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第30話

 クマの上の双眸は、若葉を真っ直ぐと見上げていた。哀切な訴えは、彼女の想いの全てが詰まっているかのようだった。

 彼女は、本気で言っている。それが痛い程伝わってきた。彼女は、本気で兄のために自分を殺すように頼んでいるのだ。若葉は唇をきつく噛んだ。そして——自身に縋りつくような目を向ける顔を、勢い良く叩いた。パン、という音が部屋に散った。

 梅は叩かれた頬に手を当て、茫然とした。若葉の叩いた場所が、じわじわと赤く腫れあがっていく。

「馬鹿言わないでよ!」

 若葉の叫びは、部屋中に木霊した。あるいは、この世界すべてに響いたのかもしれない。

「——遺されたお兄ちゃんの気持ちも考えなさい!」

 梅の叫びに負けないくらいの、魂からの叫びだった。

「きっとお兄ちゃんは毎日君の姿を探して、毎日君の名前を呼んで、毎日君の笑う幻覚に悩むんだから……」

 黒髪を揺らした小柄な身体。ふとした瞬間に口に出してしまう名前。いつでも脳裏に浮かぶ、幸せそうな表情。若葉は顔を歪めた。

「お兄ちゃんのために、君がいてあげなくてどうするの!」

 大切な人が、一番に願うこと。それは自分の大切な人に、幸せに生きて欲しいということ。

 梅の兄もそうだろうし、きっと文樺だってそうだ。若葉はその答えに辿り着いた。けれど、いくら文樺が望んだとしても、それは不可能だと思っていた。文樺のいない世界に、生きる意味などないからだ。文樺のいない世界に、若葉の居場所など存在しない。

 でも、違っていた。それはきっと、間違いだった。

 生きる意味はあった。若葉はそれを見つけ、きちんと掴んだ。

「君は生きなきゃ! ——お兄ちゃんのためにも!」

 大切な人を、これ以上喪わないこと。まだ手の届く大事な人を、守り抜くこと。それが、生きる意味だ。

 ……きっとその『大切な人』に、梅も入っている。

「一緒に生きよう! お兄ちゃんを救う方法は、きっとあるよ!」

「ないよ、そんなの!」

 梅の半狂乱の言葉が被さった。最後の希望を断たれてしまった彼女の絶望が混じっていた。

「世の中、そんな都合のいいように出来てないよ! お兄ちゃんのためには今すぐ金がいるの! お兄ちゃんを喪うくらいなら、あたしは生きていたってしょうがないよ!」

「梅がお兄ちゃんに死んで欲しくないって思うのと同じくらい、お兄ちゃんだって梅に死んで欲しくないんだよ!」

「でもこのままじゃあ、お兄ちゃんが死んじゃうんだよ!」

 お互いに唾を飛ばし、叫び合う。二人は譲れない想いを胸に、決して挫けなかった。

 梅の号哭のような叫び声が、部屋に溶けていった。肩で息をし、お互いの顔を一心に見つめる。二人は、同じ顔をしていた。息が整った頃、若葉はそれまでの勢いを収め、悲しそうに眉を寄せた。口を開き、静かに零す。

「……お兄ちゃんはきっと、梅が死んだら悲しむよ。大切な人を喪って……生きる意味が見出せなくなるくらい」

「……」

 涙が溜まった梅の瞳が、若葉の悲嘆に染まった顔を見上げていた。

「梅と同じなんだよ。今の梅と、おんなじ」

 若葉はしゃがみ込んだ。梅と顔の高さを合わせる。

「どれくらいお兄ちゃんが苦しむか、わかるでしょ」

 梅は目を細めた。大粒の涙が溢れた。彼女は項垂れ、首を小さく横に何度も振った。

「梅」

 長い前髪が垂れて隠された顔へ向けて、若葉は強い口調で名前を呼んだ。

「君は生きなきゃ駄目。誰よりお兄ちゃんを想うのなら」

 若葉は梅の心へ届く様に祈りながら語り掛けた。曇りのない瞳は、真っ直ぐと梅を見つめている。

「梅は今までずっと、お兄ちゃんを生かそうと一人で頑張ってたんだよね? でも今は、梅一人じゃなくて、私がいる。……私に何か、出来ることがあるかもしれない」

 若葉は、僅かに口角をあげた。

「……私が死ぬこと、以外でね?」

 冗談めかした口調で付け足す。梅がほんの僅かだけ、項垂れた頭をぴくりと動かした。

「……まずはお金かな。目先の問題として、薬代を用意しないといけない。でも私にお金なんてないから、全財産叩いても精々一日分くらいにしかならないだろうけど……」

 若葉は顎へ手をあて、悩むように視線を上へとあげた。

「……朱宮さまを頼ろうか。私がなんでもするからお金を貸してほしいって頼んだら、彼女は取引に応じてくれるかもしれない」

 合理性を重視する組織の長だ、金以上の利益が提示出来れば話をきいてくれる可能性はある。梅が垂れる前髪の奥で鼻を啜った。

「それから、お兄ちゃんの病気。そっちは、根本的な解決をしないと駄目だと思うんだけど……あのさ」

 若葉は梅へと視線を戻した。少し、声色を落とす。

「実はさ……亡くなった私の友人……文樺がさ、『不可侵の医師団』志望の子でさ」

 梅がゆっくりと顔をあげた。長い前髪の間から、大きな瞳が顔を出す。

「彼女、ずっと薬に頼らない治療法を研究してたんだ。勉強熱心な子で……ノートも沢山残ってる。……だから、彼女の遺品に……薬以外の治療法に関して、何か手掛かりがあるかもしれない」

 梅の瞳が、見開かれた。若葉の言葉によって、彼女の絶望に染まった瞳に、一縷の希望の光が見えた気がした。

「まだ諦めるには早いよ、梅」

 若葉は梅の前に片手を差し出した。軽く開かれた白い掌は、迷子の手が重なるのを待っている。

「一緒に生きよう」

 梅は目の前に差し出された手をひたと見つめた。彼女は瞬いた。涙が溢れて、青白い頬を伝っていった。彼女の中で、様々な葛藤と感情が蠢いているようだった。今まで一人で兄を救うために、若葉の想像もつかないような壮絶な人生を送ってきたのだろう。世の中がそんなに甘いものではないことを、彼女は嫌と言う程知っているようだった。若葉の言うような希望溢れる未来なんて実現するはずがないと、彼女の冷静な部分が囁いているのだろう。

 若葉は根気強く、手を差し出したまま梅の結論を待った。梅の答えは、わかっているような気がしたのだ。短い間だが、若葉は梅と関わり、彼女の人となりを知った。彼女はきっと、このような場所で立ち止まるような人間ではない。梅が兄の話をしていた時の表情を思い出せば、それがわかる。例えその先が未知数だとしても、大切な兄のためになるのならば、挫けず一歩を踏み出せる人間だ。

 長い沈黙が過ぎていった。やがて、梅はゆっくりと手を伸ばした。細く青白い手が、ぎこちなく若葉の手に迫る。まるで初めて見るものを前に警戒する猫のようだった。そして、若葉の差し出された手に、骨ばった手が重ねられた。若葉は、優しくそれを包み込んだ。梅の手も、同じ様に柔らかく握り返してくれた。

「殺そうとして……ごめんなさい」

 梅はぽつりと呟いた。まるで悪い事をした後の子供のような声だった。そして、顔を若葉へとあげた。小さく息を吸う。

「あたし……貴方の言う通り、貴方と一緒に生きてみるよ」

 梅は真摯な瞳を、真っ直ぐと若葉へ向けた。

「大切な人のために、生きる」

 大切な人を、喪っていない者の言葉だ。文樺を喪ったばかりの若葉には言えない言葉で、そして今の若葉と同じ気持ちの言葉でもある。若葉は柔らかく微笑んだ。

「うん」

 若葉の想いは伝わった。そして、梅はそれを信じる道を選んだ。若葉ははにかんだ。自分と同じ絶望を味わわないために、彼女は正しい選択をした。それが途轍もなく、嬉しかった。

「貴方が大切な人を語る時……お兄ちゃんと同じ目をしていたから」

 最後の梅の言葉は小さくて、若葉にはよく聞き取れなかった。しかし、梅の瞳はきちんと前を向いていた。だからそれでいいと思って、訊き返すことはしなかった。

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