第45話
薄群青色の制服姿が消えた、破壊されつくした建物内。黒く煤けた廊下を、二枚歯を鳴らしてゆっくりと歩く。辺りは戦闘の跡が色濃く残っていた。壁は大きく拉げ、抉れた部分は風通しが良くなっている。天井は一部が落ちてきていて、割れた照明が剥き出しになっている。床は瓦礫が散乱し、弾痕と血、そして死体が転がっている。窓ガラスは割れて、夜空に浮かぶ月がよく見えた。月明かりの照らす廊下に、動く人影は若葉だけだ。
戦いが終わり、今更ながらどっと身体に疲れが込み上げてきた。重い足を引きずるようにして動かし、若葉は一人、瓦礫を踏み、死体を避け、廊下を進んでいた。
(終わった……)
『ブルー』の突然の襲撃を、乗り切った。若葉は肺の奥底から深く息を吐いた。
(大切な人を……守りきれた)
桜も梅も、怪我こそしたもののどちらも無事だった。若葉は二人を、死なせることなく守り通した。文樺のように喪ってしまうことを、この手で避けた。
(よかったな……)
割れた窓ガラスから冷たい風が入り込んで、アイボリーのふんわりとした髪を揺らした。窓枠の先を見上げると、障害のない窓の外は、星の瞬く澄んだ夜空が一面に広がる様がよく見えた。
(私……生きててよかった)
二人を守ることが出来たのだから。
窓へ寄ると、月明かりが若葉を照らした。眩しいくらいの光は、優しく若葉を包み込んだ。
(文樺……ごめん。私、もう少しこの世で、大切な人達を守っていたいんだ)
それが、若葉の見つけた生きる理由だ。
(……だから、そっちに行くのはもう少しだけ待ってほしい)
きっと文樺なら許してくれるだろう。だって彼女は若葉が知る中で最も心優しく、誰よりも相手の気持ちを慮るのだから。
夜空を仰いでいた顔を戻し、歩みを再開させる。『ブルー』を相手にして慣れない戦闘を行ったせいで、若葉はとにかく疲れていた。火傷が広がる背中、銃弾が掠めた腕。今日はいろいろありすぎた。早く自分の部屋へ戻って眠りたかった。
突き当たりまできて、若葉は角を曲がった。相変わらず破壊されつくしている廊下が眼前に広がり——その中央には、紅色の制服に身を包んだ少女が、静かに立っていた。こちらを見つめる双眸に、若葉は思わず息を呑んだ。
「合格です」
彼女は頭の両サイドで輪っかに結んだ紅色の髪を揺らし、手に持った扇子を左手へと打ち付けて閉じた。静かな廊下に、扇子を閉じる音だけが小さく響き渡った。小さい花々の中から細長い装飾が垂れる髪飾りが、月明かりに煌びやかに映えて揺れていた。現れた彼女の顔は、満足気な笑みを浮かべていた。
「朱宮さま……」
長く暗い廊下に立つのは、二人だけだった。月明かりの下、彼女から伸びた影と若葉から伸びた影が、廊下に黒く模様を描いていた。林檎の隙のない優雅な立ち姿に反して、彼女の服は所々煤けて破れ、血がついていた。
「合格、って……。……何が?」
予想外の人物が突然目の前に現れ、思わず呆けてしまっていた。若葉ははっとして、目の前の少女へとなんとか訊き返した。林檎は、目を細めた。
「ようこそ。我々の組織へ」
廊下に、彼女の鈴のような、けれどもはっきりとした声が響いた。若葉は、じっと目の前の顔を見つめた。林檎は笑みを深くし、若葉の双眸を真っ直ぐと見つめていた。
「……組織?」
腑抜けた声でおうむ返しをしたあと、若葉は口を閉じた。片手を、口元へと持っていく。
(……ああ)
目の前の小さな少女を見下ろす。彼女は相変わらず笑みを浮かべたままで、その瞳はどこまでも落ちていきそうなほど深い色をしていた。
(この人は……こうなることを、全部予想していたのか)
彼女は最初から若葉を試していたのだ。この組織に迎え入れるに、相応しい人物であるか。頭脳、行動力、そして感情の整理。全てを観察し、値踏みし、そして見定めていたのだろう。組織への貢献度、若葉の人となり、問題の解決能力、戦闘への適応力。組織に迎えるにあたって、若葉が与える影響、そして利益を。
(この様子じゃきっと、梅のことも全部知っていたのね)
そしてそれを若葉が解決してくれるであろうことも、全部織り込み済みだったのだろう。だから彼女はあえて若葉に武器を贈り、梅へ近づけさせた。若葉が梅の襲撃を躱し、梅を導くことも、全て考慮した上で。それに梅のしてきたことを知るのは若葉だけだ、若葉さえ黙っていれば、梅は今後もこの組織に居られることになる。若葉が口外しないであろうことも、全て計算していたに違いない。若葉によって、梅の件は内密に処理が出来、『ブルー』の撃退に成功し、桜も命を落とさずに済んだ。そして若葉にとっても……この世で生きていくことを決めた若葉に、身を寄せる場所が出来ることになる。
「……」
彼女は首にスリングを通して銃を下げていた。彼女の小柄な身体にそぐわない小銃が、月明かりに鈍く銃身を光らせている。その先には、サプレッサーがついたままだった。
「朱宮さまは、もう……とっくにこの場を離れているのだとばっかり思ってた」
『ブルー』に取り囲まれ攻められているような場所に、長が留まるのは極めて危険だ。恐らく『ブルー』の襲撃してきた目的は、長の殺害だったのだから。彼女だって、それは充分理解していたはずだ。それなのに、最後までこの場にいた。林檎は若葉の言葉に、笑みを引っ込めた。閉じた扇子で、口元を隠す。
「愚かな長のいるような組織に入るつもりはない、と?」
「そんなわけないじゃん」
若葉は苦笑を漏らし、ゆっくりと首を横へと振った。最後まで抗争現場に残って陰で暗躍していた長の行動を、若葉は愚かだとは決して思わない。
「……守ってくれて、ありがとうね」
花が咲くように、微笑みを浮かべる。
「これからは、私が守るから」
覚悟を滲ませ、宣言する。実質的な、組織の勧誘への承諾の言葉だった。……大切な人を守る。そのために、若葉は生きる道を選んだ。危険を承知で陰ながら若葉の命を守り、さらに若葉に居場所を提供してくれた人だって、若葉にとって大切な人だ。目の前の長は、その大きな瞳をぱちぱちと瞬いた。予想していない言葉だったらしい。きょとんとした顔は、隠し切れない幼さが滲んでいた。
「……」
それから、緩慢に瞼を伏せた。貼り付けたものではない、柔らかな微笑みを滲ませる。
「答えを見つけ、前を向けたのね」
想定通りだったくせに、彼女はしみじみとそう呟いた。そして瞼を開き、その瞳に新しい仲間を映した。
「歓迎します。若葉」
月明かりに照らされた彼女の顔は、長としてのものだった。若葉は居場所をくれた新しい主人に、信頼を滲ませて笑みを返した。夜風が二人の髪を優しく撫でていき、月と数え切れない星達が祝福するようにそれを見守っていた。
***
後日。
若葉は紅色の制服を翻し、自身の組織のアジトへと駆けていた。肩に掛けた鞄の中には、自宅、そしてその隣の文樺の家から持ってきたものが数え切れない程詰まっている。走る度に中で物と物がぶつかり、若葉の動きに合わせて跳びはねる音がきこえてきた。諫めるように肩に掛けなおすと、若葉はガードレールを身軽に飛び越えた。薄手の生地のスカートが、クラゲのようにふんわりと膨んで広がった。長く伸びた足を地につけ、着地する。そして見えてきた脇道に入ると、細い通路を走っていった。
木々や廃屋の合間から、薄暗い細道に木漏れ日が差す。若葉はその中を走り続けていたが、見覚えのある景色が広がり、ふと足を止めた。長く続く道の途中で立ち止まる少女の髪を、風が靡いて揺らしていく。木々の揺れるさわさわという音が、人けのない静かな裏道に心地よく満ちた。空き家の並ぶ区画が途切れた、緑が生い茂る場所。若葉の視線の先には、ほんの数段の階段、そしてその奥に小さな鳥居と祠が見えていた。年季の入った、古めかしい寂れた様相。先日、文樺の亡くなった日に見たのと同じままの光景だ。若葉はなんとはなしに止めた足の向きを、そちらへと揃えた。階段の先へと身体の向きを変え、背筋を正す。鳥居は目に鮮やかな朱色をしていて、若葉を歓迎しているかのように錯覚させた。若葉は深く頭を下げて二礼したあと、二拍手の音を響かせた。叩いたあとの手を合わせたまま、瞳を伏せる。風がふいて、緑の揺れる音だけが広がった。若葉は目を開けると、手を戻し、深く頭を下げた。顔をあげた若葉は、改めて鳥居の先へと視線を向けた。祠は何も物言わぬまま、揺れる木漏れ日の中で若葉を見守っていた。若葉はしばらくその祠を眺めていたが、やがて足の向きを変え、背を向けた。赤い制服姿に初めて出会った場所を後にし、若葉は再び走り出した。木漏れ日の中を進む度、照らされた場所の赤が鮮やかに映えた。吹き抜ける風が、縁取られ丸みを帯びた半袖から伸びる腕に当たって優しく撫でていく。編んだハーフアップの下の髪先が、足取りに合わせて軽やかに揺れる。若葉は布製の赤い靴を、目的地に向かって蹴り上げ続けた。




