第20話
「……」
じっと時計を見つめる若葉へ、桜は重い瞼の下の瞳を向けていた。物が並ぶ室内へ、一度迷うように視線を投げる。そして、再度若葉を見上げた。
「本当に……」
桜のぼそっと漏れた声は、とても小さかった。しかし狭く他に音もない部屋には、嫌にはっきりと響いた。
「本当に文樺さんが、貴女が死ぬことを望んでいるとお思いなのですか?」
開け放たれた扉から差す光が、薄暗い中に舞う埃をキラキラと照らしていた。
「文樺さんは……貴女に復讐や心中を望むようなお人なのですか? 貴女の話を聞く限り、わたくしにはとてもそうは思えません」
若葉は両手で時計を抱えながら、桜の顔をぽかんと見つめた。
「貴女が文樺さんの望むことがわからないというのなら……逆の立場で考えてみてください」
「……逆?」
「例えば貴女が死んでしまって、文樺さんが一人生き残った場合。貴女は、文樺さんに何を望みますか?」
「何を、って……」
「復讐ですか? 心中ですか?」
桜の真面目な顔は、淡々と言葉を発する。若葉は半ば被せるように、声を荒げた。
「そんなわけない! 私は文樺にそんなこと、絶対にして欲しくない」
「……では、それが答えなのではないですか?」
若葉は声を詰まらせた。桜は表情を変えなかった。
「貴女が文樺さんに望むことは、文樺さんが貴女に望むことときっと同じでしょう。貴女が死んだ場合、一人生き残った文樺さんに望むもの。それが、文樺さんが貴女に望むものです」
「……」
「わたくしは文樺さんではありませんので……わたくしにその答えを出すことは出来ません。それでも」
桜は重い瞼の下の目を細めた。
「若葉なら、その答えがわかるのではないですか」
若葉は桜の顔を茫然と見つめた。それからゆっくりと視線を落とし、手の中の時計を見下ろした。相変わらず画面に表示される時は進み続け、若葉を待ってくれることはなかった。
***
階段を使って自室へ時計を置きに行き、桜と別れた。その後食事スペースのある建物へと戻り、桜に指定された場所へと向かう。その間、ずっと若葉の心はもやもやとしていて、地に足のつかない感覚が続いていた。
桜の言葉が、脳内でリフレインしては消えていく。
(死んだ私が、一人生き残った文樺に望むもの)
それが若葉の求めている答えなのだと、そう桜は言っていた。
(そんなの決まってる)
若葉は廊下に敷かれたカーペットの上を歩きながら、俯いた下で泣きそうな顔をした。
(私のことなんて忘れて……生きて欲しい)
真面目で、誠実で、優しくて、友達想いで、勉強熱心なまま、生き抜いて欲しい。笑顔に溢れた日々を過ごして、少しでも幸せに。
(もしこれが、文樺が私に望むものなのだとしたら……)
柔らかなカーペットを進んでいた足が、止まる。
(……そんなの、無理だよ。文樺がいなくちゃ、生きてなんていけないよ)
視界には、厚い紅のカーペットと、止まって動かない自身のローファーが映っていた。その輪郭が、僅かにぼやけた時。
「あ……見つけた。あ、貴方が……鉄砲玉さん?」
きこえてきた言葉にはっとして、勢い良く顔をあげた。少し離れたところからこちらをじっと見つめる少女に気付く。桜よりは年上に見えるが、やはり若葉よりは年下のように見えた。彼女は建物にいる他の少女達同様、赤い制服に身を包んでいた。少女は若葉へと覚束無い足取りで駆け寄った。
彼女の顔は、生気を失ったように青白かった。骨が浮かびあがるほど痩せこけている。目にはクマが出来、色素の薄くなった黒というより灰色の髪の先はぼさぼさに跳ねていた。ただ手入れをしていないだけで清潔にしてはいるらしく、彼女からはシャンプーのもののような甘い香りがした。彼女は若葉の前まで来ると、ぎこちない笑みを浮かべてみせた。それから彼女は、親指の爪を噛んだ。部分的に欠けたボロボロの爪が、少し痛々しく感じた。
「あたし、梅っていうの。えっと。よ、よろしく……」
忙しなく目を泳がせ、小さな声で自己紹介をされる。挨拶に満面の笑みを足そうとしたのか、無理に目を細め、口角をあげてみせた。唇の端はその形に慣れていないようで、ひくひくと震えていた。丸く縮められた身体は、猫背という以上に若葉を怖がっているようにも見えた。
「……」
若葉はそんな梅に対し、その背の高い身を乗り出した。顔の距離が近くなり、梅は驚いて若葉を見上げた。
「あっ、やっと目が合ったね」
若葉は嬉しそうに声を弾ませると、にっこりと花が咲くような笑みを浮かべた。
「私は若葉。よろしくね」
梅は言葉を失ったかのように、目の前の顔を見つめた。固まってしまった梅を見て、若葉は身体の位置を戻した。そして、相手を労わるように声を掛けた。
「顔色が悪いけど、もしかして体調悪かったりする? それなら無理しない方がいいよ」
「お……お構いなく。普段から、こう、なので……」
梅は丸めた身体をさらに縮め、一歩後退しながらそう言った。ぎこちない笑みを貼り付けているが、やっぱり上手く笑えていなかった。目線は逸らされていて、紅いカーペットへと落ちている。
「桜が君から戦術を教わるみたいな話してたけど、合ってる?」
「そ……そう。合ってる……」
顎の角度が下がり、梅の長い前髪が目元を覆った。
「とは言っても……貴方は正式なメンバーじゃない、ってきいた。作戦に従うだけの、鉄砲玉だって……。だから、基礎的なこと、だけ……」
「教えてくれるんだ。よろしくね」
言葉の先を引き継ぎ、若葉は再び笑顔を向けた。梅はその笑みを一瞥し、再び床に視線を投げた。
「でもその前に……、もうお昼だから。……お腹すいた、よね?」
「お腹……」
若葉は梅の言葉に、自身のセーラー服を見下ろした。今日は朝からいろいろなことがありすぎて、そこまで意識が回っていなかった。ただ、先程時計で確認した時刻は昼時を指していた。
「すいてる……の、かも?」
曖昧な返事を返す。
「じゃ、じゃあ……食事休憩を、挟もう。三十分後、また迎えにくるから……」
「じゃあ梅も一緒に食べようよ」
「……え゛?」
濁音の混じった、変な声が梅の口から漏れた。彼女の血色の悪い顔から、さらに血の気が引いた気がした。
「まだ食べてないでしょ? お昼。よければ一緒に食べようよ」
「……、……」
「私、君のこといろいろと知りたいし。桜からこの組織のことは軽くきいたけど、まだまだわからないことも多いから、その辺も含めて」
ね? とその長い前髪の下を窺う。梅はぱくぱくと口を開けては、言葉にならない音を漏らした。しかし否定する理由が見つけられなかったのか断ることは失礼だと思ったのか、最終的に何も言わずに口を閉じた。ありありと嫌という文字を顔に浮かべて、彼女は頷いた。
「良かった。君は甘いものが好きってきいたけど、本当?」
先程桜に案内されたガラス張りの部屋へと、今度は梅と並んで歩く。梅は爪を噛んだ。
「す、好きだよ。でも、食べられるものなら、なんでも食べる。贅沢は言わない……」
「そっか」
扉を開け、テーブルと椅子が数多並ぶ空間を進んでいく。中には何人かの少女がいて、各々食事をしたり休憩をしたりして過ごしていた。カウンターと自販機が並ぶ場所までやってきた若葉は、「あ」と焦りの声をあげた。
「やば、鞄預けてきちゃったから、お金ないや……」
苦い顔をする若葉の横で、梅が視線を床に投げたまま口を開く。
「……だ、大丈夫。ここで食べるのに、お金は、不要……」
「天引きってやつ?」
「ううん。食事代は、組織の方で負担してくれるから……。払わなくて、いいの……」
「太っ腹だね。じゃあ、お言葉に甘えよっと」
若葉は驚いたように言った後、すたすたとカウンターへと向かった。梅もその後をついてくる。
「腹が減っては軍は出来ぬ、って言うでしょ。身体は資本、倒れたり頭が回らなかったりしたら、皆の足を引っ張る。だから、普段から栄養をつけておかないと。とっても、合理的……」
「なるほどねえ……」
この組織に属する者は皆、何彼につけて合理性を好み、重視しているようだ。そして組織の体制一つ一つにも、きちんと理由付けがなされているようだった。さすが頭を使うことを武器にしているだけある細やかさだ。
二人はお盆の上に親子丼とお吸い物、水の入ったコップとミニカップに入ったババロアを乗せた。外に面した隅の席を選ぶと、向かい合ってテーブルについた。