあ、今まのでおまじないも似たようなものえあったと言われればそれまでなのだけど。
「おはようございますうー」
そんな会話をしながら、いつもやや遅めに集合場所に現れる姉弟が階段を降りてくる。いつもしゃきしゃき動きのに朝だけは滅法弱い三年生の姉の柴田瑠々と、真面目だけどのんびり屋の二年生の弟の柴田陸々である。ちなみに、ゆっくりした口調ながら挨拶をしたのは弟の陸々の方だった。小さな弟に腕を引っ張られ、半分魂が抜けている姉は引きずられている状態である。普段は口数が多いのに、朝の瑠々は半分屍状態だ。弟がいない日はほぼ確実といっていいほど遅刻するというのだから、しょうもない姉である。
「る、瑠々ちゃん大丈夫?今日は一段とその、ゾンビ状態みたいだけど。蘇生魔法必要?」
「水依ちゃん、ゾンビって蘇生魔法かけると死ぬんじゃなかったっけ?トドメ刺しちゃうよ?」
「あれ、そうだっけ」
「気持ちは嬉しいけどー、この状態の姉ちゃんは何やっても無反応だからどうにもならないよおー。夜遅くまでチャットしてるせいだから、馬鹿だよねえー」
「おう、弟君はっきり仰る……」
普段の瑠々なら、弟にこのようなことを言われようものなら即座にキレて回し蹴りの一本でも決めるところだが。今の彼女は本当に、反応する気力もないらしい。まあ原因は単なる低血圧ではなく、夜ふかしの常習犯であるというのも原因らしいのだが。いくらチャットが楽しいからって、学校に響くほど遊ぶのはどうなのだろうか。
陸々はしっかりしたもので、半分屍状態で自分よりずっと身体の大きい姉をちゃんとホールのベンチに座らせている。小さいけどこういうところ男の子だよなあ、とついつい感心してしまう。勝気な姉も、もう少し弟君の朝のお世話に感謝していいのではなかろうか。ゾンビモードでなければ、弟に絡んだりけなしたりしてばっかりの姉を知っているから尚更思う。
「あとは一年生の徳田君と、五年生の藤澤君やね。でも藤澤君は風邪でお休みっちゅー話聞いとる、徳田君が来たら出発やな」
スマホで時計を見ながら水依が告げる。
「で、話の続きやけど。今度はどんなおまじないしたん?で、何失敗したん?」
「その話まだ続いてたのね……」
まだ時間があるし、雑談するには丁度いいネタではあるだろう。唯奈が昨日の流れを話すと、それなりに怪談は不思議話に興味があるらしい年上の班長は、ふんふんと頷いた。
「あー、七不思議のあれやな、うちも何度か聞いたことあるわ。せやけどテレポートブロックを実際に試したっちゅー人は初めて聞いたかも。あれやな、踏んで呪文を言うだけならみんなできるけど、時間が問題やな。夕方五時まで粘って実行するとかホンマめんどいし」
「うん。だから成果ゼロってのはね、ちょっと残念というかね……」
「しゃーないやろ、そう簡単に異世界なんてもんに行けたらかえって困るわ。だって、あの怪談、異世界に行く方法ってのはあっても、異世界から帰ってくる方法ってのは伝えられてへんのやろ?うちは嫌やわ、どんな異世界やろーと行ったきり帰ってこれへんのは。今生きてる世界に、よっぽど未練ないならともかくな」
言われてみればそれもそうだ。唯奈はメモを取り出し、再び確認してみる。確かに、異世界に行ける方法とは聞いていたが、行った異世界からどうすれば帰って来れるか、というのは誰にも聞いたことがないような気がしている。
ならば――失敗した方が良かったのだろうか。確かにこの世界はとても退屈で、異世界に逃れたいという気持ちはあったけれど。だからといって、二度と帰れなくてもいいかといえば、断じてそんなことはなかったのだから。
――まあ、いっか。……ちょっと残念だけど。
とりあえず、学校に行ったら真紀と反省会でもしよう。そして次のチャレンジのプランでも立てよう、そう決める唯奈である。
まさかその学校で、あんなイベントが待っているとは思ってもみなかったわけだが。
***
「おはよー……うぼあっ!?」
「唯奈!」
とことこと教室に入った次の瞬間、唯奈は真正面から飛び出してきた誰かさんと正面衝突する羽目になった。頭の中で星が飛び散る感覚というのはまさにこういうことを言うのだろう。ランドセルがなければ、背中を強かに打ち付けて文字通り意識が飛んでいっていたかもしれないところだ。
「あああごめん!ごめん唯奈!体格差ぁ!」
ぐらぐらと揺れる視界で、わたわたと叫んでいるのは真紀である。一体何がどうしたんだ、と唯奈はぶつけたオデコを摩りながら言う。喜怒哀楽は激しいながら、基本は落ち着いていることの多い友人が本気で慌てている。一体何があったというのだろう。
「真紀……私を殺す気なの?朝イチで廊下で気絶してるところ発見されるとか、ちょっとしょうもなさすぎて泣けるんだけど」
「ごめん!マジごめん!でもほんと大変なことになってるんだって!」
「何がぁ……?」
何だというのか、一体。唯奈を助けおこしながら、真紀は。
「知らない子がいるんだよ、クラスに……!」
唯奈の耳元で、囁いた。へ?とクエスチョンマークを飛ばす唯奈。知らない子?クラスに?真紀は一体何を言っているのか。今はもう七月だ。四年生になってからのこのクラスも既に四ヶ月目である。今更知らない子がいるなんて、流石にちょっと可哀想すぎるのではなかろうか。
ぐるぐる考えている唯奈を見て、話が通じていないことを悟ったのだろう。彼女はすぐ近くに人がいないのを確認して、はっきりと告げたのだった。
「そうじゃない、そうじゃないよ唯奈。……クラスにいるんだって。あたしらの知らないクラスメートが!」
「知らないって……」
「先月転入してきたことになってるんだよ、その子!あたし、あんな子初めて見たのに!みんなは知ってるっていうんだよ、こんなことある!?ねえある!?」
その言葉を、正しく理解するまで数秒を要した。
「……転入生?え?」
唯奈は立ち上がりながら――ふと、目に入ったのは廊下に張り出されている自己紹介カードである。四年生の今のクラスでは、全員が手描きの自己紹介イラストと紹介文を書いて、外に貼り出しているのだ。当然、そこにはクラス全員の顔と名前が存在しているはずだった。まあイラストの方は、画伯が何人もいるので「アレは顔なのか?」と首を傾げたくなるようなものも何人かいるのだが。
ふと目に入った先。一枚、妙に可愛い男子の絵があることに気がついた。それこそ、一度見たら忘れられないような類の絵が。
「……“桜美聖也”って、唯奈知ってる?」
追い打ちをかけるように、真紀が言った。やや引きつったような声で、唯奈が見つめる先の紹介イラストを指差す。
「あのちょっと可愛い系の男の子。先月転入してきて、毎日学校ちゃんと来てたんだって。でも、あたし、名前も顔も今日初めて見たんだけど……」
「……わ、私も、知らない。初めて見た」
「だ、だよね?そうだよね?」
これは一体どういうことなんだ。お互いに顔を見合わせる。一晩明けたら、見たことも聞いたこともない転入生が一人増えていた。こんな馬鹿な話があるだろうか。これはまるで――アニメやゲームであるような、魔法使いの転入生が、とか。みんなのことを幻惑して学校に紛れ込んだ、とか。まるでそういう流れを見ているようではなかろうか。
「うん、そりゃ正しい反応だ」
「!」
突然、すぐ近くから声がした。唯奈が慌ててみれば、自分達のクラスの教室入口に一人の少年が立っている。サラサラの黒髪に、ハーフのようにやや目の色が青い少年。ちょっと見ないくらいに綺麗な顔立ちの彼のシャツの胸元では、『美聖也』と書かれた名札が光っているではないか。
「やあ、『転移者』のお二人さん。俺が桜美聖也だ、『初めまして』」
そして彼は、にっこりと笑って告げた。
「もうすぐホームルーム始まっちまうからさ。続きは二十五分休みといこうか。……そこで、全部俺から説明してあげるよ。魔法使いの、この俺様がさ」