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第3話

 答えをきいた文樺は、少し顔の角度を下げた。眉尻は下げられ、その表情は悲しみに満ちていた。その顔が見えていないかのように、若葉は明るい声を投げた。

「安心して。文樺が『不可侵の医師団』に入ったとしても、私が稼いでくるから! きっと上手くいくよ」

「え」

 文樺は目を見張って、勢いのまま顔をあげた。目が合う。彼女は横の少女の顔を、驚きを以ってまじまじと見つめた。若葉は口角を上げたまま小さく首を傾げた。

「あれ? ……違うの?」

「な、なんで……私が『不可侵の医師団』に入りたいって思ってるって、わかったの?」

「ええ? そんなのわかるに決まってるじゃん」

 若葉は当たり前だというように笑みを零した。

「私達はずっと一緒だったんだからさ」

「……」

「文樺のことずっと見てきたんだから、わかんない方がおかしいよ」

 夕日に染まった文樺の唇が、微かに震えた。彼女の瞳には目の前の少女ではなく、その少女と共に過ごした今までの十数年間が映っているようだった。若葉と文樺は、生きてきたほとんどの時間を一緒に過ごしてきた。家が隣で、物心ついた時から傍にいて、親よりも共にいた時間は長くなった。親の葬送の時も、学校の通い始めも、熱を出した時も、抗争現場に遭遇した時も、いつ、どんな時だって、隣にいるのは目の前の少女だった。そんな相手の言葉に文樺は俯き、声を潜めておずおずと尋ねた。

「若葉ちゃんは……私なんかが『不可侵の医師団』に、入れると思う?」

「思う思う! 文樺は勉強熱心だもの。自信持ちなよ」

 『不可侵の医師団』は、小規模組織の医療集団である。どの組織に対しても分け隔てなく治療を行うことにより、文字通り攻撃してはいけない組織として名が通っている珍しい組織だ。どの組織にも治療を提供する一方、その対価としてどの組織からも攻撃を受けることはない。その特異性ゆえに潰されることは恐らくない組織であろうが、抗争ばかりのこの世の中、所属する者はかなりの激務になる。当然組織として金稼ぎも出来ない。独自性の強い唯一無二の組織だが、他の小規模組織同様、力も金もない集団である。巨大組織である『ブルー』と『ラビット』の気がひとたび変われば壊滅させられる可能性は大いにあるし、お金に困ることだってあるかもしれない。

 それでも、そこに入りたいと思う文樺の気持ちは本物だろうと、若葉にはわかっていた。文樺の治療に対する熱意は本物だ。連日図書室に籠って医学書を読み漁り、自宅には書き写したノートが何冊も並んでいる。若葉が怪我した時には、いつも文樺は率先して迅速で適切な治療を施してくれた。医療について語る時のきらきらした目、たまたま街で見かけた『不可侵の医師団』の少女を見る時の憧れに満ちた顔。クラスメイトが具合が悪そうな時は真っ先に声をかけ、感謝された時の笑顔は輝いていた。その瞬間は、若葉が見てきた中で一番幸せそうだった。いつも彼女が医学を勉強しているのは『不可侵の医師団』に入りたいからなのだと、若葉が察するには充分だった。

「いつも夜遅くまで勉強してるでしょ。真剣な顔でさ……。……私、文樺が『不可侵の医師団』に入ってくれたらすっごく嬉しい」

「若葉ちゃんが? ……嬉しいの?」

「うん! 私が『ブルー』で怪我しちゃっても、文樺がいれば安心! ……なーんて」

 若葉がお道化て笑ってみせると、ぎこちないながらも文樺も笑みを零した。

「……本心だよ? こんな世の中だけど、私は文樺に、自分のなりたい道を歩んで欲しいんだ」

 若葉は穏やかにそう告げた。日々は争いばかりが侵食していて、命は常に危険に晒されている。そんな中でも、文樺には少しでも笑って、輝いていて欲しい。小さい頃からずっと一緒にいた、頑張り屋で、健気で、内気で、勉強熱心な親友には、ほんの僅かでも報われて欲しいのだ。

「そっか」

 朱色に染まる髪を耳に掛けて、文樺は嬉しそうに笑った。それから、じっと若葉の双眸を見つめた。少し首を傾げたせいで、肩からサラサラと艶やかな髪が零れていった。

「私とおんなじなんだね」

「おんなじ?」

 きょとんとして訊き返すと、文樺は小さく頷いた。

「私も、若葉ちゃんには望む未来を掴んで欲しい」

 文樺は愛しさを滲ませる目を細めた。

「だから『ブルー』に入るなんて言わないで。若葉ちゃん」

「……」

「優しい若葉ちゃんには、似合わないよ」

 じっとこちらを見つめる大きな二つの瞳から、若葉は顔を逸らした。芝生に伸びる、先刻よりも長くなった黒い影をじっと見下ろす。

「私、運動神経は昔からいい方だし、立ち回りだって要領よくこなせる自信がある。私なら『ブルー』に入っても上手くやっていけると思うけどな」

「確かに若葉ちゃんなら上手くやれると思うけど、でも、それは若葉ちゃんが本当にやりたいことじゃないでしょ?」

 若葉は横の少女へと顔を戻した。

「……なんでそう思うの?」

「だって、ずっと一緒にいて、若葉ちゃんのこと、見てきたから」

 文樺は若葉を真っ直ぐと見つめたままそう言った。結局文樺の言う様に、『同じ』なのだ。若葉が文樺に対して心の内がわかるように、文樺にだって若葉の心の内がわかる。若葉は小さく首を横に振った。

「……『ブルー』に入ることは、私のやりたいことだよ? 私の本当にやりたいことは、文樺と一緒に生きていくことだもの。そのためには、『ブルー』に入るのが一番手っ取り早い」

「本当にそうかな? 『ブルー』に入る以外に、他にも道はあるはずだよ」

 文樺は真剣な表情で、確信を込めたようにはっきりと言った。真っ直ぐ見つめる瞳、固く結ばれた唇。冗談にも励ますための嘘にも、とても思えない。彼女は本気でそう思っているらしかった。そして彼女がこの表情をする時は、彼女は諦めることをしない。その目的のために、何処までも突き進む。小さい頃からずっと一緒だった若葉は、それを知っている。

「……そっか」

 若葉は苦笑を漏らした。それから、嬉しそうにはにかんだ。

「文樺が言うなら、そうなのかもしれないね」

 今の世界で若葉達が生きていくためには、『ブルー』に入る以外の道は現実的ではない。それでも、文樺は若葉の気持ちを尊重し、より良い道に進むために最大限力になろうとしてくれている。そして彼女は若葉のことを大事に思い、若葉にとっての光輝く未来を精一杯目指そうとしてくれている。なんだかそれだけで、不思議と元気と勇気が無限に湧いてくる。文樺の言う言葉が、本当になるような気がしてくる。若葉の心に、温かいものが満ちていった。

「うん」

 文樺は少し勝気な笑みを浮かべた。彼女にしては珍しい、自信のある強い声色だった。若葉を安心させるように見せた笑みは、恐らく普段隣にいる人を真似て作られた表情だ。

「じゃあ、将来は文樺のボディーガードでもやろっかな。『不可侵の医師団』で雇ってくれたりしないかな」

「ふふ、交渉してみる余地はあるかも」

 明るく冗談めかした言葉に、文樺は口元に手をあてて小さく笑った。そうだ、文樺が言うのだ。きっとどこかに道はある。

「私ね、若葉ちゃんが本当は真っ直ぐで、危機に陥っている人に躊躇いなく救いの手を差し伸べられる人だって知ってる。それに、いつも頭の中でいろいろなことを考えてくれてるってことも。私、若葉ちゃんのそういうところ、すごく好き。……それはきっと、『ブルー』みたいに暴力を重んじるところじゃなくて、他にもっと活かせる場所があるはずなの」

 文樺の瞳が、橙色を反射してきらきらと輝く。

「若葉ちゃんが——ここにいたいって思う様な場所が。私はそれを心から応援したいんだ。若葉ちゃんが、私が『不可侵の医師団』に入ることを応援してくれているように」

 彼女の顔を見れば、それがすべて本心からの言葉だということは明らかだった。曇りのない目を向ける文樺に、若葉は照れたように笑みを零した。この込み上げる嬉しさは、言葉に出来そうにない気がした。「ありがと」と感謝だけを返し、若葉はオレンジに染まった芝生の上で立ち上がった。文樺は隣で腰を下ろしたままそれを見上げた。若葉が嬉しさを感じていること、そしてそれを言葉に出来ずに照れていることも、全てわかっているようだった。だから彼女はそれ以上声をかけず、思い出したように手に残ったドーナッツを口に入れた。その横で、若葉は背筋を伸ばし、大きく深呼吸をした。周りの深緑を全身に感じ、肺の奥底から深く吐き出す。

「うん。……文樺となら、どんな未来でもやっていけそう」

 若葉はくすりと笑い、その瞳を煌めかせた。暗く淀んだ未来も、隣に文樺がいれば、きっと明るく輝くものに変わる。小さく呟かれた言葉は、隣でドーナッツを食べる少女の耳には届いていないようだった。

 太陽が山々の奥へと落ちてゆく。朱色の光も共に消え始め、遠くで夜の帳が下りてくるのが見えた。そこには冷たい漆黒が広がっていた。辺りを覆う闇夜から、誰一人として逃げることは出来ないとでも言うかのようだった。それには見えないふりをして、深呼吸を終えた若葉は再び芝生へと腰を下ろした。そして二個目のドーナッツを取り出し、勢い良く頬張った。

「美味しいね」

「うん、美味しいね」

 夕焼けに照らされる中、二人は笑みを咲かせ合った。文樺おすすめのドーナッツは本当に美味しかったけれど——しかしもし口にしたのが泥や砂であったとしても、隣に文樺がいるのであれば、きっとそれは御馳走に変わるのだろう。彼女が隣で笑っていてくれれば、それだけで若葉はお腹いっぱいに満たされるのだから。




***




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