第28話
右足に力を込め、梅のみぞおちの位置を狙って力強く蹴り上げた。……先程『ブルー』の少女にされた動きを、そっくりそのまま真似た。体術のエキスパートである彼女達の動きをトレースし、若葉自身がもろに喰らった場所へと全力でぶつける。梅はその衝撃に身体をくの字に反らし、よろめいた。縄で締める力が緩む。
「がはっ……! はあっ……」
若葉は大きく息を吸い込んだ。力の入らない身体を叱責するように、素早く上体をあげる。そして、今度は若葉が梅を押し倒した。体重をかけて、倒れるように覆い被さる。酸素不足によりままならない手を懸命に動かし、梅の肩を床へと押し付けた。大きく息をする度に、力の入らなかった全身に、感覚と温度が戻っていく。
「助けにっ……行かないと……!」
呼吸をするのに精いっぱいな口をなんとか動かして、言葉を発する。吸い込んだ空気を、それ以上に伝えたい言葉へと変えて吐き出す。
「桜を……助けに、行かないとっ!」
梅の顔へ、身を乗り出す。絞り出すように放たれた言葉は、梅の耳にも届いたはずだ。しかし梅は長い前髪の間から、目の前の顔を睨みつけていた。噛み締める唇は白くなっていて、今にも血が滲み出そうだった。押さえつけている若葉の手の下で、梅の右肩が動いた。そして若葉のこめかみに、何かが押し付けられた。感覚の戻った肌に、金属の冷たさが広がった。
「……」
いつも視線が合わない瞳が、今は真っ直ぐと若葉を見上げていた。
「……お兄ちゃんの薬代、払わないといけないの」
梅の口が歪み、歯軋りを挟む。
「いつも死体をこっそり持ち帰っているの……でもここじゃ、皆に見つかっちゃう。そもそも爆弾主体で殺し過ぎて、臓器が無事な死体がない……」
発言から察するに、梅は兄の薬代を稼ぐために、抗争現場から密かに死体を持ち出し臓器を売っていたらしい。しかし今日はいつもとは違い、本拠地に攻め込まれた。それにより、周りにバレずに死体を拝借することが難しくなってしまった。……つまり、売るための臓器を、こっそりと作り出さなければならなくなった。
「今日お金を作れなかったら……明日の分のお薬が用意出来ない! 薬が飲めなきゃ……お兄ちゃんが死んじゃうっ!」
彼女は目を見開き、肺の奥底から叫んだ。半狂乱の金切り声が暗闇に木霊する。
「だから——」
暗闇の中、横の指が動く気配がした。若葉は目を細めて、闇を睨みつけた。梅に銃のレクチャーをして貰った時を思い起こす。若葉が銃を扱った時、どれだけ的にあてるのが難しかったか。銃身の向き、握り方、そして人差し指の動かし方、様々な要素が絡み合い、ほんの少しの要素で着弾地点が変わってしまうということも。
若葉は左手を梅の肩から離した。即座に左ひじを折り畳み——思い切り外側へと押し出す。同時に身体を梅の方へよせ、その勢いを腕に乗せる。……『ブルー』の少女が、手を負傷した際に行った方法。体重移動を利用する突き込み。それの応用だ。彼女の勢いの乗せ方、体重移動の時の姿勢、肘の突き出し方。全てを頭の中で蘇らせて、自身の身体で再現する。若葉の左腕は、銃を持つ梅の腕をなぎ倒していく。
耳のすぐ近くで銃声が鳴った。まるで自分の耳が撃たれたかのように錯覚する程、至近距離だった。ただ、若葉の脳に衝撃が訪れることはなく、銃弾がめり込むこともなかった。天井の一角が小さく爆ぜ、続けて何かが落ちるような音が耳に届いた。
息がかかるような距離にある梅の顔は、銃弾を外したことにより強く歪んでいた。殺意を持った目が、若葉の顔を恨めし気に射貫いていた。先程謝罪の言葉を口にしていた時のような弱々しさは、微塵も残っていなかった。彼女も必死なのだろう。既に若葉を殺す意志は固いらしく、迷いは見えなかった。狙いを外したと認めた梅の次の行動は、再び若葉へと銃を向けることだった。銃口が再度若葉の頭を捉える。それでも、若葉は冷静だった。
(大丈夫。梅の銃は、もうだいぶ弾を消費している)
彼女と合流した後だけでも、計四発発砲されている。『ブルー』の少女に襲撃された時。『ブルー』の少女に奪われ、廊下の奥を威嚇して発砲した時。『ブルー』の少女によって、梅を殺すために発砲した時。そして今さっき、若葉を殺そうとした時。合流前に既に使用していたならば、それ以上に弾を消費している可能性もある。
……銃の練習をした時、的へ撃った弾はいくつだった? 使用している銃の種類は同じはずだ。あの時、何発撃ったら弾切れになった?
銃口が向かう先の頭で、必死に考える。先程梅は、『ブルー』の少女達の注目を引き付けるために、曲がり角の向こうへと折り畳みナイフを投げていた。走っている時のスカートの揺れも、ポケットに何かが入っているような動きではなかった。恐らく今の梅が所持している武器は、その手の中にある銃のみのはずだ。腕力や体力は、若葉の方が上である。銃弾さえ切らせれば、戦いは素人である若葉にも勝ち目があるはずだ。
「——大人しく殺されて!」
「嫌だよ! 桜を助けに行かなくちゃ!」
被せるように発せられた若葉の言葉によって、二人の叫び声が重なった。どちらも心の奥底からの咆哮だった。目と鼻の先にあるお互いの顔を、二人は敵に向けるような目つきで睨みつけていた。
若葉は上げたままだった左腕を、目一杯開いて伸ばす。同時に暗闇に向かって、素早く下げた。固く熱を帯びた物が触れた瞬間、その角度を修正する。すぐ横にある柔らかい感触を認め、即座にその手首を掴んで捻った。再び、若葉の左後方で銃声がした。腕の一部に熱さが走って、思わず声が漏れる。痺れるような痛みが襲った。同時に、皮膚が抉られ、外部に晒される不快感がじわじわと広がった。銃弾が掠ったらしい。しかし、若葉の身体に銃弾が埋まることは避けられた。掴んだままの梅の手首を、さらに捻る。銃口は照準が逸れたままである、梅は再度引き金を引こうとはしなかった。若葉に捻られている手首に力を込め、懸命に抵抗しようとしていた。
「死にたいんじゃ、なかったの……!」
若葉も梅もその手にありったけの力を込め、お互い望む方へと動かそうとする。二人の力は拮抗して、どちらの手も必死になって震えていた。梅は掴まれている手首に全神経を集中させていて、その声も絞り出すような声色だった。
「大切な人のために、死ぬんじゃなかったの!」
梅は空いている左手を、若葉の眼球目掛けて突き上げた。暗闇の中梅の指が目の前に現れ、若葉は慌てて顔を後ろへと逸らした。僅かに手首から注意が逸れる。梅の左手は若葉の眉間を掠め、辛うじて若葉の目に刺さる事はなかった。突き上げられた梅の左手は、そのまま若葉の左手首へと振り下ろされた。手刀のようにして、若葉の筋を精確に狙っていた。鈍い痛みと痺れが襲い、若葉の手首から力が抜けた。同時に梅の右手が若葉の檻から抜けた。梅は腕力はなくても、組織に属する戦闘のエキスパートだ。彼女は若葉に勝つ方法を、いくらでも知っている。……若葉だって、そんなことはわかっている。
「私だって、そう思ってた! でも、まだこの世に守りたい人がいるんだよ!」
まだ、銃弾はなくなっていないようだった。若葉は暗闇の中、視線を這わせた。見失った梅の手首と、その手に持つ銃を見据えるように目を凝らす。そして素早く梅の身体の上から退き、立ち上がった。足を後退させ、距離を取る。闇を睨みつけた。
「梅だって、わかるでしょ!? 大切な人を失いたくないんだよ! だから死ねない!」