第18話
「……朱宮さまは『ブルー』と『ラビット』を壊滅させて、理想の世界を実現させるって言ってたけど、それが組織の方針?」
「そうですね。『ブルー』および『ラビット』の殲滅、そして朱宮さまがこの国を掌握することこそが、我々の望みです」
桜は長い廊下の先へ進むことなく、左手の奥まった場所へ入っていった。若葉もそれについていく。やがて細い通路を抜けると、桜は立ち止まった。目の前で、大きな観音開きの扉が出迎えていた。繊細な模様の躍る扉の周りを、ガラス張りの壁が覆っている。中にはテーブルやイスが数多と並んでいた。どれも真っ白で、清潔感に溢れている。その奥にはカウンターがあり、厨房があるようだった。その横に並ぶ自販機も見える。
「食事時には、こちらにいらしてください」
桜は掌を奥へと示し、まるで案内用の機械のように事務的に告げた。
「わかったよ。……ねえ、桜は何か好きなものはあるの?」
「好きなもの?」
「そう。食べ物」
予想だにしていなかった質問だったらしく、桜は顔を顰めた。しかし律儀に答えようとして、口を開く。
「別に、特に好き嫌いはないですね。なんでも美味しく食べます」
「そっかあ。じゃあ、最近出たキャラメル味のチョコレートとかは?」
ガラスの奥を見ながら、若葉は静かに尋ねる。桜はその顔を横からじっと見上げ、すぐに顔を戻した。
「嫌いではありません。ただ、そうですね……梅なんかは、特に好きかもしれませんね」
「梅?」
「仲間です。後程貴女に戦術面を教示する予定ですので、用意しておいて損はないですよ」
「……チョコレートを入れた鞄、クラスの子に預けてきちゃったんだよね。今は持ってないや」
そうですか、という言葉を残し、桜はさして興味もなさそうに会話を切り上げた。そして扉を離れて歩き出す。若葉は慌ててそれについていった。
桜は未踏の廊下の先へ進まず、二人が来た道を戻り始めた。休憩スペースは、既に人影がなくなっていた。噴水だけが流れ続ける横を先程とは逆進しながら、若葉は再び口を開いた。
「さっきの話の続きだけど、朱宮さまの目指す理想の世界ってさ、どんな世界なの?」
軽い調子で尋ねられた言葉に、しかし桜はすぐには言葉を返さなかった。
「……さあ……」
消え入りそうな音量で、曖昧な返事が返ってくる。それを誤魔化すように、桜は顔をあげた。
「恐らく……頭を使う者こそが利を得て、生き延びられるような世界なのではないでしょうか。暴力や狂気に脅かされないような、規律に則った秩序正しい世界。朱宮さまの日々の行動やお考えをきいている限りは、そのように思います」
「ふうん、そっかあ。……それが『ブルー』の長とか『ラビット』の長との共存って可能性はないの?」
突拍子もない若葉の言葉に、桜は訝し気に眉根を寄せた。
「……どういう意味ですか?」
若葉は答えなかった。桜は理解出来ないという顔ながらも、きちんと自分の考えを返した。その語気は強かった。
「あり得ません、絶対に。そもそも言いましたよね、わたくしどもは『ブルー』と『ラビット』の殲滅を目指して日々抗争をしております。我々がこの世界に安寧を齎すためには、『ブルー』の長と『ラビット』の長の首を取ることは前提条件なのです。二つの組織の者達を見てきた貴女にもわかるでしょう、あんなに狂暴な奴ら、共存など到底無理です。組織員でさえああなのに、トップとなれば、もう……」
忌々し気に言葉を切り、桜は拳を握った。
「そっかあ……」
確かに林檎は『ブルー』と『ラビット』の壊滅が目標だと言っていたし、縹を殺さないとは一言も言っていなかった。……そもそも、あの写真と彼女の言っていたことが全て本当だったと仮定した場合の話だが。
(例えば私が文樺を殺さなくちゃいけない状況になったとして、私は一体どうするかな……)
若葉は小さく首を振った。
(いや……無駄な思考だな。そんなの殺さずに守るの一択だし、そもそも文樺はもういないし……)
寂し気に、目尻を細める。窓から差す光に照らされて外を見れば、いつの間にか太陽が高くのぼっていた。
(朱宮さまの理想の世界って、一体どんな世界なんだろう。そこに縹や『ラビット』の長はいるのかな)
窓の外で、近くの木から小鳥が飛び立った。小さい身体で懸命に広い空を泳ぐ姿を、ぼんやりと眺める。
桜はしばらく行ったところで立ち止まった。桜の目の前には、木製の重厚な扉が聳えていた。案内人はついてきていない客人を振り返った。窓辺でぼんやりと外を眺める若葉を遠目に見ると、桜は急かすことなく、静かにそれを見守った。若葉は目的地に到着したことに気が付き、窓の外から顔を戻して桜のもとへぱたぱたと駆けた。
若葉が傍へ来たことを確認すると、桜は扉を開けた。小柄な彼女には少し重そうだった。中は広く、まるでホテルのパーティ会場のようだった。
「ここは?」
「会議室ですね。重要な会議や大人数が参加する場合はこの部屋を使用します。貴女が何等かの作戦に加わる場合、この部屋に呼ばれるかもしれません。場所を覚えておくといいでしょう」
桜は自分達がやってきた方角を指差し、「ちなみに少人数用の会議室は反対側にあります」と補足をした。若葉はだだっ広い部屋の中を覗いてから、頷いた。
「ねえねえ」
「はい、なんでしょう」
「その少人数用の会議室も案内してくれない?」
桜は一瞬目を丸くした後、首を縦に振った。
「……意外と乗り気なのですね。安心しました」
「乗り気?」
「殉職に」
「……あはは」
若葉はからからと笑った。桜は冗談で言ったわけではなかったらしく、若葉と一緒になって笑ったりはしなかった。
「文樺に会いに行けるからね。そりゃ乗り気にもなるよ」
「どういう意味ですか?」
若葉は部屋を出ると、やって来た道を再び歩み出した。桜もそれに続き、横に並ぶ。
「……わからなくなっちゃったんだ。文樺が望んでいることが何なのか。私は『ブルー』を皆殺しにして、文樺の仇を討つことこそが文樺のためにしてあげられることだと思ってた。でもそうじゃなくて、もしかしたら文樺は今、一人で寂しがっていて、私にそばにいて欲しいんじゃないか、って。文樺が本当に望んでいるのは、私が彼女に会いに行くことなんじゃないか、って……そう思ったの」
寂しそうに目を伏せる若葉を、桜はじっと見つめていた。
「それは……宗教観にも通じる話ですね。そもそも死後、貴女に居て欲しいとか寂しいと思うような心や脳は備わっているのでしょうか? 貴女を待つような場所や空間が、死後の世界に広がっているのでしょうか?」
「……真面目だねえ。そんなこと、よく考えなかったな」
若葉は苦笑を漏らした。しかし、この真面目さには覚えがあった。例えここにいるのが今は亡き友人でも、同じ言葉を放っている気がした。
「そういうところは深く考えなくていいからさ。つまり……私が文樺のためにしてやれることは何か、って話。文樺が私に望んでいるものって、一体なんだろうって考えて、その結論が君達の言う『肉壁』とか『殉職』だったってわけ」
穏やかな目で述べる若葉へ、桜は何も言わなかった。遠くを見つめる若葉から目を逸らし、顔を前へと向ける。そしてただ一言、「そうですか」と返事をし、桜は会話を締めた。