第42話
若葉は歯を食いしばった。それでも、その瞳は絶望に染まっていなかった。燃える瞳は、最後まで桜と梅を逃がす方法を追い続ける。強い感情に支配された心と対比するように、その頭は冷静にどこまでも策を探っていた。頭を必死に動かし続ける間、目に映る全てがスローモーションのように見えた。実際の時間はきっと数秒にも満たない、一瞬だ。それでも、若葉は最後まで考えることを諦めず、そして桜と梅を守ることを諦めなかった。迫る刃が若葉の喉を掻っ切るその時まで、若葉の瞳に宿った炎は、消えることはない。その一瞬の中で、若葉の脳の中では数多の思考が波のように押し寄せていた。
先程の『ブルー』の少女にしたように、ハッタリを言って一瞬の隙を作ることは意味をなさない。先刻とは違い、敵の足止めは若葉がしなければならない状況だからである。恐らく『ブルー』の少女を前にして若葉が止めを刺すことは不可能だ、隙を作ったところでこちらに取れる手はない。……ならば、彼女の身体をなんとか固定することは出来ないだろうか。若葉がその身体を物理的に捕まえておければ、その分桜と梅の逃げる距離を稼げることになる。しかし、体術に優れた『ブルー』の者を前にして、若葉の技術や力でその身体を留めておけるとはとても思えない。いや、そもそもそれ以前に、今も振り下ろされている刃をどうにかしなければならない。飛び掛かる少女の、落下の勢いを乗せた刃。止めたり跳ね返したりすることはどう考えても厳しい。裂かれないようにするためには、避けるしかないだろう。しかし桜を逃がすのに精いっぱいで、今から体勢を変えるのは難しい。ならば敵の手や手首に銃弾を当てて、軌道を逸らすことは出来ないだろうか。……無理だ、若葉の技術では当てられないし、桜も梅も今は銃を所持していない。ならばいっそ、飛び掛かってくる少女に手榴弾を当てられないだろうか? ……こんな至近距離で爆発したら、若葉どころか桜や梅も巻き込まれるかもしれない。絶対に駄目だ。なら、刃で切りつけるのは? 『ブルー』の少女は宙を跳んでこちらへ落ちてきている状態だ、今から落下地点を変えることは難しいだろう。戦闘経験のあまりない若葉にも、落下してくる場所に刃を構えておくくらいのことは出来る。……だが、いかんせん時間がない。今からナイフを取り出して『ブルー』の少女へと身体の向きを変え、落下地点に刃を構えるまで行動するのは不可能だ。……考えろ。考えろ。大切な人を守るため、そして少しでも生きるために。戦闘経験がない素人だろうと、関係ない。頭を止めてはならない、策を考えるのだ。
(でも駄目だ、何も思い浮かばない……っ)
真っ白な頭の片隅に浮かんだのは、若葉がこの組織を訪ねてきた理由だった。もともとこの組織にやってきたのは、若葉一人では『ブルー』に対抗出来ないからだった。結局、若葉一人で『ブルー』の少女の攻撃を止めることなど、不可能なのだ。
(じゃあ……せめて、せめて……時間稼ぎをする方法を考えないと)
刃を退けて生き抜く手段を考えることから、刺されても出来るだけ桜と梅の逃げる時間を稼ぐ手段を考えることへと、瞬時に脳を切り替える。『ブルー』の少女の袂を意地でも離さないでおいたら、少しは敵を留めておけるだろうか。拳銃や刃を使って、彼女の足に怪我を負わせる手段はないだろうか。頭を止めずに考え続ける若葉にも、そろそろ残り時間がなくなってきたことは察せていた。……タイムリミットだ。『ブルー』の少女の持つ刃が、若葉の背中に、突き刺さる——
突如背中越しに、小さなうめき声が聞こえてきた。苦しそうな声。そして、若葉の身体は思い切り左へと引っ張られた。そのまま床に叩きつけられる。若葉は即座に顔をはねあげて、自身の左腕を確認した。腕を通した薄群青色の袂に、刃が深く突き刺さっている。絹の生地を巻き込んで、その身はほとんど床の下へと隠れていた。それほど落下の勢いが大きかったのだろう。もしこの刃が若葉の背中に刺さっていたとしたら、内臓を貫通していたかもしれない。刃の聳え立つ自身の袖の横には、人が倒れていた。若葉と同じ薄群青色の制服に身を包む、『ブルー』の少女だった。彼女も若葉のように、即座に顔をあげた。彼女の首には刃が刺さっていて、血が傷口の間から垂れて若葉の袖へと染みを作った。
「逃げて、若葉!」
遠い後方からの叫び声。若葉に掛けられた言葉のようだった。大声に慣れていないような、掠れた声だった。つまりこの刃は——
(……梅が投げたのか)
遠くからナイフを投げて首に当たるのは、流石のコントロールである。あるいは首に当たったのは、偶然だったのかもしれない。いずれにせよ、彼女は生まれたほんの一瞬の隙を、逃げることに使わずに若葉に迫る危機に対処することに使ったようだった。彼女の咄嗟に投げたナイフが首に当たり、頭が揺さぶられたことで重心がずれ、『ブルー』の者の着地点が逸れたらしかった。若葉の背中目掛けていた刃も、目標地点から逸れてその袂へと突き刺さったらしい。
もともと若葉がこの組織へ来たのは、一人では『ブルー』に対抗出来ないためだった。……そしてこの組織の者と一緒ならば、一人で成せない『ブルー』への敵討ちが出来る、そう思ったためでもある。
(やっぱり、思った通りだった)
——若葉が一人で対抗出来なくても、この組織の者の力があれば、『ブルー』と渡り合える。若葉一人では絶望的だった状況が、梅の助力に依って変わったのだ。
(……でも奇襲を回避できただけで、状況はまだまずいまま)
袂を巻き込んだ刃は、床に深くめり込んでいる。左腕がほとんど動かせないせいで、若葉は身動きが取れず、床に縫い付けられていた。その横で、床に倒れていた『ブルー』の少女が起き上がった。刃が首に刺さっていても、その動きは俊敏だ。そう、彼女は若葉の目と鼻の先にいて、さらに怪我を負っているながらも動くことが出来る。今の若葉は、肉食獣の前に差し出された餌も同然だった。『ブルー』の少女は獲物を前にした豹のような動きで、若葉へと顔を向けた。目が合う。彼女は怒りに顔を歪め、煩わしそうな目で若葉を見下ろしていた。そして彼女は、右手を若葉へと伸ばした。その向かう先は、若葉の首だ。どうやら絞め殺そうという魂胆らしかった。『ブルー』の者は皆力自慢で、近づいてくる少女の腕も、それに漏れない程仕上がっているのが見てわかった。若葉は左腕にありったけの力を込めて、持ち上げようとした。深く突き刺さった刃は、びくともしなかった。……逃げられない。
(相手に武器の所持は見られない。首を絞めるなら……その分時間が必要なはず)
その間に取れる行動はないか。そして、その間に梅と桜が少しでも距離を稼ぐ方法はないか。若葉の頭の中で、再度勘案が行われる。最後まで、考え抜く。この組織の者なら、きっとそうするに違いないから。
迫ってくる手が、若葉の首に、触れる——。
その瞬間、相手の頭が撃ち抜かれた。ガクンと頭が揺れ落ち、血がススキ花火のように辺りへ散らばる。若葉の頬にも血が一滴飛んできて、ピッとはねた。目を見開き固まる若葉の横で、『ブルー』の少女の身体はべしゃりと床へ倒れた。伸ばされた手は寸でのところで若葉の首に触れられず、重力に従って落ちて行った。
「……な、なに……」
若葉は混乱した頭で目の前の死体を見下ろした。若葉が絶体絶命だと思った理由の一つは、梅や桜の手に銃がなかったからだ。つまり、二人にこの『ブルー』の少女を撃ち殺せるはずがないのである。それに、近くから発砲音もきこえなかった。しかし目の前の薄群青色の少女は、その頭に焼けた穴を開け、流した血で床に血だまりを作っている。目の前の光景は、現実だ。
『ブルー』の少女の銃創は、後頭部に出来ていた。それは彼女が背後から撃たれたということを意味していた。梅や桜が撃った場合、弾が当たるはずがない角度だ。
「……」
若葉は死体に釘付けになっていた視線を漸く逸らし、顔を上げた。先程まで梅のいた辺り、廊下の壁を見つめる。真っ黒な瓦礫の中でも、四角が辛うじて保たれている、ぽっかりと空いた穴。ここには先程まで、窓が存在していた。今はガラス片も割れて落ち切って、風通しが良くなっている。その向こうには、遠目に建物が見えている。
(……この場に銃を持つ人間はいない)
ならば、考えられる可能性は一つ。恐らくこの組織の者が、向こうから狙撃してくれたのだ。梅と同等、いやそれ以上の銃の腕が必要だが、状況的にそうとしか考えられない。梅の投げたナイフが生んだ一瞬の隙を利用して、若葉と少しでも離れたタイミングを見計らい敵を撃ってくれたのだ。恐らく遠目で見たら『離れた』とも言えないような僅かな距離だったであろうが、見事に若葉と重ならない瞬間を狙って『ブルー』の少女の頭を撃ち抜いた。その神業もさることながら、さらに梅がタイミングを作らなければ成し得なかった奇跡だ。
この組織の力があれば、若葉も『ブルー』に対抗できる。若葉がこの組織に足を踏み入れた理由を証明するかのように、若葉の命は消えることなく生き永らえることが出来た。見つめる先の建物は、夜空を背景に静かに聳え立っていた。向こうに動く人影は見えない。その上の月が雲の合間から顔を出して、星々と共に見守るように照らしていた。