第43話
小さく何かを引き摺る音がきこえてきた。静かな廊下には些細な音もよく響いた。若葉が振り返ろうとしたところで、足を引いてすれ違う小柄な赤色が目に入る。桜だった。怪我をした足でよろよろと、窓際へと向かっていた。窓の奥へ顔を向けたまま、まるで導かれるかのように歩いて行く。刃物の刺さる足をなんとか動かしながら、彼女は緩慢な動きで左手を前方へと掲げた。彼女の手には、『ブルー』の猛攻の中でもけっして離さなかった柄が握られている。その先端は大きく広がり、中から揺れる玉が覗いていた。……手振り鈴だ。持ち手まで全てが金属製で作られており、ベルの部分は一面に細かい彫刻があしらわれていた。桜は窓の元までたどり着くと、足を止めた。手振り鈴を垂直に持ち、彼女はその中に空いた手を入れた。何かを掴むと鈴から手を下げる。消音の細工が施してあったようで、それを解いたようだった。
桜は姿勢を正し、自身の前に広がる外の景色を見下ろした。焼けた建物、抉れた地面、数多くの死体。今も殺し合う、薄群青色の制服達。障害のない窓から風が吹き抜けて、桜の黒髪と薄い生地のスカートを揺らしていった。若葉からは彼女の小さい背中が見えるだけで、彼女の表情は見る事は出来なかった。それでも、何かを成そうとしている緊張感は伝わってきた。僅かな時間、風が揺らすものの音すらきこえる、厳かな静寂が訪れた。
桜は鈴を鳴らした。伸びのある、透き通った高い音が木霊する。余韻まで美しい響き。静寂を突き破る、希望の象徴のような澄んだ音。ハンドベル程の大きさなのに、その音は意外と大きく響いた。放たれた音は、夜空の下に木霊して、建物にいる人々の耳へと届いた。その独特な音も相俟って、『ブルー』の少女達が殺し合う音にかき消されることはなかった。外で銃を発砲したり、殴り付けたり、怒声をまき散らしたりしていた『ブルー』の面々の手が止まる。ききなれない音に反応して、眉を顰めたり、不思議そうな顔をしたりする。戦場に響くには相応しくない音、その違和感。彼女達は音のきこえてきた頭上へと視線をあげた。
視線の先、建物の方々から、一斉に投げ出されたものがあった。窓の向こうから、崩れた廊下から、屋上から。投げるために伸ばされた腕も見える。夜空に星のように撒かれた黒い影。——手榴弾だ。視界いっぱいに広がる数多の黒が、見上げる少女達目掛けて落下していく。まるで黒い雪のようだった。
「上だ! 逃げろ!」
『ブルー』の少女達は、夜の闇の中でも落ちてきた贈り物に即座に気付いた。数え切れない程の丸みを帯びた黒い物体が、薄群青色の少女達へと距離を詰めていく。その僅かな間に、鍛えられた反射神経を生かして『ブルー』の少女達は逃げ出した。さらにその運動神経を以って、爆発の範囲外へ走りきろうとしているようだった。迫る危機に気付いて即座に動き、そしてその筋力を活かした素早いスピードで逃げ切る。これは『ブルー』にしか出来ない離れ業である。だが、『ブルー』の少女達にも計算外のことが二つあった。一つ、如何せん降ってくる爆発物の量が多かった。複数の建物を跨いだ広範囲、しかもまるでこの組織で所持しているすべての手榴弾を落としたと言わんばかりの数。『ブルー』が人間離れした行動で逃げ切ることも、手榴弾を投げた側は読んでいたらしかった。そして二つ目は、周りに死体が積み重なっていたことである。更地ならば全力を出して突っ切って逃げられたはずだった。しかし『ブルー』の少女達の周りには、赤色の制服の死体も、薄群青色の制服の死体も、山の様に転がっていた。それらが行く手を阻み、爆発の落下範囲の外へ逃げ切る障害となった。飛び越えるために逃げるスピードは落ち、中には躓いてしまう者もいた。それ程、死体の量が多かったのだ。降ってきている手榴弾の数すら超える多さだった。圧倒的な数の動かぬ身体達に、『ブルー』の逃げる道は阻まれてしまっていた。それでも『ブルー』の者達は爆発から逃れようと、最後まで必死に足を動かした。
夜とは思えない程、地面を眩い光が覆った。白が包み込み、全ての色を消し去った。その後、鼓膜を劈くような破裂音がいくつも鳴り、辺りを支配した。腹の底まで響くような轟音だった。付近のものがすべて抉れ、爆風を巻き起こし、破片や大きな瓦礫までもが飛び散って吹っ飛んで行った。建物の壁は崩れ、地面には凸凹に穴が空き、陥没した穴は地中深くまで到達しているようだった。水道管が破裂して水が噴水のように飛び出し、電気ケーブルは切れて火花が飛び散った。植えられていた木は太い幹の途中から折れて拉げ、倒れた枝先の葉に引火して燃え始めた。土や草木は散乱し、その上に大きな瓦礫や手榴弾の破片、窓のガラス片、そして逃げ遅れた『ブルー』の少女やもともとあった死体の千切れた四肢が転がった。地面の上には損傷の激しい死体が重なり合い、まるで地獄の様相を呈していた。
その足で立っている薄群青色は、僅かとなっていた。生きていても手榴弾の破片や瓦礫が当たったり、爆風で壁に打ち付けられたりと、その大部分は負傷していた。目の前に広がる地獄絵図のような光景を確認した後、少女達は息つく暇もなく上へと顔をはねあげた。再び窓の至る所から腕が伸び、先程と同じ様に手榴弾が宙へと撒かれていた。中には小銃や拳銃を構え、直接生き残りを狙う者も見えた。手榴弾の数は数えられる程で、先程のように多くはなかった。しかし建物の外の者は皆、怪我をしたり乱雑な環境のせいで身動きが取れなかったりしていて、その数少ない手榴弾を躱せる者はほとんど存在していなかった。建物から向けられた銃の発砲音、いくつかの手榴弾の爆発する音。一斉に手榴弾が撒かれた時と比べたら、まるで余韻のような小さい音だった。花火の終わった祭りの会場できこえてくる、細々とした話し声と何ら変わらない。勝敗は、既に一目瞭然だった。
『ブルー』は、その圧倒的な暴力で全てをなぎ倒していく集団だ。しかしどんなに個々の力が強くても、統率を乱された集団は混乱を極め、疑心暗鬼を植え付けられた少女達は正常な判断に欠けていた。ここの組織はじっと機を見極め、そして全ての人手を使って一斉に攻撃を仕掛けた。『ブルー』の少女達は、ここぞというタイミングで放たれた一手から逃げることは出来なかった。なぜなら彼女達は、敵も味方も皆動かぬ死体へと変えていたからだ。周りに積み重なった死体は、逃げる先を阻む障害物となった。死人に口無し、されど恨みつらみを晴らすことは出来る。『ブルー』に殺された少女達は、その亡骸を以って、自分を殺した奴らに報復することに成功したのだ。……すべては、この組織による筋書き通りである。
全焼した建物、崩壊した建物、半壊した建物。それらに囲まれた空間には、数多の死体と肉片が積み重なっていた。動く者は、数える程だ。その様子を建物から見渡した桜は、手振り鈴をそっと床へと置いた。この組織のコード『酉』の合図を出し終えた彼女は、自分の役目は終わったとばかりに詰めていた息を吐きだした。その顔にはまだ緊張感が滲んでいる。視線は地上の死屍累々へ向けられていた。生き残りが形勢逆転を計る可能性も捨てきれない、慎重に全ての『ブルー』の人間を処理しなければならない。桜は視線を鋭くした。
建物から狙撃していた音が徐々に少なくなって、やがて消えた。動く者はもういないと思われた時、突如颯爽と駆ける人影が目に飛び込んできた。桜は警戒するようにその影を追った。それは門付近から建物に向かって数歩駆けたあと、その惨憺たる光景を目の当たりにして動きを止めた。彼女もまた、薄群青色の制服を着ていた。血もついておらず、泥に汚れてもいない。手榴弾が投げられたとき、もともとここにはいなかったようだ。現れた場所からして、今しがた門から入ってきたのだろう。……もう決着はついた。遅い登場を果たした少女へと、窓から構えた銃口が向けられる。そして、建物の一角から『ブルー』の少女へ向けて、間を置かずして発砲された。今更現れたところで、彼女一人でやれることは何もない。狙撃して終わり、撃った人間はそう思っていた。しかし、彼女はその弾の軌道を避けた。深夜の暗闇の中、聳え立つ建物の上階からの狙撃を、彼女はまるで見切ったように身体を翻したのだ。……人間技とはとても思えない。狙撃した人間も桜と同じことを思ったのか、再び発砲音がきこえてきた。結果は同じだった。『ブルー』の少女は、またもや自身を狙った弾を避けた。桜はいつの間にか背後に気配を感じて、視線だけを後方に向けた。桜のすぐ後ろに、若葉と梅も寄ってきていた。若葉の左袖はナイフで切られて短くなっている。彼女達は突然現れて銃弾をいとも簡単に避ける『ブルー』の少女を、茫然と見下ろしていた。
「おい!」
低くしていた頭を戻して、『ブルー』の少女は劈く声をあげた。荒い声は腹の奥底から出ていて、よく通った。建物中に響いたのではないかと思わせるような声は、怒気と悔しさ、悲しさを孕んでいた。彼女の言葉が目の前で積み重なる仲間達に向けられたものではないことは、明白だった。
「あたしに悟られないようこいつらを行動させたの——お前だろ」
『ブルー』の少女の手が、長い袂を靡かせて広げられた。目の前の動かぬ死体の山に向けて、その掌が伸ばされる。
「梅、若葉」
若葉の横で、桜が小声で名前を呼んだ。
「あの姿……あれが縹です」
「え?」
若葉は驚愕を振り払い、地上の少女を食い入るように見つめた。夜ということもあり、建物の上階からではその顔はよく見えなかった。ただ確かに、すらりとした高い背丈、セミロングの紺色の髪は、林檎の持っていた写真で見たシルエットとそっくりだった。