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唯奈のマンションから真紀の家のあるあたりまでは、歩いて十五分ほどである。学校までは、そこからさらに十分ほど。普段ならば大したことのない距離だが、オオトカゲに気づかれないようにそろそろと歩かなければいけない今は、その数十分がミッションのハードルを大幅に上げていることは言うまでもない。
まだ時間はあるが、零時までに確実に学校につき、どんな手段を使ってでも中に侵入しなければいけないという問題もある。最悪窓硝子を破って中に入るつもりだった。少々重いが、荷物の中にはトンカチ等の工具が入ったセットも入れてきている。場合によっては、武器としても使うつもりでいた。勝手に持ち出してきてしまい、両親には申し訳ないことではあるが。
――これが……今の、街の現状……。
ロボット達は活動しているので、僅かに電灯の類は道に灯されている。照らし出された街は、唯奈が知るそれとはまるで別の存在へと変わり果てていた。住宅地の半分ほどの家は、窓を完全に埋め立ててしまっているか、あるいは頑丈すぎるほど頑丈な雨戸や板が貼り付けられて封印されている状態。それ以外の家は、人が住まなくなったせいか朽ち果てて、屋根に穴が空いていたり壁が崩れかけている状態である。
唯奈も、木製の古い廃屋、というのは今まで何度か通りすがりに見たことがあったが。コンクリートのビルや家が、穴だらけ虫食いだらけ苔まみれになっているのは初めて目にしたように思う。人がいなくなり、手入れを怠った家はこんな風になってしまうのか、と少々恐ろしくなった。唯奈の知っている世界で、マンションの隣に立っていたおしゃれな紺色の屋根の二世帯住宅は――ボロボロになった屋根があちこち吹き飛び、壁は苔むして門には蜘蛛の巣が張っているような状態だ。地震でも起きたら一発で崩れてしまいそうなその家の隣を、唯奈はそろそろと早足で通り抜けていく。
自分達の自宅がある二丁目の付近に、オオトカゲらしき影はなかった。時折歩いている業務用アンドロイドが不思議そうにこちらを見つめてきたが、それだけである。当然、人影なんてものはない。だが、真紀の家の近くである五丁目に近づくほど、ズシン、ズシン、という地響きが断続的に響いてくるようになってきた。
間違いない。今、オオトカゲの一匹、あるいは集団は、五丁目の付近を獲物を捜して闊歩しているのだ。電灯が減った道では、遠い場所の景色はぼんやりとしか見ることができないが。伝わってくる、形容し難い鳴き声のようなものと大きすぎる足音で、徐々に敵が近いことが分かるようになってきていた。
――やっぱり、飢餓状態だから、夜でも眠ってないんだ。……せめて、相手が一匹だといいんだけど。
同時に、オオトカゲの子供は夜にこっそり起きてしまうこともある、とネットには書かれていた。子供のサイズもピンキリだが、それでも基本は人間の大人の大きさを悠に超えて来るのだという。一時的に麻痺させるだけのレーザー銃と、一度もそれを扱ったことのない唯奈の腕だけでどこまで切り抜けることができるのか。
――怖いけど……ものすごいハードな勝負だけど。でも、やるしかない……真紀を助けられるの、私だけなんだから!
真紀は、旧郵便局の近くに隠れていると言っていた。まずはそこまで、一人で辿りつかなければなるまい。出来ることなら、敵に見つかることなく、だ。
――そういえば。……私、生きてきて十年……本気で何かを頑張ったことなんか、なかったような気がするや。ほんと、こんなに必死になったの、初めてなんじゃないのかな。
可愛い見た目もない、モデルのようなスタイルもない、運動神経もダメならば成績も中の下レベル――そんな唯奈でも、昔は得意だと言えることが一つだけあったのだ。それは、絵。幼稚園の頃から、唯ちゃんは絵が上手いわね、と先生達に褒められ続けてきて、母も自慢げに唯奈の絵を自宅やら祖父母の家からに飾ってくれていたのである。唯奈も、幼い頃は、己には絵の才能があると信じて疑わなかったのだった。小学校に上がって、写生会やらなんやらをして、それこそコンクールに出すということになっても――きっと今まで通り、当たり前に一番が取れる筈だとそう考えていたのである。
甘くて幼い自信が打ち砕かれるのは、一瞬だった。
二年生のクラスの時。写生会の絵がコンクールに出されることになり、校内選考が始まったのだが。唯奈の絵は、金賞どころか銀賞も取ることはできなかったのである。選考に出されるのは、クラスで一人の金賞のみ。銀賞二人はある意味残念賞のようなものだったが、唯奈はその残念賞にも入ることが出来なかったのだ。
嫉妬さえ、抱かなかった。三人とも、確かに唯奈より素晴らしい絵を描いてきたのだから。特に、金賞の少年の絵はずば抜けていた。己の絵と比較しようとさえ思えなかったほどだ。
学校の校舎を、斜めの角度からしっかり遠近感を出して描かれ、かつ桜の鮮やかな桃色はまるで風に舞い踊るのが見えるかのよう。校庭を走る子供達は、とても小さくしか描かれていないのに、半端ない躍動感で見る者を圧倒する。ただの一枚の絵なのに、それが音声つきの動画で再生されるかのような臨場感。一体誰が、あれを小学二年生の水彩画だなんて思うことだろうか。
――ああ、負けた。上には上がいる、どこまでもいるって……そう思った。
得意なことではあったけれど、今では忘れたいほど、苦い思い出でしかない。自分より得意な人間などいくらでもいた。才能のある人間など山ほどいた。自分はけして、選ばれた天才などではなかったのだと幼くして思い知られたのである。
誰かに評価されるのがわかっているから、優れているのを知っているから頑張る。そんなもの馬鹿げていると、きっとあの聖也あたりなら言うことだろう。
でも、多くの人間は。向いているかどうかもわからない、人より出来るかどうかも定かではないことに本気で邁進できるほど、強くはできていないのである。結ばれる保証もない努力を続けることができる者が、一体この世界にどれだけ存在するだろうか。わかっている、最後に成功するのがきっとそういう人間であるのだろうということくらいは。でも、その成功者の何十倍、何百倍もの人間が失敗して立ち上がれず、屍のように転がっていることもまた事実であるはずなのである。
唯奈は、そんな息もできない屍の集団に埋もれたくはなかった。
だから、努力を恐れたのだ。そして、努力できる人間を、どこかで妬んでいたのである。努力なんてカッコ悪い、馬鹿げている――そうやって蔑み、馬鹿にすることによって。本当は、何かを頑張る勇気もない臆病者が一人、情けなく吠えているだけであったというのに。
そうやって耳を塞ぐのは、都合の良い異世界転生やチートを与えてくれるカミサマなんて現実にはいないことを、誰より理解していた結果であったのに。
――そうやって逃げて、逃げて、逃げたって……欲しいものは結局、一つも手に入らなかった。結局自分で自分を追い詰めちゃっただけだった。どんな場所でも一生懸命生きて、お手本を見せてくれる人はすぐ目の前にいたっていうのに!
「真紀!」
なんとか、郵便局までは辿り着くことに成功した。ポストの影にしゃがみこんで震えていた真紀は、唯奈を見ると、透明なヘルメットごしに、くしゃくしゃの泣き顔を見せて抱きついてきたのである。
「ゆ、唯奈!唯奈ぁ!ありがとう……来てくれて、ありがとう!怖かったよ、ほんと怖かったよお……!」
「大丈夫、大丈夫だよ真紀。ごめんね、きついこと言って」
「ううん、いいんだ。いいんだよお。だって、あたしだって本当はわかってたんだもん、わかってたんだから……!こっちこそごめん。本当に、ごめんね……!」
背が高くて美人で、姉御肌でしっかりしていいて、それでもオカルトやら不思議体験やらに理解がある素敵な親友。唯奈はずっと、真紀のことをそう思っていた。けれど、今、それは彼女が一生懸命周りに見せていただけのかりそめの姿であったことを知るのである。
いくら見た目が小学生離れしていても、言動がカッコよく見えても、彼女も結局のところ普通の小学生でしかなかった。弱いところがいっぱいある、臆病な一人の女の子であったのだ。
だが、そんな彼女に失望したとは思わない。むしろ、自分達が親しくなったのは、そういうところで通じ合えたからなのだと納得したほどである。そう、弱いことは罪ではないのだ。ダメなのは、その己の弱さや間違いを、認める勇気がないことである。
真紀はちゃんと、それを認めて謝ることもお礼を言うこともできる人間だ。だから、まだいくらでもここから這い上がれる筈である。唯奈がそうやって今、這い上がろうとしている真っ最中であるように。
「レーザー、落としちゃって……武器がないの。オオトカゲが来たらどうしようって思ってた。学校の付近、大人のオオトカゲも子供のオオトカゲもうろうろしてるから……」
どうやら、彼女が怯えている最大の理由はそこだったらしい。だが、銃は一丁しかない。唯奈はバッグから大きめのトンカチを取り出すと、真紀に握らせることにした。あくまで最終手段だが、こんなものでも無いよりはマシなはずである。
「万が一の時は、私ができるだけなんとかするけど……真紀も、これ持ってて。真紀の方が私より力あるし、怯ませるくらいはできるかもだから」
気休めかもしれないけれど、武器があるというだけで安心感は違うはずである。真紀は泣きながら、こくこくと頷いた。
「多分、異世界転移が完了するのは夜の零時だから。それまでに、儀式終わらせちゃわないと。あと一時間。行くよ、真紀」
「うん。……えっと、亜種の方の呪文使うんだよね?この世界がこれ以上悪化した場所に行っちゃったら、多分どうにもならないし……」
「その方が無難だと思う。だから……」
唯奈が言いかけた時だ。ギョアアアア!ともギョエエエエ!ともつかぬ奇怪な鳴き声がすぐ近くで響いた。
「!!」
郵便局は、線路沿いの道に則している。今はもう電車が通ることのない、ボロボロになった線路とフェンス。その道の向こうに、真っ黒な人影がのそりと動くのが見えた。
「やば……!」
ぎろり、と金色の眼が輝く。大きさは成人男性ほど。ゆえにまだ子供、だが。
それでも肉食の、オオトカゲであることに間違いはない。
「ギュアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
そいつは爪で硝子をひっかくような、不快極まりない声を上げ、ドシドシと二足歩行で突進してきた。まずい、と唯奈は思う。あれに襲われるのも大きな問題だが、これだけ声が大きいとなると――大人のオオトカゲを、呼び寄せてしまう可能性が十分にあるのではなかろうか。
「き、来た……って唯奈!?逃げないの!?」
「私達が行かなくちゃいけないの、アレがいる方向じゃん!それに、さっさとあのうるさい鳴き声黙らせないとでしょ……!」
怖い。太刀打ちできるかわからない。でも。
――今度こそ……生きるために。後悔しないために……全力で頑張るんだ、私だって!
唯奈はレーザー銃を構え、引き金に指をかけたのだ。




