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第48話

「……名前、ですか?」

「はい。若葉自身の名前です」

 二人しかいない広々とした空間はとても静かで、声がよく通った。

「組織に属して以降も本名を使用するか、新しい名前を使用するか。大きく分けてその二択となります」

「名前を変える必要があるんですか?」

「あなたが必要があると思えば、変えてください。名前を変える理由は、主にあなたの身を守るためです。例えば、あなたがこの組織を抜けたいと考えた場合……」

 若葉はこの組織に入ったばかりだ。そんな未来はとても想像出来なかったが、黙って林檎の説明に耳を傾けた。

「本名を使用していた時、組織から逃げたあとの生活が困難になるでしょう。名前が割れていれば、関わる人も限られ、至る所に足が付くことになります。……要は、わたし達を敵にまわすような何かがあった場合を危惧するのなら、本名とは別の名前を使用した方が都合がいい、ということですね」

「朱宮さまはそれを許容しているんですか?」

「そうですね、自衛のために予防線を張っておくことは、悪いことではありませんから」

 林檎は「それに」と続けた。

「他の理由の場合もあります。例えば抗争現場で名前を出されて何か不利に働く要素がある場合。他の人に悟られないようにこの組織にやってきた場合。死亡したと認知されている人間を引き入れた場合。……心理的な理由の場合もあります。以前の名前が嫌いだったとか、組織内と組織外で別の人間として生きていきたいとか」

 組織には様々な人間が在籍していて、その数だけ事情が存在する。名前を変える理由も、名前を変えた人数分存在するのだろう。そして、林檎はそんな人間達の事情と感情を汲み取り、希望を叶えている。

(やっぱり、朱宮さまって……)

 平然とした顔で答えを待つ少女を、まじまじと観察する。……彼女の心の内は、若葉には読むことは出来ない。彼女はいつもその本心を何重にも覆い隠している。それでも若葉や梅、そして組織員達に対しての彼女の対応からは、隠し切れない優しさが滲み出していた。若葉は最初、それを『腑抜け』だと思っていた。甘えであり、弱さなのだと。しかし、今はそうは思わない。彼女はきちんと組織としてのメリットや未来を第一に考え、その上で行動を起こしている。若葉を殺さなかったのは梅の事情を解決した上でこの組織の戦力になると見越したからだろうし、梅を殺さなかったのも射撃の腕を高く買っているからだろう。名前を変えることだって、新人の意向に沿うことで満足感と信頼感を与えられるのに対して、組織にとっては大きなデメリットがないと計算した上でのことだと推測できる。彼女はただ感情に流されているわけではない。きちんとすべてを天秤にかけた上で、そこにそっと優しさという重りをのせている。気付かれないように、こっそりと。……これを『腑抜け』だと思わなくなったのは、新しく生きる意味を見つけ、新しい居場所を得られたからこそなのだろう。文樺を喪ったばかりの自分では、きっと林檎の優しさを受け入れることは出来なかった。

「組織から逃げようとかは全く思っていないですけど……」

 若葉は林檎の言葉を一考しながら、そう前置きをした。この言葉は本心だ。若葉はこの組織を新たな居場所だと考えている。未来に何があるかはわからないが、骨を埋める覚悟でここに立っている。

「新しい名前を使いたいです。ここで、新しく生きていくって決めたので」

 林檎は穏やかな顔で、こくんと首を縦に振った。

「名前は……自分で考えるんですか?」

「それも人によって様々です。自分でつける方もいれば、わたしに名付けを頼む方もいます」

「じゃあ……朱宮さまが決めてください。私は組織の名付けをしたので、私の名前は朱宮さまに決めてもらいたいです」

 林檎はその言葉をきいて、僅かに目を丸くした。そして少し思案するように、顎に手を当てて視線を逸らした。若葉は口を挟むことなく、その小柄な身体を見守った。

「……『椛』」

 彼女は鈴のような声で、ぽつりと零した。顔をあげ、真っ直ぐと目の前の少女を見上げる。

「……モミジという字を書いて、イロハと読みます。主に会社時代に多く付けられた名前です。あなたの今後の役割を考えれば、きっとこの名前は役に立ちます。わたし達の組織を象徴するような名前ですが、音からはそれに気付かれにくいでしょう」

 林檎の中では、新しく加入した少女を活かす計画が既に何やらあるらしい。

「どうでしょう? 別案も、考えますが……」

 彼女にしては大層珍しく、おずおずとした様子で付け足された。語尾が小さく消えていく。そんな彼女の前で、アイボリーのふわふわの髪を揺らして首を横に振った。きらきらと輝く瞳を、自身の長へと向ける。

「私、気に入りました。今日から私は、椛です」

 この瞬間、若葉は椛へと色付いた。林檎は椛の弾んだ声をきいて、安心したように微笑んだ。その時、扉の奥、廊下側からくぐもった足音がきこえてきた。複数人の足音だった。会議に参加する者達が到着したのだろう。林檎と椛は顔を一度見合わせてから、一番奥の席へと向かって足を踏み出した。窓から差し込む陽射しを浴びながら、小さい長の後をついていく。新しい居場所、新しい組織。周りを彩る、大切な人達。椛は歩きながら、未来への期待に満ちた目を窓の外へと向けた。丁度近くの木から小鳥が飛び立ち、晴れ渡る大空へとその身を溶かしていった。




 文樺が死んだとわかった時、若葉の世界は一度死んだ。絶望のどん底に叩きつけられ、暗闇の中を必死にもがくばかりだった。文樺という光を失った世界に、若葉の希望はなかった。生きる意味も、居場所もなかった。文樺のためにしか生きられない若葉は、復讐や心中で文樺のために死のうとした。大切な人のためになることをしようとして、けれど大切な人が望むことがわからなくなった。結局何も出来なくて、自分の無力さを痛感した。足掻く先は虚空を掴むばかりだった。

 文樺が若葉に願うことは『生きて欲しい』ということだと気付かせてくれたのは、桜だった。『大切な人を守りたい』という新たな生きる意味を芽生えさせてくれたのは、梅だった。大切な人に関わりを持たせ、大切な家に招いて若葉に新たな居場所を与えてくれたのは、林檎だった。若葉にも、新たな大切な人達が出来た。文樺と同じ、喪いたくない、愛しい存在。彼女達を守ることが、若葉の新たな生きる意味となった。きっと優しい文樺は、そんな若葉の気持ちを嬉しく思って、応援してくれているだろう。彼女は若葉の、そういうところが好きなのだから。この世界に、再び希望の光が見えた気がした。椛はきちんと、それを掴んだ。

 世界が変わったのは突然だった。しかし今は温かな光のもとで、懸命に生きようと前を向いている。大切な人達に囲まれ、新しい名前で、笑みを浮かべて。きっと文樺が望んだ景色が、ここに広がっている。椛は満ち足りた表情で、小さくはにかんだ。




 林檎の率いる組織、『レッド』。『ブルー』と『ラビット』と鼎立する、『情報』を武器とする頭脳派集団。その新しい一員となって、若葉は美しく、そして鮮やかに色付いた。その葉色はきっと、誰よりも強烈な紅色だ。

 生きる意味を見つけた葉は、この抗争ばかりの世においてもどの花よりも真っ赤に咲き誇り、周りの大切な人達を守り抜くだろう。染めたその身を、散る時まで懸命に賭して。喪ってしまった大切な人を彷彿とさせる、新しい名前と共に。

 その一歩は今、踏み出されたばかりである。

〈了〉




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