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 この世界において、家を失うということは即ち、死を意味している。

 何故ならば自分達を有害物質と暑すぎる気候から守ってくれるものがなければ、人間など容易く干からびて死んでしまうからだ。それほどまでにこの世界の環境は過酷だった。玄関から出ようとして、夜とは思えぬほどの暑さに即座に引き返した唯奈は今、それを嫌というほど思い知っているところである。

 刹那感じたその暑さは、ただ暑いというだけではなかった。まるで、ねっとりと全身と喉に絡みつくような暑さなのである。まるで、外の世界はもはや空気ではない、見えないぶよぶよとしたスライムにでも覆われてしまっているかのようだった。それが玄関から出た途端、一気に唯奈の全身に襲いかかり、その暑苦しくてぬめっとした皮を肌に押し付けて吸い付いてきたような感覚を覚えたのである。暗いのに、太陽など出ていないのに、その不快感はとてもじゃないが言葉で言い尽くせる代物ではなかった。

 対暑スーツがなければ外に出てはいけないという意味が、はっきりと分かったように思う。呼吸をするだけで苦しい、そんな暑さがあるなんて、今まで想像もしてこなかったことである。


『オオトカゲは、基本的には夜活動しないけど……餌が極端にないから飢えてるし、極度に飢餓状態に陥った個体は死ぬ間際、意識も失えずに大暴れすることがあるんだって、お父さんが言ってた。そういう個体は、夜だろうと関係なく縄張りの内部を大暴れするんだって。それは、瀕死の仲間の死体を、別のオオトカゲが平気で食べるからそれを避けたいがためじゃないかって考察もあるみたいなんだけど……』


 最初は泣き叫んでいた真紀も、唯奈が宥めながら話を聞くにつれ少しずつ落ち着いてきたらしい。嗚咽を漏らしながらも、状況をゆっくりと説明してくれた。


『そういう個体は……特に大きな個体だった場合、本当に凄い暴れて、時には住んでいる人の家の破壊することもあるらしいの。だから、今のこの国は、裕福な人ほど地下に住むし、緊急用のシェルターも全部地下にあるんだって聞いた。あたしらみたいいな一般市民は、まだまだ地上に住むしかない状況ではあるんだけどさ……』


 時折聞こえてくる、鼻をすする音。


『それでね、たまたまね……あたしの家の近くだったんだよ、その極端に飢餓状態のオオトカゲってやつが出たの。……地響きが響いてたから、危ないんじゃないかとは言われてたみたいだけど。でもさ、だからって逃げる場所なんか、ないじゃん?そういう予報が出たからって、家で物音立てないように大人しくするしかないじゃん?……きっと大丈夫だって、あたし達助かる筈だって、そう思ってたのに……!』


 真紀の、一戸建ての家は。あっさりと、屋根に大穴を開けられる結果となってしまったという。

 ゴジラに襲われたみたいだった、と彼女は語った。もはや笑うしかない、という半泣きの声であった。


『大きな穴の向こうから、そいつが顔を覗かせてんの。トカゲっつーか、毒々しすぎる紫色の……カメレオンみたいな、やつ?カメレオンに、あんな鋭い牙みたいなのがあるかどうかなんて知らないけどさ。……そいつがいきなり舌伸ばしてきて、お母さん……くるって、巻かれて、そのまま連れてかれちゃって……あたし達、慌ててスーツ着て外に逃げたけど……他にもトカゲがいて、追われてるうちにお父さんとも離れ離れになっちゃって……』


 彼女の父は、真面目でしっかりした人物だった。予め、真紀に万が一の時の避難シェルターの場所というのを教えておいてくれたのだという。

 一番近い避難シェルターは、そう遠い場所ではなかった。ゆえに、彼女は命からがらそこまで逃げ込んだらしいのだが。


『知らなかった。……避難シェルターってさ、定員多くないんだね。……オオトカゲが暴れて家を壊された人、この近隣で結構続出してたみたいで……あたし、入れて下さいって土下座までして頼んだんだよ?でも、もういっぱいだからごめんなさいって……寝るところも食料も水も足らないから無理ですって言われて……入れて、もらえなくて、さ……』


 それ以上、真紀は語ることができなかった。本格的に泣き出してしまった彼女の声に、唯奈は悟る。他のシェルターへ移動するのには当然危険が付きまとう。しかしもう、真紀にはそこまで行くだけの気力も勇気も失われてしまったのだろう、ということが。

 心が折れてしまえば、どうにもならない。

 実際他のシェルターに移動したところで、そこも満杯だったらまた門前払いだ。唯奈は知っている。そんなことを繰り返しても次を試せるほど、彼女は強い存在ではないということくらいは。何故なら、彼女の本質はあまりにも唯奈に似ているから。それがようやく、わかってきたところなのだから。


『どうすればいいの。ねえ、どうすればいいの唯奈。……今は夜だから、スーツ着てればギリギリ外で動けるけど、昼になったら……スーツを着ていても、耐えられる気温じゃなくなるって聞いてる。それに、あのオオトカゲ達ももっと活発に活動するから、焼けて死んじゃう前にトカゲの餌になるのは目に見えてんだよね。お父さんの安否もわからないし、スーツも着てないでさらわれたお母さんなんてもっと生きてるかなんてわからない。他に頼れる人なんかいないの。あたし、どうすりゃいいのか全然わかんない……お願い、唯奈。助けて……助けてよぉ……!』


 きっと彼女はパニックで、冷静な判断ができる状況ではなかったのだろう。きっと唯奈も、逆の立場なら同じくらい混乱して身動きが取れなくなっていたはずである。落ち着いた判断ができず、友人に助けを求めるしかない彼女のことを、一体誰が責められるのか。

 そう、わかってはいる。でも、唯奈は。


――私、もう気づいたんだよ……真紀。真紀はまだ、わかってないかもしれないけど。もうちゃんと認めてるの。間違ってたのは、私達の方だったって。これから私達は、一体どうしなくちゃいけないのかってことくらい。


 言わなければいけないと、知っていた。

 それは他ならぬ――真紀がこれからも生きていく、生き抜いていくそのために。


『真紀。……考えるの。私も全然、人のことなんか言えないけど。でも、考えるしかないの。これからは、誰かに頼らず……答えを、自分達で出すしかないんだよ。もう、楽な方向に都合よく逃げる方法なんか、存在してないんだから。生きるためにどうするべきか、もう真紀なら本当はわかってるんじゃないのかな』


 生きるには。

 生き残るには。

 もう世界を捨てて逃げればいいなんて、そんな考えはゴミ箱に投げ入れなければいけないのだ。

 どんな世界であれ、その世界を真剣に戦う覚悟がない者に、きっと本当の意味での朝など来る筈もないのだから。


『もう、楽な選択肢なんかない。どんな選択をするにしても、覚悟を決めなくちゃいけない。……真紀。生きるためにはもう、努力なんかしたくないなんて贅沢言えないんだよ。もう私達が、私達の力で頑張るしかないんだよ』

『……テレポートブロックを試せば、まだ生き延びられるかもしれない。それは、わかってるよ唯奈。でも、もしかしたら、今度こそ次の世界は……』

『今度こそ、次の世界で最後かもしれない。今までで一番酷い、救いようのない世界かもしれないよ。そんでもって、テレポートブロックを使うためには学校まで逃げるしかないし……正直、もう夕方の時間は過ぎちゃってるから、呪文を使っても効果があるかどうかはわからない。そこまで辿りつくには、オオトカゲに気づかれないように全力で逃げて生き延びるしかない』


 それはあまりにもリスキーで、確率の低い賭け。


『……でももう、私達、どっちにするか選ばないといけないんだよ。この世界で生きる覚悟をするか、別の世界がどんなものであれ受け入れて前に進む覚悟をするか。真紀がもうこの世界で生きられないなら、もう一つの方の覚悟をするしかないよ。どんなに怖くても、どんだけ大変でも、それこそ……命賭けでも』


 唯奈だって本当は、ちゃんと覚悟を決められたわけではない。恐怖心はある。スーツをもたつきながら着込む足はガタついているし、ヘルメットを被る手はどうしようもなく震えているのも事実だ。でも。

 何故か、真紀を見捨てるという選択だけは思い浮かばなかった。友達をここにきて見放すなんて考えることさえできなかった。――自分のそんなところだけは、きっと褒めてもいいじゃないかなんて、今はそんなことを思うのである。


『そんな覚悟、決めらんない……決めたくないよ……あたし、あたしだってさ、だってまだ……』

『小学生だから何?もうそんな言い訳通用しないよ真紀!腹括りなよ!!』


 唯奈は電話口に向けて、叫んだ。みっともなく恐怖に歪んだ顔を、怯えそうになる声を隠すように、激情を込めて彼女を叱咤したのである。


『小学生でも幼稚園児でも関係ない、この世界の人たちはみんな一生懸命この世界の運命と立ち向かって生きてんの!なら、あたし達にだってきっとできるよ。できなくたってやるんだよ!それしかないんだよ、真紀!!』


 カチリ、とヘルメットが嵌る音がした。

 異世界転移が完了するのは、夜中の零時である確率が高いと踏んでいた。だから自分達はなんとしてでも学校に駆け込んで儀式を試し、零時を過ぎるまでは生き延びなければいけないのだ。たとえオオトカゲに見つかり、あと何時間かを逃げ回らなければいけなくなったとしても、である。


――一方通行。片道切符。……本来なら、どんなことでもきっとそう。やり直すことはできるけど、それは過去に戻ることじゃない。未来に向かって、新しい人生を生きなおすことしか人にはできない。許されていない。……だからこそ、人生には意味がある。


 きっと、自分達は元の世界に戻ることはできないのだろう。

 新しい世界が、この世界よりもマシである確率は、そう高いものでもないのだろう。

 それでも、生きたいならば。生きて幸せになりたいという気持ちが少しでもあるのなら。どれほど未知数だろうと、絶望的だろうと――前を向いて、歩いていくしか道はないのである。


――行こう!


 スーツをしっかり着たことを確認し、腰にレーザー銃を挿し、使い方をしっかり確認した後――唯奈は家を飛び出した。

 友人を助け、自分達の終着地点となる世界に向かうために。そして今度こそ、その世界を本気で生き抜くために。

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