第31話
「桜を助けに行こう。いい?」
梅の手を包んだまま、問いかける。梅は真剣な表情を崩さず、ゆっくりと首を縦に振った。
若葉は立ち上がった。梅と繋がったままの手を、優しく引く。釣られて梅も、よろよろと立ち上がった。梅は血の流れたままの右腕を一瞥したが、何も言わなかった。
「梅の指示に従うよ。私は戦いに関しては素人だから」
若葉は梅へと信頼感を滲ませた視線を向けた。梅は唇を結び、気を引き締めるように目を鋭くした。
「……まずは状況把握が、第一。一度寮の方へ渡って、五階からこっちへ戻ろう。『ブルー』の奴らに悟られないように現場に接近して、桜を探す。彼女の救出優先で」
梅はてきぱきと指示を出した。本来の姿に戻りつつある梅に、若葉は小さく笑みを浮かべて頷いた。
「寮の方に戻る前に、武器の補充をしていこう。銃二挺、折り畳みナイフ一つ、手榴弾二つ」
「銃二挺?」
「……若葉も持って。貴方なら、銃を上手く扱えるはず」
その口調は『ブルー』の情報を口にしていた時や、射撃をレクチャーしていた時と同じだった。それでも、彼女の瞳は真っ直ぐと若葉へ向けられていた。若葉はその視線を受けて、「わかった」と短く返した。
梅は扉へと先行し、鍵を開けた。扉を開けると、廊下に漏れた月明かりが二人を迎えた。
廊下の奥を確認した後、二人は駆け出した。若葉は梅の背中を追い掛けながら、目を細めた。
……大切な人を、喪ったりしない。守るために、私は生きる。
外では『ブルー』による怒声や爆発の音、燃える音、銃声が引切り無しに響いていた。窓の外、星の瞬く夜空へと視線をあげる。浮かんだ月が、優しく若葉を見下ろしていた。生きる理由を見つけた若葉を、後押しするかのように照らしている。まるで、文樺のようだと若葉は思った。
***
若葉と梅は五階の渡り廊下を奥に捉えながら、壁に張り付いて身を潜めていた。廊下の明かりは、窓から漏れた月明かりのみである。窓から離れた場所にいる若葉達は、完全に暗闇に溶け込んでいた。若葉は顔だけを僅かに出し、警戒しながら目を凝らした。渡り廊下はガラス張りのため、月明かりに包まれてほんのりと明るい。その奥は先程まで若葉達のいた、爆発のあった建物へと続いている。長く続く廊下の先、大きく抉れているのが遠目で見えた。闇に蠢く人影も小さく見える。敵の姿を確認すると、若葉は表情を強張らせた。薄群青色が二人……いや、三人。ここまでの道中で遭遇した『ブルー』の者達とは違い、複数人で行動しているらしい。倉庫からここにくるまでにいた『ブルー』のメンバーはいずれも一人だったため、梅が遠くから狙撃して突破することが出来た。しかし複数人だと、一人殺した時点で他の『ブルー』のメンバーにこちらの動きを感付かれてしまう。ただ狙撃するだけでは、返り討ちに遭う可能性が高い。
「……」
かといって手榴弾を投げる距離まで近づくと、『ブルー』に遅れを取ってしまう。彼女達の類まれなる運動神経で瞬時に近づかれ、こちらが反応する間もなく殺されてしまうだろう。彼女達に近づけば打つ手なし、さらに遠くからの狙撃もバレてしまう。相手は三人、対してこちらは二人。若葉は眉間に皺を寄せた。
「桜だ」
「え?」
梅が零した小さな声は、辛うじて若葉の耳に届いた。若葉は目を皿にして、廊下の奥を注意深く確認する。薄群青色の先……大きく抉れた廊下の手前、言われてみれば確かに闇の中に何かある気がする。ここからではよく見えず、人影なのかすらわからない。恐らく梅は銃の技術ももちろんだが、視力もとても良いのだろう。梅の射撃の腕は、そうした複数の要素で成り立っているのかもしれない。
(桜、三人を相手にしているってこと? すぐに助けにいかなきゃ……!)
『ブルー』三人に囲まれているとなると、勝率はかなり低いだろう。何せ、『ブルー』は戦闘面については無類の強さを誇っている。心が逸るままに一歩を踏み出し、しかし若葉はそこで辛うじて踏み止まった。
(……いやでも、このまま突っ込んだところで負けは見えてる。私も梅も桜も殺されちゃって終わり)
感情のままに動きそうになった身体を、なんとか抑える。小さく息を吸って、吐き出した。前に出した足を、そっと戻す。……焦ってはいけない。冷静に。頭を使って、勝率を高めるのだ。そうしなければ、大切な人達を守ることなど出来はしない。
廊下の奥にいる『ブルー』の薄群青色は、その場を去る気配はなかった。つまりまだ、桜は死体になっていない。彼女は生きている。
(……)
若葉は真剣な顔で、じっと廊下の奥を睨んだ。そして梅へと顔を戻すと、小声で名前を呼ぶ。壁の内側で小さく手招くと、階段室へと誘導した。二人は階段室へ入り、聞き取れる程度に声量を戻した。
「……桜の救出、どうしようか。若葉には隠れてもらって、あたしが狙撃しようか」
梅は小銃を持つ手に力を込めた。先程倉庫から持ち出したものだ。若葉は小さく首を横に振った。
「それだと梅が殺されるリスクが高くなる。一人は狙撃で殺せるけど、残りの二人に襲われて終わりだよ」
梅は悩むように視線を落とした。若葉の反応を見て、別案も探っているようだった。そんな梅を若葉は正面から力強い視線で見つめ、口を開いた。
「私に考えがあるの。きいてくれる?」
梅は視線を若葉へと向けた。クマの上の瞳は、僅かに丸くなっていた。今まで戦闘面については梅に任せていたからなのだろう。しかし何も言う事はせず、梅はこくんと首肯を返した。
「……私が『ブルー』に成りすまして近づくよ。例えここの組織のメンバーの顔が割れていたとしても、私の情報は絶対向こうにはない」
若葉は余所者であり、林檎の拾った捨て駒だ。例え『ブルー』がここの組織の情報を仕入れていたとしても、その中に若葉の情報は絶対にない。さらに若葉とこの組織の人間が関わっているのを目撃した『ブルー』のメンバーは、ショッピングモールで既に死んでいる。襲撃の最中に若葉の顔を見た『ブルー』の者も、全員死んでいる。つまり今、この組織と若葉の繋がりを知っている『ブルー』の者は、一人もいない。
「だから私が『ブルー』の者だと言い張っても、向こうはわからないはず」
「でもな、成りすますって……どうやって?」
「『ブルー』の死体から、制服を拝借する。梅、言ってたよね。『ブルー』は情報の重要性をわかっていなくて、注意力も散漫だって。……きっと私が『ブルー』に入ったばかりって言えば、『ブルー』の奴らは見知らぬ顔でも気付かないよ。情報の重要性をわかっていないのなら、きっと新人の共有が漏れていたとしても不自然じゃない。制服さえ着用していれば、たぶん誤魔化せるはず」
梅は一度考え込むように口を閉じた。それから、真剣な面持ちで尋ねる。
「……近づいたあとは、どうするの? とても危険だけど、何か考えがあるの?」
「まず、私が近づいた時に梅が一人狙撃して殺して。そうすると、残り二人。なんとか私が一人誘導して離してみせるから、一人になったらまた梅が狙撃して。……一人ずつなら、梅のリスクもかなり減るでしょ。上手く梅から注意を逸らせれば、梅が襲われることも避けられる。最後に私が誘導した奴を連れてきて、同じ様に狙撃してくれればいい。要は、各個撃破しようって作戦」
それでも、『ブルー』は武器の扱いに長けている。遠くの梅を狙撃し返される可能性はある。狙撃を躱して迫られても終わりだ。だが、今の若葉達に出来る手段は限られている。桜が近くにいるのなら、桜が動ける状況かわからない以上、爆発物は使えない。桜を巻き込む可能性がある。かと言って近づいて体術や刃物で襲うのは、『ブルー』相手では無理がある。罠を用いようと思っても、『ブルー』の者達はその場を動く気配がない。ならば遠くからの狙撃を用い、その成功率を高めるしかない。そして高めるためには、自由に動ける若葉がどうにかするしかない。若葉は戦力になれるような武力を持っていないが、余所者という唯一無二のアイデンティティがある。それを活かして『ブルー』に成りすませれば、通常なら難しい彼女達への接近も可能になる。
「……その案だと、若葉が危険だよ。本当に変装が気付かれないかどうかも怪しいし、バレた時に手の届く範囲にいたら、一瞬で殺されちゃう。それにターゲットの近くにいると、狙撃が逸れた場合に弾が当たってしまう可能性が……」
「そこは大丈夫。梅の腕を信じてるからさ」
若葉は軽快な口調で言って、笑みを浮かべた。
「それに誘導も任せてよ。上手くやってみせるから」
若葉はそう言って、廊下の方へと顔を向けた。こうしている間も、『ブルー』の三人と対峙している桜の身は危険に晒されている。向こうの詳しい状況がわからない以上、なるべく早く助けに行かなければならない。梅もその気持ちを察したのか、一度口を閉じた。そして、「わかった」と言って、それ以上の言及を避けた。