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外に僅かな時間しか出られない環境で、一体どうやって人々は生活しているのだろう。唯奈はとりあえず、何日かはこの世界をちゃんと見てみよう、と決めていた。今すぐ命の危険があるという世界ではないからだ。
勿論酷い環境になっているのは事実であるし、そういう意味では正直前回の世界より確実に悪化しているのだけれど。安全圏があるから、というだけで安心して甘えるのは間違っているというのも、わかってはいるのだけれど。
世界を捨てる前提でばかり見ていて、その世界のことときちんと見てもいなかった己に気づいてしまったら――もう、見て見ぬフリはできなかったのだ。
勿論そんなことをしたって、最終的に異世界転移を実行するのなら同じではないかと、あの聖也には言われるかもしれない。数日粘ったくらいでは、一生懸命その世界を生きたことになどならないだろう、と言われても間違いではないだろう。でも。
――それでも、これが……ただの、弱い小学生でしかない私にできる、精一杯だから。その精一杯だけでも頑張ってみようって、そう思うだけ……何かは変われた筈だって、そう信じたいから。
「今の世の中ってすごいね」
真紀と話したのは、午前中だった。父が自宅で仕事をしているので、昼ご飯は必然的に家族三人揃って食べることになる。唯奈はその時、それとなくこの世界のことを知るために両親に水を向けてみたのだった。
「外に全然出られない状況なのに、お仕事もできるしご飯も食べられる。ロボットが頑張ってくれてるからだっていうけど、よくあんな暑さに耐えられるロボットが作れたなって思うし」
「そりゃ、今の科学技術は凄いからな。何十年か前にはロボットが人間に変わって仕事をするようになる時代は近いみたいな預言がされていたけど、まさにその通りになたわけだ。心を持つとまではいかなくても、人間に限りなく近い思考やできるAIの開発もここまで進んでる。同時に、水に強く暑さ寒さに強く衝撃にも強い、そんなロボットのボディも開発されてきた。きっとこれからもっともっと進化していくぞ。唯奈はニュースとか全然見ないんだろうけど、この間ノーベル賞を取った科学者にも凄い人がいてな……」
「へえ……」
唯奈の父は、文字通り喋りだすとまるで止まらない人である。とにかく知識を吸収するのに貪欲で、面白いと思ったことならば科学からアニメまで幅広く調べて調べ尽くす質なのだと言っていた。そんな彼のことが、ずっと苦手だった唯奈である。いつも自分が知らない知識をどんどん披露して得意げな父に、唯奈はどこか己が馬鹿にされているような気分になってしまっていたのは否定できない事実だ。
それは多分。自分は父のように一生懸命になることもなければ、本気で何かを楽しんだこともなかったからなのだろう。今ならそれがわかる。自分は父にただ嫉妬していただけだと。どれほど仕事が忙しくても、生活が苦しくなっても――どんな時も笑顔で、何かを楽しむことをやめない父に。彼が話すのを聞いているとまるで、己が退屈な生き方しかしていないことを真正面からぶつけられているような、そんな気にしかなからなかったのだから。
――……そんなパパは。前の世界で多分……あの宗教団体みたいなのに捕まって、酷い目に遭ってたのかもしれないんだよね。
食卓に並べられた唐揚げをつまみながら、唯奈は思う。父がもしかしたら殺されていたのかもしれない、世界。そう思うと、命を落とすことになってしまった瑠々と陸々には申し訳ないけれど。前の世界よりは、なんてことを思ってしまうのである。
「お肉も値上がりしちゃったし、味わって食べてよね」
そんな唯奈を苦笑気味に見つめながら、母が言う。
「地下施設でニワトリを一生懸命育ててるみたいだけど、やっぱり外が使えた頃と比べると……地下施設の建設も設備もなかなか足りてないみたいなのよね。需要は高まる一方なのに」
「外ではもう、ニワトリさんを育てたりとかできないんだよね……」
「そうね。日陰であっても、北海道でも、真夏の気温は軽く四十度に届いちゃうんだもの。地熱で言えばもっと高いそうよ。とてもじゃないけど、地面に近い場所を歩くニワトリが元気に過ごすことなんかできないのよ。病気も流行してるしね。今の紫外線って、昔と比べて相当強くて悪質だっていうじゃない?外に出る時は専用のスーツを着て、クリームをきちんと塗っていかないといけないくらいだし」
ちらり、と窓の方を見つめる母。その眼はどこか、さみしそうにも見える。
「確かに、お父さんの言う通り科学は進歩したけど。その進歩の代償が環境破壊だと思うと、やるせないわよね。温暖化が酷くなって、地球全体が焦熱地獄みたいになったせいで……人間は生きるために、オゾン層の破壊だの二酸化炭素だのを気にすることもできず、ガンガン冷房かけて対策して頑丈な建物や地下に閉じこもるしかできなくなったんだもの。で、さらに環境が悪化していく。悪循環だけど、こうなっちゃった以上どうしようもないわよね」
やはり、真紀が言った事は正しかったらしい。唯奈は、自分達の世界でも散々聴いていた“温暖化問題”を思い出し、苦い気持ちになった。
この世界には、唯奈達の元いた世界にはない科学技術が山ほどある。自分達の世界より進歩しているのはまず間違いないだろう。五十度の気温に耐えうるようなアンドロイドの大量生産など、今の自分達の技術ではきっとできないことであっただろうから。
しかし、その反面、環境破壊の悪化ぶりは自分達の世界の比ではない。まるでこの世界は、自分達のいた世界の未来を象徴しているようだと思った。実際、カレンダーを見ても自分達の世界と同じ日付であるかどうかなどわからなかったのだから仕方ない。実際本当に近未来だ、と言われても納得してしまうところはある。
――環境問題なんて。学校の授業で散々聞いてたけど……ちゃんと勉強しようと思ったことなんか、無かったな。
環境を守ろうだの、エコだの。そういうことをするべきらしいということは聴いていても、だから自分で何かをしようなんて、思ったことはなかったのである。環境に優しいから冷房を控えましょうだとか言われても、“自分一人我慢したって意味なんかないじゃん”と思ってきたし――川を汚さないようにしましょうと言われても、落ちているゴミを自分で拾おうなんて思ったことはなかった。時には、ゴミ捨て場まで行くのも面倒になって、お菓子の袋などをこっそり道端に捨ててしまったこともあったほどである。
努力なんか意味がない。意味がないことなどしたくない。そんな怠惰で臆病な性質は、きっとこのへんにも現れていたことだろう。
自分だけが頑張っても、気をつけても、どうせ意味がないのなら。逆に自分一人が何かやらかしたことろで、大して環境を悪化させるような結果にもならないというのなら。少しくらい、悪いことをしたって、良いことをしなくたって関係ない。そうやって思う人間が百人や千人になれば、大きく状況を変えてしまうということさえ、気付くことはなく。
――私がいた世界も。……もしかしたら、この世界みたいに悲惨なことになっちゃうかもしれないんだ。私みたいな考えの奴が、千人や万人と集まれば、もしかしたら。
こんな風になってしまった世界に、果たして未来などあるのだろうか。一気に暗い気持ちになってしまった唯奈に、だけどな、と父が話を続ける。
「世界を元の環境に戻そうって、頑張ってる人たちはいるんだ。確かに温暖化は進んでしまったし、環境破壊のせいで地球上の森林は本当にわずかなものになってしまったけれど。それでも、再び地球を、人間が安全に歩ける緑豊かな土地にするために研究を続けている人たちは確かにいるんだよ」
「そうなの?」
「そうともさ。地下施設で森林を育て、地球上の二酸化炭素濃度を緩やかに下げつつ、太陽の熱を放射しやすくする物質をいくつもの研究施設が開発中なんだ。同時に、私達が使うエアコンなども、新しいエネルギーを使ってエコに動かせるようにどんどん改良が進んでいる。既に取り返しがつかないこともあるだろうが、全部が取り返しつかないわけじゃない。私達みんなが過ちを認め、それを取り返すために努力をすれば。過去には戻れなくても、新しい未来を切り開くことはきっとできるはず。少なくとも、俺はそう信じているね」
「……新しい、未来」
「父さんがやっている仕事も、それにちょっとだけ貢献しているんだよ唯奈。環境改善のためのロボットを、世界中に売り出す営業だ。まだまだ成果を認めてくれない国や企業は少なくないが……それでも父さんと、父さんの会社は諦めるつもりはないんだぞ。この地球を、唯奈の子供や孫、その孫の孫の代まできちんと残していくために、できることはちゃんとしないといけないからな」
な!と笑う父には、まるっきり悲痛な顔など見えなかった。人が安全に外を出歩けない世界。機械の力に頼らなければ、地下に篭らなければ、暮らしていくことさえもままならない世界。それなのに、彼は未来を悲観してなどいないようだった。むしろ、これから先はもっと良くなるだけだと本気で信じ、努力しているようにしか見えないほどで。
それは唯奈が、今までずっと逃げてきた――何かに本気になり、真剣に生きる姿そのもので。
――私は。……今まで、パパの何を見てたのかな。こんなに頑張って、道を示してくれる人が……すぐ目の前に、いたのに。
こんな世界なんか、と思っていた。こんな世界で生きることなどできないと。自分達の世界と違うのだから、捨てても全然構わないと。聖也の話を聴いてなお、まだ心のどこかでそう思っていた自分がいることは否定できない。でも。
自分達が「酷い世界だ」と思い込んだ場所であっても、一生懸命生きている者達が確かにいる。
彼らにとっては、この世界こそが全てなのだ。都合の良い異世界に逃げる選択肢など彼らにはないし、そうしようなどとは思わないくらい、この世界で生きることに一生懸命であるのだから。
――一生懸命、生きてる。生きてたんだ。……今まで、私と真紀が捨ててきた、他の世界の人たちも。……ひょっとしたら、私達に強引に場所を奪われてしまった……本来この世界で生きていたはずだった、この世界の『私達』も。
唯奈はぎゅっと、机の下で拳を握った。
元の世界に帰りたい気持ちは、確かに強く存在している。けれど、あったかもしれない引き返す道は、自分たちの手でとっくに破り捨ててしまった。きっともう、奇跡でも起こらない限り、かつていた世界に戻ることなど二度とできはしないのだろう。
同時に。またテレポートをしたところで。次の世界が此処よりもマシである保証なんてない。嫌というほどそれを思い知ってしまっている。ゆえに、自分達はまだ選択肢があるうちに、自分達の手で選ぶしかないのだ。
この世界で生きるか。
それとも僅かばかりの奇跡的確率に賭けて、最後かもしれない異世界転移を試すか。
「……パパ」
揺れる心を隠し、唯奈は精一杯微笑んだ。この世界で、一生懸命を見せてくれた――愛する父に向かって。
「最高に、かっこいいね。私も、パパみたいになれるかなあ」
なれるかな、ではない。なりたいなら、大嫌いなはずの『努力』をするしかないのだ。
今度こそは、自分自身の存在を賭けて。




