第47話
「しゅ、……朱宮さま」
梅の口から、やっとのことで絞り出したような声があがった。少し緊張しているようで、彼女は強張った面持ちをリーダーへと向けていた。
「その前に、その……お話したいことがございます」
梅は一度視線を床に落とし、唾を呑み込んだ。若葉は梅の様子を見て、これから彼女が言おうとしていることに察しがついた。若葉がいる場で切り出すような話、そして梅が恐怖に圧し潰されそうになるような内容。自ら起こした行いを、告白しようとしているに違いなかった。
「……あたし、実は組織の規程を——」
「朱宮さま」
若葉は梅の言葉を遮って、被せるように長の名前を呼んだ。梅を邪魔するように、身を乗り出す。
「出された食事を持って帰るのって、規程違反なんですか?」
「……うぇ?」
梅に話す隙を与えないように、若葉は続け様に質問を投げた。梅にとって予想外の行動と質問だったらしく、彼女は言葉にならない声を漏らした。対して、林檎の表情は変わらなかった。突然の質問にも動じず、林檎は緩慢に目線を上げた。悩む素振りが、若葉にはなんだかわざとらしく映った。
「規程違反ではありませんね」
のんびりと答え、視線を戻す。若葉は身を乗り出したまま、捲し立てた。
「実は梅、毎日食事を持って帰っていたんです。それを規程違反かもしれないと、ずっと気に揉んでいたみたいです。……でも大丈夫です、私が止めて欲しいと駄々をこねたら、もうしないと言ってくれました」
隣で梅があわあわとしている気配が伝わってきた。しかしそれを無視し、若葉は林檎へと矢継ぎ早に続けた。
「実は、梅にはお兄さんがいるんです。お兄さんの分の食糧の確保が難しいらしくて、それで食事を持って帰っていたようなのです。将来的には言い出しっぺの私が責任を持って解決しようと思っているのですが、……目先の食糧の確保が難しそうで。……その、後程相談させていただきたいことが……」
「まあ、それは大変ですね。ですが生憎、組織としても急に食糧を用意することは出来ません。ですので、直近十日分の食糧代をお渡ししましょう。申し訳ないのですが、購入は梅に任せてもよろしいでしょうか」
林檎は薄く笑みを湛えたまま、梅へと顔を向けた。梅は林檎の顔を、ぽかんとしたまま見つめていた。
……やはり、林檎は梅のことを全てわかっていたのだ。若葉は林檎の顔を見て確信した。『食糧を』購入、と明言しなかったのも、きっとわざとだ。彼女は渡すお金が薬に換わることを理解した上で提案したのだろう。
梅の希望を的確に汲み取った提案に、梅は呆けていた顔を困惑へと変えた。申し訳なさそうに眉根を下げ、おずおずとして視線を泳がせる。一頻り考える時間を設けた後、梅は再び林檎へと顔を向けた。
「……い……いいのですか」
林檎が状況を見抜いていることを、梅もなんとなく察したらしかった。
「あたしは……許されないことをしました。それに……お金まで」
林檎はお金を貸す、とは言わなかった。利息や代償を求めないどころか、条件の設定すらしなかった。金を組織の一員に無条件に与えるなんて、信じられない程の高待遇だろう。梅は嬉しくて抑えきれない感謝の気持ちと、林檎の真意が読めない恐怖が入り混じっているようだった。素直に好意として受け取っていいのかという困惑、組織のただの一員である梅にそこまでする林檎の思惑を探ろうとする懐疑。恐縮する梅からは、様々な感情が覗いていた。
「先程も言いましたが……食事を持って帰ることは、規程違反ではありませんよ」
林檎は上品な笑みを貼り付け、いつも通りの様子ですっとぼけた。そして、瞼を伏せる。
「若葉が許すという選択をしたのならば、わたしがとやかく口を出すつもりもありません」
柔らかな声色だった。瞼を開くと、一転して鋭く目を細めて、梅を見据えた。
「……それに、お金の件はあなたという一員への未来投資です。勘違いしないでくださいね。あなたの組織員としての技量が投資に値すると判断しただけのこと。何か返したいと思っていただけるのならば、今後の働きで返してください」
林檎は言葉尻に冷たさを滲ませ、淡々と言い放った。それは長としての言葉なのだろう。トップが組織の一人だけを贔屓するわけにもいかないし、梅の腕を買った未来投資という狙いも頷けた。もちろんこれも林檎の本心ではあるのだろう。……しかし若葉には、それだけが理由ではないように思えた。林檎が若葉をどのようにしてきたかを考えればわかる。秘密を知った若葉は殺されることなく、組織に迎え入れられた。きっと梅へも同じ様に、幾重にも包んだ優しさを向けている。
「は……はい」
少し顔を強張らせて、梅は上擦った返事をした。それから、深々と頭を下げた。
「ありがとう……ございます」
林檎は下げられた頭を見下ろし、それから若葉へと顔を向けた。突然目が合い、若葉はきょとんとした。彼女はそんな若葉に向けて、小さく笑みを作った。なんだか嬉しそうだった。
「……」
若葉も笑みで答えた。感謝の意も込めて、長へと同じ表情を向ける。林檎は頭を下げたままの梅へと顔の向きを戻し、長らしい顔付きへと戻した。梅は上体を戻した。その顔は、熱意に溢れていた。
「あたし……皆を呼んできます」
梅はそう言ってから、真剣な表情で力強く言葉を続けた。
「あたし、これから誰よりも頑張ります。朱宮さまに、残す決断をして良かったって思って貰えるように……精一杯」
最後にもう一度頭を下げてから、梅は身体の向きを変えた。長いスカートがふわりと揺れる。梅はそのまま扉へと向かい、桜と同様に扉の奥へと消えていった。
ぱたぱたと走る小さな音が遠ざかっていき、広い会議室には二人だけとなった。梅を見送っていた若葉は、後ろから名前を呼ばれ、身体の向きを戻した。
「組織に入るにあたってなのですが」
林檎は若葉を見上げながら、微笑みを浮かべて切り出した。
「必ず、名前をどうするかきいております。若葉にも決めてもらわなければなりません」