第29話
暗闇の中、衣擦れの音がした。梅も立ち上がったらしい。
「……なら、あたしが無理矢理殺すだけだよ」
冷え切った声だった。若葉は見えない視界の中、僅かに腕を伸ばす。空気ばかりが広がり、指先が何かに当たることはなかった。辺りには何もないようだ。桜や梅と物を取りに行った倉庫とは違い、この部屋にはほとんど物が置かれていないらしかった。
「今日も、お兄ちゃんが家で待ってるんだから」
梅の言葉は、語気に覚悟が滲み出ていた。僅かに声が震えたのは、家で待つ兄を脳裏に思い描いたからなのかもしれない。
「貴方だって、桜だって……皆殺して、薬代に変えてやる!」
「諦めない! ——もう喪うのは、沢山だから!」
少女達の炎のような叫び声が燃え上がり、余韻を残して消えていく。暗闇の中、床を蹴った音がきこえてきた。息遣いと衣擦れの音で、相手との距離を探る。足音が僅かに遠のいた。梅は若葉の方へ向かってきていないようだ。どうやら出入口の方へと向かったようだった。
(明かりをつける気だ。銃を持っているのだから、目視出来た方が有利と見たんだね)
若葉は片目を瞑った。なるべく距離を取ろうと、扉とは逆、部屋の奥へと後ろ向きに移動する。
不意に、部屋が白くなった。視界が奪われる。……梅が明かりをつけたのだ。若葉は瞬時に瞑っている目をスイッチし、こちらへ向く銃口を探した。梅も同時に、素早く若葉の位置を特定し、その頭へ銃口を合わせた。瞬時に引き金が引かれる。若葉は即座にしゃがんだ。臓器が目的なら、梅は頭を狙うはずだ。売り物に傷はつけられない。その分、狙う位置は高くなる。若葉がその弾道より下の位置にいれば、当たることはない。そして、梅の持つ銃の残りの弾数は僅かなはずだ。一発でも消費させることには、意味がある。
弾は若葉の頭の僅かに上を過ぎていった。髪先が数本、巻き込まれて千切れた。後ろで部屋の壁にめり込んだような音がきこえてきた。それと同時に、梅の持つ銃のスライドが後退したまま止まった。……弾切れだ。
「……っ!」
梅は唇を噛み、引き金から指を外した。そして空砲の銃を、片手で強く握りしめた。どうやら構え方からして、鈍器として扱うつもりのようだった。明るくなった室内は、梅の顔がよく見えた。彼女は長い前髪の間から、獲物を狙うような目を向けていた。絶対に逃がさないと、その瞳が燃えていた。若葉は自身の身体の陰で、密かに右手をポケットへと入れた。固い感触があたり、それを握る。
梅が長いスカートの下で、地面を蹴り上げた。薄いふんわりとした紅のグラデーションが、クラゲのかさのように広がった。一気に若葉へと距離を詰める。右手を振りあげ、その勢いを利用して若葉の頭へと銃身を振り下ろした。その下で、若葉はポケットから折り畳みナイフを抜き出した。『ブルー』の少女がやっていたように、勢いを利用して空中でその刃先を出す。
血の垂れる左腕で頭を守りながら、ナイフを振りかざして迫りくる梅の腕へ切りつけた。直後、左腕に衝撃が走った。骨に鈍い痛みが伝わり、身体が後方へよろめいた。同時に目の前の腕に一直線の赤が走り、血が滲んでいく。左腕の重い痛みと痺れに顔を歪めながらも、ナイフの方向を変え、再度力の限り振りかぶった。梅の剥き出しの手首目掛けて、刃先で切りつける。狙うは先程自身が梅に攻撃され、手に力が入らなくなってしまった場所だ。
「!」
梅は手首の筋を切られ、銃を取り落とした。床に打ち付けられた銃身が音を立てる。若葉は瞬時に足を振り、それを蹴った。銃が回転しながら床を滑り、遠くの壁に当たって止まった。
若葉は右手のナイフを握り直した。いつでも切りつけられるように構える。梅は呆然とした表情で、その場で崩れ落ちた。……彼女も、若葉の力と自分の力に差があることをわかっているのだろう。体術で戦うとなれば、梅の方が明らかに不利だ。手数は梅の方が多いだろうが、圧倒的に筋力と体力が足りない。さらに若葉は今、武器を所持している。梅は負けを悟ったように、床についた両手を握り締めた。
「いつの間に……ナイフなんて持ってたの」
低い声は、諦め切れない想いが滲んでいるようだった。恨めしそうに声が震える。
「……梅は知らなくて当然だよ。これは、朱宮さまに貰ってたものだもの」
「……」
俯いた梅の顔は、若葉からは見えなかった。ただ、歯軋りの音がきこえてきた。
遠くで何かが燃えるような音がしていた。銃声も小さくきこえる。それらがよく響くくらい、部屋の中はしんと静まり返っていた。若葉は何も言わずに項垂れた頭を見下ろした。やがて、梅の拳に、水滴が降って跳ねた。梅の肩が小刻みに震える。
「……うう……」
嗚咽が混じる。若葉は見下ろしたまま、眉尻を下げた。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……!」
梅は大切な人の名を呼んだ。涙が後から後から零れ、床を濡らしていった。
右手に持ったままのナイフは、部屋の照明にその刃を光らせていた。しかし若葉は、目の前で震える少女に向けて、それを刺したりはしなかった。
「……」
若葉は唇を結んだままだった。そして静かに、折り畳みナイフを畳んだ。血に飢えた刃先は隠れ、やがてポケットへと仕舞われた。若葉は泣き崩れる後頭部を見下ろしたあと、ローファーを一歩踏み出した。梅の横を通り過ぎる。……若葉の今すべきことは、桜の救出だ。桜のもとへ行って、桜を助けられればそれでいい。梅は今武器を持っていない。若葉に手出しは出来ないだろう。ならばこのまま放って行っても、桜の救出に影響は及ぼさないはずだ。
そのまま扉へ向かおうとした若葉の足へ、腕が巻き付いてきた。縋ってきた両腕に固定され、思わず若葉は梅を振り返った。彼女は痩せこけた顔を涙に濡らし、若葉を見上げていた。クマのひどい、青白い顔。その瞳は、一心に若葉を見つめていた。
「……。お願いがあるの」
彼女は涙ながらも、固い決意の滲む声をあげた。
「お兄ちゃんの薬代のために……」
若葉は隠せない困惑とともに、梅の顔を見下ろした。
「……あたしを殺して、臓器を売ってほしい」
若葉は一瞬、言われた言葉を理解出来なかった。固まったまま、ただただ梅の顔を見つめる。
「お兄ちゃんは、毎日薬を飲まないと死んじゃうの」
梅は顔を悲痛に歪めた。
「あたしの臓器を売って、明日の分の薬に換えて欲しい。この部屋は普段使われていないから、ここに置いておけば組織にバレることはない。うちの組織は臓器の売買に関わることを禁止してるけど、リュックかなんかに入れて持ち出せば気付かれない」
足に絡みつく腕はまるで廃墟に縋る蔦の様で、とても振り切れそうになかった。梅は最後の希望だというように、若葉を仰いだ。神に祈るように、その慟哭の如き激情を吐き出した。
「お願い……! お兄ちゃんのために、あたしを殺して……!」