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自分達は甘かった。唯奈にとって、それはもはや否定しようのない事実である。
ちょっと転移するだけなら、予想だにもしないような恐ろしいことなど起こらない。起きないはずだ、なんて楽観視していた。それなのに、「もしかしたらアニメやライトノベルで見たような、夢のような魔法の世界に行けるかもしれない」なんて、そんな矛盾したことを心のどこかで夢に見ていたのである。
現実にはそんな、都合のよい展開も救世主もない。
むしろそれがわかりきっているからこそ、不思議な出来事や異世界を夢想して逃げてばかりいたのだというのに、だ。
「――……」
唯奈は恐る恐る、眼を開く。一見すると、目にみえた景色にさほど変わりはないように見えた。いつもの唯奈の部屋だ。白い天井に、丸いLEDの電灯がぶら下がっている。煩く鳴り響くスマホのアラームを止めて、唯奈はやっと異変に気づいた。
そういえば、どうして自分は部屋の電気をつけっぱなしで寝ているのだろうか。
それに、カーテンの柄が違う。ピンクの花柄だったはずのそれが、分厚い真っ黒なカーテンに変わっている。
――……ああ、嫌な予感しか、しないや。
窓を開けるべく、カーテンを開いてみれば――そこに現れたのは、見慣れない真っ黒な窓だ。ガラスの向こうに、黒い板のようなものが貼り付けられている。しばし考えて、それが祖母の家で見たことのある、いわば雨戸と呼ばれているものによく似ていることに気がついた。
こんなものは、自分の家には取り付けられていなかったはずである。こんなものを閉めていては、外の光を取り込むことなどできないではないか。唯奈はそろそろと窓枠に手を伸ばして、そして。
「あっつ!!」
思わず、叫んでいた。まるで火で炙られたかのように、窓が熱くなっていたのである。ガラスも、長く触ってはいられないほどアツアツに熱されているではないか。どうして気づかなかったのか。近付くだけで、これほどまでに熱気を感じるというのに。
――……何が、起きてるの……!?
ゴウゴウと耳慣れぬ音を拾い、唯奈は振り返った。そこには見たこともないほど大きなエアコンが取り付けられ、室内にガンガンに風を送り込んでいるのが見える。適温だと感じていた己の部屋の温度は、あのエアコンによって保たれていたのだと悟るには十分だった。
――今度のセカイは……。
この時点でも、悟らざるを得ない。
自分達はまたしても、望んだ世界には来られなかったのだということを。
窓の向こうでは、明らかすぎるほどの異変が起きているらしいということを。
―――どうして、悪い方向にばっかり行くの。……やっぱり、これが……私達への罰だってことなの?
ふと見つめた先には、壁にかけられている一枚のカレンダーが。
記憶通りであるならば、今は西暦2019年、令和元年であるはずだった。しかし。
『神暦158年 栄願12年 14月3日』
こにはもう、唯奈が知っている――年号さえ、ない。
***
『学校の建物は、存在はしてるらしいよ。今は誰も使ってないみたいだけど』
電話先で、真紀が暗い声を出した。
『このセカイは、地球温暖化があたし達が知っているよりずっと悪くなったセカイ……みたいだね。おかしな宗教団体とかは前のセカイみたく存在しないけど、夏場は外にほぼ出られないくらい気温がやばいことになってるって。酷いと外の気温は50度越えるらしいよ。そりゃ、雨戸も固定しちゃうよなぁ……』
「だから、みんな外に出なくていいように、学校の教育とかも全部通信制になってるんだね。学校の建物も、使われなくなってから外で放置されてそれっきりってことでしょ?」
『そう。……外に出るのが危ない今の時期は、危ない仕事はみんな耐熱アンドロイド頼み。人間はみんな屋内にこもって活動してる状況。暑すぎてやばいから窓も開けられないし……エアコンフル回ししなくちゃいけないから温暖化はますます悪化する一途だって。……外を確かめようと玄関に行ったところで母さんに鬼の形相で止められたよ、死ぬ気かって』
「…………」
うまくいかない、どころではない。
確かに、あの謎の宗教団体が政権を取り、危ない独裁を始めた世界から逃げることには成功したようだ。政権の名前だけは、唯奈が知っている政党に戻っていた。ただし、天皇陛下の名前が違うので年号も違うし、どうにも前の政権に得体の知らないものを挟んでしまったからなのか西暦が一切使われていない。西暦という考え方はまだ残っているようだが、実際のカレンダーで使うと罰を受ける状況であるようだった。
温暖化の影響が特に劣悪だった国は、土地が使い物にならなくなり次々涼しい地域に人々が逃げ出しているのだという。日本はこれでもまだ人が住める状態であるらしかった。数年前には暑い地域から逃げてきた難民が押し寄せて大変なことになったらしいが。やや悪化した現在でもまだ、日が落ちてくれば多少外を歩けるような温度にはなるのだという。それも、いつまでもつか、という話ではあるらしかったが。
「……紫外線がやばくなったのか、何か危ないものでも飛んでるのかは知らないけど……今は大きな争いがないかわりに、病気になって死んじゃう人は少なくないみたいね。ママから、話をいろいろ聞いたんだけど」
マンションの住人と顔を合わせる機会も極端に減った。今はほとんど内部の通信機能だけでしか、お隣さんとも御近所さんとも顔を合わせない。父も外に仕事に行かず、在宅で出来る仕事だけを任されている状態であるようだ。外で働くアンドロイドを動かす業務だけは、人間がやらなければいけないからである。
仕事をしている父が休憩を取ったタイミングで、唯奈は外の様子を写した写真を見せてもらったが。見慣れたはずの町並みが、すっかりゴーストタウンと化しているのは恐ろしい光景だった。人が外に出なくなった町は、ぴっちりシャッターや雨戸が閉まった建物か、窓さえもない建物ばかりが存在している。そしてそれ以外の店などは放置されて廃屋となり、風化して寂しい姿を表に晒していた。
ひび割れたコンクリート。
草の一本も生えていない空き地。
ボロボロになって今にも崩れ落ちそうな学校に、乾いた泥がこびりついた状態で放置されている屋外プール。
人の業が作り出してしまった、灼熱の大地。
そこがもう、人がまともに住める場所でないことは明らかだった。そして。
「うちのマンションで……通学班で一緒の子に、柴田瑠々ちゃん、柴田陸々君って姉弟がいるんだけどね。……朝起きたらその子達、何年か前に病気で死んじゃってることになってた……」
『そう……なのか』
「うん。……あたし達、確かに今までとは全然違う世界に来れたけど。心のどこかでこうなるかとしれないって、ちょっと予想はしてたの。……覚悟もなくて、努力もしないで、異世界に逃げることばかり考えてたら……都合のいい、素敵な世界なんてきっと神様は用意してくれないんだろうなって」
聖也の言葉を聞いて反省しても、自分達の本質が変わったわけではなかった。
まだ心のどこかで甘えはあったし、新しい呪文があるなら大丈夫だという楽観視があったのも否定はできない。
だがそんな甘い幻想は、この世界で一気に打ち砕かれた形となった。夕方になれば多少は気温が下がるとのことなので、多分頑張ればもう一度転移することも可能なのだろう。でも、今度はただ学校に行くだけではない。恐らくは今度こそ自分達は――テレポートブロックを使って異世界へ飛ぶために、灼熱の大地を歩くという意味で努力をしなければならないのだろう。
そして。もう一度飛んだら今度こそ、そのセカイが最後かもしれない。
というより、心のどこかで確信している己がいるのだ。きっと、次の転移で最後になると。
「……真紀。少しだけ。ちょっとだけ……このセカイを見てみない?今までのように、一日だけで捨てるんじゃなくてさ。それで、本当に飛ぶべきかをちゃんと考えようよ」
『本気で言ってる?ここ、あたし達の世界なんかじゃないんだよ?』
「そうだね。でも今まで生きてきた私達の世界を捨てたのは、私達だよ。……そしてこんな世界でだって、頑張ってる人はいるんだよ。私達みたいに、逃げようとしたりしないで、さ」
『…………』
この世界で生きる覚悟なんてものはできないかもしれない。
でも、少なくとも――危なくて怖い世界だ、なんて一括りにして、そこで生きている人達のことを知ろうともせず逃げ出すよりは。たった一日でも二日でも、出来ることはあるのではないかと思うのである。
「やってみよう。一日だけでも、さ。とっても、怖いけど」
もうきっと、聖也は現れてくれない。縋る存在も忠告をしてくれる存在も来ない、だから。
自分達で導くしかないのだ。例えそこが、望んだ場所とはかけ離れていたとしても。




